318 見えますか?暗闇の中の光

聖書箇所 [マルコの福音書15章40節、ヨハネの福音書19章25節]

 受難週のメッセージをお届けしましょう。通常は静かに過ごします。あまりごちそうを食べません。断食をする人も多い週です。ハレルヤ!も言いません。だって、イエスさまが苦しい思いをしていらっしゃる時期ですから。さて、町を歩きますと、さまざまな十字架が目に入って来ますね。そこでクイズ。赤い十字架はどこに?緑の十字架はどこに?青い十字架はどこに?答えは最後にあります。十字架とは何でしょうか?十字架とは神による救済行為!とは学者の答えです。その通りですが、もう少し噛み砕いてお話をしてみましょう。十字架とは暗闇。もしかすると真っ暗やみ。このときに私たちはテストされます。あなたは今、暗闇の中にいますか。何がテストされるのでしょうか。暗闇の間、私たちはこう考えます。「ほんとうに神はいるのだろうか?!」、「私の人生はほんとうに祝福されるのだろうか!?」などなど。このような状況でなお光を見い出した三人の女性を今回は取り上げましょう。彼女たちは十字架を見つめ、十字架から逃げ出さなかった人たちです。ちなみに十字架の場面に至ってはほとんどの男性の弟子たちは逃げて行ってしまいました。彼女たちは十字架から逃げず、ついにはその暗闇の中に希望の光を見い出したのです。何を見い出したのかとともに紹介しましょう。

マグダラのマリアー共感の能力

 マグダラは彼女の出身地です。ガリラヤ湖畔にあります。染め物と魚の加工業が主な産業です。マリアは町の有力者の娘で美しさと聡明さとは評判でした。しかし成人してから大きな困難が立ちはだかりました。七つの悪霊に取りつかれてしまったのです。婚期を控え、両親は悩み、金に糸目をつけずにあらゆる医者を訪ねました。占い師にもすがりました。でも何の解決にもなりません。悪霊につかれると心も身体もコントロール下に置かれます。自分の心や身体でありながら自分の思い通りにはなりません。他者がどうしてあんなことを言うのだろう、あんなことをするのだろう、といぶかしむようなことを平気でします。それでも本人は自分をコントロールできません。彼女のみならず、家族の苦しみはどれほどであったでしょう。しかし彼女に光が見えました。イエスさまとの出会いです。悪霊の追い出しをしていただきました。彼女は正気に帰り、いままでの試練は彼女を大きく変えました。福音書を読むと彼女はいつも人名の先頭に登場します。これは彼女がリーダー、あるいはリーダー的な存在であったことを意味します。リーダーにとって執拗な資質の一つは共感の能力です。人々はどんな気持ちでいるのだろうか。何を欲しがっているのだろうか、というふうに、気持ちを察する能力です。これに人々は従って来ます。それも半歩前かせいぜい一歩前程度。十歩前も進んで、振り向いたらだれもいなかったというのはいけません。私たちは共感してくれる人のもとに近付こうとするものです。そこには希望が与えられると本能的に知っているからです。

 八起会をご存じでしょうか。野口さんという方がボランティアでなさってます。従業員100人の会社を以前倒産させてしまった方です。今は同じ境遇にある方々の相談に乗っています。そのきっかけは、自殺者の多さに気付いたこと、そしてある人がその理由を「だれも話を聞いてくれないからですよ!」と教えてくれたことです。話を聞いてあげると人々は確かに希望を持ちはじめるのです。ここに共感能力の出番があります。同じ土俵に乗っていることの重要性。

 ダミアン神父をご存じでしょうか。19世紀のことです。ハワイのモロカイ島はハンセン病の患者が捨てられる島でした。犯罪のせいではなく、病気のせいで、人々は家族から捨てられました。いわば終身刑です。あるとき、彼は「彼らのために働きなさい」という神の声を聞きモロカイ島にやって来ます。33才の時でした。それからというもの、献身的に働きました。しかしあるとき、こういう話を耳にし、がくぜんとします。「ダミアン神父はキリストの話をする。それはありがたいことだ、だが、彼は私たちとは違う。いつでも島から出られるのだ」。やがてベルギーにいるお兄さんに次のような手紙を送ります。「ハンセン病になることは私の毎日の願いでした。なってみて私ははじめて彼らの痛みを自分の痛みとすることができました。神さまに感謝しています」。

 共感の能力はあなたをして多くの人々に希望を与えます。それは暗闇から逃げないでいる者に与えられるすばらしい特権です。それは同時にあなたの夢を実現させてもくれるものです。マグダラのマリアは十字架から逃げずに共感の能力を勝ち取りました。十字架から主イエスさまは「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか、分からないのです」。彼らは罪を犯しています。その罪は犯す自分を最初に傷つける性質のものです。主イエスさまはご自分が傷つけられている間、その暗闇の中にいらっしゃる間、共感の能力を養っていらっしゃいますマグダラのマリアはその、主イエスさまの共感の能力をいただきました。

イエスの母マリアー豊かな品性

 伝説によると彼女は金髪で、中肉中背、うす茶色の目をしていたと言います。性格は柔和で質素で、誠実。これらははじめから持っていたものではありません。試練を通して神さまからいただいたものです。彼女は女性であるならだれもが望んだであろう救い主の母親になる夢を達成しました。つまりイエスさまを身ごもりました。しかしこれが試練のはじまりでした。周囲から妬まれ、ついには成人してからが大変、暗殺指令が彼女の耳に達しました。母親としてはなんという悲しさ、辛さでしょう。いつわが子が殺されるか分からないのです。そしてついには十字架で殺されてしまいます。でも彼女は逃げません。暗闇から逃げません。ちなみに当時どのような死刑の方法があったでしょうか。

