315 ただいま旅行中

聖書箇所 [民数記9章18節]

 江戸時代の後期に司馬江漢という洋画家がいた。日本画から始めた人だが、西欧の影響を強く受け、蘭学を学び、大槻玄沢と協力して日本で初めての銅版画を創製、平賀源内について物理学を学ぶというふうで、多芸多才、レオナルド・ダ・ヴィンチ型の”万能の天才”であったようだ。この江漢が、何を思ったか、知人、友人に自分の死亡通知を送り、家にひっそりとこもって暮らした。たまの外出をしたある日、街で知人から声をかけられた。死亡通知を送った相手だったから、知らん顔して行き過ぎると、どこまでもしつこく声をかけてくる。たまりかねて、「死人が口をきくか!?」と、口をきいてしまったそうである。……
 『東海道中膝栗毛』などのユーモア作品で有名な戯作者、十返舎一九の死にさいして……「湯灌をすべからず。着物もとりかえず、このまま納棺すること」と、家人にへんな遺言をした。……さて、葬儀もすんで……火葬に付すべく、薪に火をつけ、遺族らが拝んでいるとドカドカンと大音響を発し、中天に七色の花火が上がった。一同が腰をぬかさんばかりに驚いたこと、いうまでもない。送りにくる連中をビックリさせてやろうと、一九が着物の裏に、いくつもの花火の玉を縫いつけておいたのだった。(櫻木健古『笑いの力が人生を開く』PHP) 

 死んだ後もなお人生を楽しもうというたくましさが感じられる話ではないでしょうか。あなたはいま人生を楽しんでいらっしゃいますか。正しい考え方をしていれば楽しめますよ、どんな場合も。私たちの人生にはさまざまな困難があります。辛い事がいろいろとあります。しかし正しい考え方をしていればどのような場合にも生きることに楽しみは尽きることがありません。淀川長治が「映画っていいですねエー」と言いながら亡くなりましたが、私たちも「人生っていいですねエー」といつも思いながら暮らす事ができます。さて、人生は旅行です。その旅行中に起きるであろうすべてのことが紹介されているのが旧約聖書、そしてイスラエル人の歩みです。特に荒野を旅する彼らからは多くを学ぶ事ができます。ただし立派な添乗員がいますので、安心です。もちろんそれは私たちの、そしてあなたの神さまです。さあ、正しい考え方とは何か、これを学びましょう。

帰る所を知っている

 旅行には出発点があるばかりでなく、帰着点があります。ゆえに旅行は楽しいのです。帰って来てから思い出話に花が咲きます。私がはじめて中国に行った時のことです。聖書を地下教会にプレゼントする働きを手伝いました。さあこれから出かけようとタクシーをやっとのことで見つけました。私が所属するグループと、その後で合流した他のグループで七人になりましたが、その車には六人しか乗れません。だれが乗らないのかで顔を見合わせました。瞬時に私が手を挙げました。あーあ、唯一私が牧師であることの辛さ!私は言葉のまったく分からない世界においてきぼりをくいました。結果としてなんとか地下鉄とバスを乗り継いでホテルに帰り着いたものの不安感と冷や汗の連続でした。以来これを教訓に中国語を勉強しましたが、今は楽しい思い出です。帰る所があるからこそです。イスラエルにとってはパレスチナ。あなたにとって、それはどこですか。天国です。
 さて旅行中にはどんなことを私たちは経験するのでしょうか。まずは人との出会い。人に会うとその人がいままでにどのような人と出会って来たかが分かる、とはよく言われることですね。すばらしい人格と出会って来ていればそれなりの人格を形成しているはずです。あなたはいままでにどのようなすばらしい人との出会いを経験されましたか。出会いは化学反応。
 「すべての人を自分よりも優れた者と考えなさい」とはパウロの勧め。どんな人でもあなたのものより優れた部分を擁しています。学びましょう。しかしいかに優れていようと人間は人間。罪人です。イエスさまという人格にはかないません。イエスさまに出会ってください。あなたの人格と火花を散らしてください。最高の影響を受ける事を保証します。なにしろあなたのためにご自分の命を捨てるということまでできるお方なのですから。
 あるいは人生ではこういうことも少なからずあるでしょう。「私はあの人を赦すことができない。あんなひどい事をされたのだから。でも赦さなければ」。すばらしい葛藤ですねえ。そうです、すばらしい葛藤です。ある一定のレベルより上でないと経験しない、悩まない葛藤です。こうして人生において私たちは成長させられます。
 天国に帰った後、これらのことがどのように取扱われるのでしょう。これがまたすばらしい!成功したことはそのまま、あなたの得点。でも失敗したこともあるはずです。それらは十字架を信じる者への特典ですが、なかったものとみなされます。京都のある財界人が「こんなぼろい商売聞いたことない」と言って信仰に入りました。