 1)むち打ち。皮のベルトようのものに魚の尖った骨や金属片を縛り付けます。恐怖感から叫び暴れる死刑囚の裸の背中めがけて力自慢の男性が力一杯降り下ろします。うめき声や叫び声が大きく響きます。やがて裂けた内臓がむちに引っ掛けられ、あるいは飛び出て来て、血と共に周囲に飛び散ります。

 2)石打ち。くぼ地に裸にされた死刑囚を突き落とします。第一投を証人がなし、続けて周囲から一斉に大きな岩が、尖った岩が無数に彼目掛けて飛んで来ます。骨は砕け、肉は裂け、血が吹き出ます。そこには石塚が出来ます。キリスト教最初の殉教者ステパノはこの方法で殺されました。

 3)死体との抱き合わせ。死後数週間経った腐乱死体とロープで縛られます。毒やウジ虫が体内に侵入して来ます。苦しみつつ、腐らせられつつ、死ぬまで広場に放置されます。

 4)十字架。しかしもっとも残酷だったのが十字架でした。地の上に置かれた大きな十字架の上に死刑囚が釘付けられます。両方の腕の付け根の部分と臑の部分に五寸(犬)釘が打ち込まれます。激痛で顔は歪み、うめき声は遠くまで伝わります。掘られた穴に立てられる時に全体重が両腕の傷にかかり、痛みは極度に達します。それでひざを伸ばして少しでも痛みをやわらげようとしますが、それがかえって臑の痛みを激しくします。こうして上下運動を続けながら、激痛と戦い、死んで行くのです。さすがにローマ帝国は自国民には採用しないと決定しました。
 こういった一部始終を母親であるマリアは見ていました。目を背けませんでした。なんという厳しい試練でしょうか。母親が自分の子どもの残酷な死を見なければならないとは。この試練が彼女を神的な品性を持つ者へと変えて行きました。そのような者を神さまは決してほおっておくことはなさらない。弟子ヨハネに向かってイエスさまは「私の母を頼む」とおっしゃいました。私たちの深層心理の中には「私は捨てられるかも……、私の人生は祝福されないかも……」という不安があります。十字架をしっかり見つめる者を神さまは見捨てることはなさらないことを覚えてください。あなたは神さまに愛されています。暗闇の中にあるあなたを神さまは忘れてはおられません。必ず光を下さいます。希望をくださいます。

ヤコブとヨハネの母サロメー献身

 マタイの福音書ではゼベダイの子たちの母(20:20)、ヨハネの福音書ではイエスの母マリアの姉妹(19:25)とされています。サロメとは平安の意味。でも彼女は決して平安ではありませんでした。理由はまもなく述べます。さて、夫であるゼベダイは町の有力者で、首都エルサレムに支店を構えるほどの実業家であり、大祭司の家に自由に出入りできる立場でした。サロメはイエスのおばに当たります。イエスは甥っこです。そこでつい自分の子どもたち、ヤコブとヨハネへの特別待遇を気安く頼んでしました(マタイ20:20-28)。もちろんイエスさまからは諌められますが、ここには自分の子どもへの所有欲が見てとれます。母親が自分の子どもを特別に愛するのは決して珍しい事ではありません。しかしこのようなことは母親に限られるわけではありません。人間の持つ普遍的な性質です。たとえば幸せとは何でしょうか。それは、価値あるものに取り囲まれている状況と言っていいでしょう。逆に言うと価値あるものに取り囲まれていないと不幸なのです。たとえば、「あの人がもう少しこうであったら、私は幸せなのに……」。と、こういうことを思ったりはしませんか。価値のないものに取り囲まれていると思っている姿がここにはあります。しかしそんなに簡単には他の人はあなたの思い通りには動いてはくれないはずです。あなただってそうでしょう。そんなに簡単に他者の思い通りには動かないでしょう。それが人間というものです。でも自由に動かしたい。これが所有欲です。ここに不安の根拠がありますしっかりと手を握って放さないから私たちは不安になります。暗闇に閉じ込められます。かえって手を開けば平安になります。手を開くと中にあったものはどこへ?神さまのもとです。だから何の心配も要りません。私たちは製作者である神さまがお造りになったように生きればいいのです。花は花として造られました。ピアノはピアノとして造られました。お互いにうらやましがることはないのです。あなたはあなたです。隣の人は隣の人です。
 そのためにはどうか献身をしてください。あなた自身を神さまにささげてください。どうか私を神さまのご希望のようにお使いくださいと言ってください。近くにいる者を自分の思い通りにすることは止めますと言ってください。サロメは神さまに向かって息子たちを手放しました。そうです。サロメは献身を学びました。だから息子たちは立派に大成しました。旧約聖書にささげることについてのレッスンがあります。

 イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。(レビ1:2)

 この文章には日本語では表現されていない部分があります。「自分自身から」が隠れています。つまりささげものをすることの本質的な意味は何か物やお金を持参することではなくて、自分自身を持参することだと言うのです。こうしてこそ祝福はあります。イエスさまはついにご自分のいのちをささげられました。サロメはそれを学んで祝福を受けました。今、あなたの暗闇の中に光が輝いていませんか。一日一日、その光は明るさを増して、ついには日曜日のご復活の日をあなたは迎えて「ハレルヤ!」と叫ぶようになります。

[答]赤い十字架は病院。緑の十字架は薬屋さん。青い十字架は工事現場。