家族と共に進む

 家族はとても大切です。互いに慰め、励まし、希望を共有します。イスラエル人の家族制度についてご紹介しましょう。たとえば民数記1章2節以降をご覧ください。イスラエル全家は12部族で成り立ち、各部族はいくつもの氏族で成り立ち、各氏族もいくつもの家族でそれぞれ成り立っています。専門的には12部族をアンフィクチオニーと呼び、12部族連合と訳します。ちょうど四角形の陣営を組み、進行方向では前面がイッサカル、ユダ、ゼブルンの各部族で合計186400人、南はガド、ルベン、シメオン各部族で151450人、西はベニヤミン、エフライム、マナセの各部族で108100人、北はアシュル、ダン、ナフタリの各部族で157600人です。なんといっても特徴的なのはこの四角形の中に、中心にレビ族が守る天幕、すなわち神の幕屋(礼拝所)がありました。すなわち人間の総体的な(精神的、肉体的、霊的)健康は神への礼拝によって保証されるというメッセージがここにはあります。そこで私は信仰の家族が住む近くに礼拝所としてのチャペルをあちらこちらへと建設しています(2005年12月現在で関東地方4県に10チャペル)。いつでも気楽に身近に礼拝、祈り、交わりなどができるようにと。というのは私たちの弱さは身近な者を、つまり肉の家族の事ですが、意外に大切に出来ません。感謝の心が持ちにくい。これは現実です。
 
 ある男がラビのところへ行き、家が狭くて困っていると訴えた。「先生、私の家はとても小さくて妻と子どもたちと、それに私の兄弟までが一つの部屋で暮しているんです。窮屈で、どなりあいばかりしています。なんとかならないもんでしょうか」ラビは男に牛を飼っているかとたずねた。飼っていると答えると、ラビはその牛を家のなかで飼うようにと言う。男は不思議に思いながらもその言葉にしたがったが、一週間後ふたたびラビのもとを訪れ、家のなかはますます悪化したと訴えた。するとラビは、二頭の山羊も家に入れるようにと言う。男はこんどもラビの言葉のとおりにしたが、しばらくするとまたもやラビのもとを訪れ、以前とは比べものにならないほど事態は悪くなったと訴えた。ラビはこんどもほかにどんな動物を飼っているかと男にたずね、犬と鶏がいると答えると、それらも全部家に入れて、一週間後にようすを知らせに来るようにと言うだけだった。男はすっかりあきれながらも家に帰り、助言に従った。そのつぎラビのもとを訪れたとき、男は泣き叫んでいた。「もうだめです。がまんできません。なんとかしないと気が狂いそうです。先生、お願いですから助けてください!」「まあ聞きなさい」とラビは言った。「牛を部屋から出して納屋へ入れる。山羊は庭へ放す。犬も外へ出し、鶏は鶏小屋へ入れる。そうやって二、三日たったらまた来なさい」二、三日後、男は見るからに嬉しそうなようすでやってきた。「先生、ありがとうございました。家のなかに妻と子どもたちと義兄弟だけだと、なんと広々としているんでしょう。おかげですばらしくいい家になりましたよ」(『笑いの治癒力』創元社)

 教会に来て、しっかりと礼拝をし、お互いを大切にすることを学び、家庭に戻ると、仲良く暮らすことができます。

主が決断を導いてくださる

 人生には正しい決断が必要です。本質的に決断を要しないのは私たちの人生では一回きりです。それは誕生のとき。あなたはそのときに決断をなさらなかったはずです、カッパじゃーないんですから(芥川龍之介)。実に正しい決断こそが祝福の基礎です。どの学校に進もうか、どの会社に入ろうか、どの人と結婚しようか。たくさんの決断の機会があります。決して私たちはうぬぼれてはいけません。全知全能ではありません。間違え得るのです。私は過去の話が嫌いなのですが、今は話しましょう。新婚旅行のときです。わくわくしながら滅多にしない指定席の予約をしました。さていよいよ乗車するときが来ました。ところがなんとその車両には私たち夫婦以外にだれも乗って来ないではありませんか。自由席の車両に行ってみました。乗客の数は数えるほど。私の判断ミスでした。だれのせいでもありません。私のミスでした。あなたには判断ミスをしてほしくありません。イスラエル人はどのように判断し、決断したでしょうか。10章1、2節をご覧ください。そして9章17ー23節。雲の動きに合わせて、ラッパを吹き鳴らし、出立し、宿営をしました。そういう彼らはモーセに率いられていました。今日、モーセは聖書、雲は聖霊です。簡単に神さまの導きを知る方法をご紹介しましょう。
 @直感。これだ!と思う事ってありますね。ものすごいエネルギーを感じませんか。
 A平安。心の中に不思議にも自分を納得させるものがあります。
 Bみことばに感動。ちなみに私の受取ったみことばを紹介しましょう。あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄える(ヨシュア1:7) あー、なんという感動! C理性。よーく考えることです。何が正しいか。神さまはあなたに霊性(直感が働く場)のみならず知性をもくださいました。朝、食事をして、「神さま、どうか、歯を磨いた方がいいか、いま、導きをください」といちいち祈る必要はありません。磨いたらいいのです。
 D環境が味方する。一歩踏み出してみるとひとつひとつ道が開けて行くという場合です。
 最後の助言は、以上の中から2つまたは3つがあなたのしようとすることに、また進もうとする方向へ好意的であれば、それは導きであることの証拠と考えていいでしょう。練習をしてみてください。神さまに導かれる人生は最高に祝福される人生になる事を約束します。そのようにした一人の人を紹介しましょう。

 賀川豊彦先生は偉かったと思います。「死線を越えて」という彼の書いた本がベストセセラーになって、うなるほどのお金がころがりこんだ。でも入って来るお金を日々人々に与えてやまず、ご自分は貧しい貧民窟に住んで、貧民とともに生活された。それはやはり、主のみもとから来る命の水の川にひたって生きる喜びを知っていたからです。それこそ、また私たちの生き方でなくてはなりません。賀川豊彦という人は、幼くして四つ五つの頃にお母さんが死んでしまいましたから、徳島の田舎にある父親の実家にひきとられました。彼は妾の子だったので、そこで非常な冷遇をされました。二言目には「落とし子だ。あんたは敵の子や」と義母に言われながら育ちました。「徳島の空は私に暗く冷たかった」と述懐しておられます。因習的な田舎で、それに輪をかけたような生活を送らねばならなかった少年時代は、本当に残酷でした。やがて……宣教師に愛されて、神学校に入ったものの、ひどい肺病に悩まされました。そののち、豊橋で猛烈な路傍伝道をやりましたが、喀血して倒れて、死の境をさまよいました。しかし不思議な神との出会いを経験して、それから、療養中にある決心をしました。それは、自分は一生見込みのない人間だけれども、どっちみち死ぬなら貧しい人々の友となって死のうと、神戸の貧民窟に入っていったのです。……あるとき、耶蘇教の講演会と銘打って、伝道会を開きました。「私は妾の子です。芸者の子です。日陰者です。しかし、神様は私を愛してここまで育てて下さった」という話をし始めました。すると、そこに来ていた何人かの芸者さんが感動して、シクシク泣き出しました。彼女たちは、帰ってから他の芸者仲間にもその話を伝えました。すると、その芸者たち皆が、「賀川さん、賀川さん」と言って沢山押しかけてきたというのです。それを賀川豊彦先生は、「わしのように人気のある者はおらん」と笑っておられました。(『レムナント』1998.4)

 私たちはだれもが彼のようになる必要はありません。しかし神さまの導きに従い、そのつど決断して行く人生こそもっとも充実した人生であることを知ってください。愛の神さまによって応援された最高の人生をあなたが送られるように祝福を祈ります。