324 神とともに歩む人生

 ●聖書箇所 [イザヤ40章30、31節]
 聖書の教える人生は?と問われたら、ベテランならまず岩の上に建てた人の話を思い出すでしょうね。マタイの福音書7章にある例え話です。それは真理です。人生にはさまざまな波風が立ちますが、それにびくともしない人生こそすばらしいと言えるでしょう。イザヤ書40章30、31節では、例え若い男でも辛くなる場合があると示唆しています。神とともに歩む人生、ならそれでも大丈夫です。最終的に最善となるように神さまの配慮が生きるのがその理由です。具体的に聖書の教える人生とは、学んで参りましょう。

神ともに歩むもの

 神とともに歩む、これがいいのです。ちょうどお父さんやお母さんに手を引かれてうれしそうに歩く子どもの姿です。信頼感たっぷり。何も疑っていません。神とともに歩む人生は平安と喜びに溢れたものです。どうしてそのようなことが言えるのか、アブラハムを例に説明しましょう。

 創世記12章1ー3節をお開き下さい。

 あるとき、彼は神さまに目覚めました。なぜ?その原因は?この場面を見ると、神さまが突如彼の前に、普通に、人が「こんにちは!」と言って現れるように現れたのでしょうか。そして普通に、耳に聞こえるように神の声が聞こえた?さあ、それはわかりませんねえ。もしそれが事実なら、奇跡! 彼は満足、でしょう。でももしそうであったとしても彼が一番に喜んだのはこれが理由ではありません。その理由は、神さまが彼に計画を持っているというメッセージの伝達、です。神さまが丹精込めて作った人間も世界も罪によって壊されてしまいました。人間の仕業です。でも神さまはあきらめない。建て直し計画のために白羽の矢が立てられたのが、このアブラハム。彼はこう聞いたのです。「私はあなたを必要としている!」。なんとすばらしいメッセージでしょうか。あなたはあなたの家庭で、職場で、学校で、教会で必要とされていますか。幼児虐待のニュースが多く流されています。なぜ自分の子どもをいじめるのでしょうか。考えられないことが起きています。学者の意見はだいたいこのようなものです。親自身が虐待されて来た。うなずけますねえ。結局私たちは育児されたように育児をして行くのです。親の仕方がモデルです。では幼児虐待の持っているメッセージは何でしょうか。それは、「あなたなんか必要無い!」です。なんとおそろしい!罪の世界にはこのようなメッセージが溢れています。会社からも、学校からもあらゆるところから、この種のメッセージが人々に向けて放たれています。あなたは受取ったことがありませんか。もし受取っていたとしても心配しないでください。天地の造り主なる神さまがあなたを必要としてくださっています。そのメッセージをしっかりと受取るには何を私たちは心得たらいいでしょうか。謙虚さです。私は選んでいただいた、という。仏教、イスラム教、……たくさんの宗教がある中で私はキリスト教を選んでやった、というのは高慢です。神がえらぶのです。そして神に選ばれた者だけが主イエスさまを信じることができるのです。救いは神のあわれみです。プレゼントです。神さまにはいかなる人といえども、何かをプレゼントする義務などありません。でもあなたにはくださいました。ハレルヤ!こうして私たちは心の耳で「私はあなたを必要としている!」メッセージを聞く事ができます。

時間と練習によって習得するもの

 神とともに歩む人生の良さをしっかりと自分のものにするには手間ひまかけて、というのが次のお話したい事です。少なくない人が誤解をしています。主イエスさまを信じたら、すべてがどんなことでもすぐに苦労なく何の障害物もなく成功して行く、というような。そのようなことはありません。温室育ちがいいのでしょうか。適当な障害物があってこそ、命あるものは成長します。私たちに命があるのであれば、この真理は有効です。人格の成長の到達目標、しかも最終的なものは傷のない「神のかたち」です。それは神のような人格を持った人間です。「あの人は神さまみたい!」と言われるようになることです。世の中にはそのような人が求められます。そのような人こそがこの罪の世界に希望を与えます。ところで手間ひまかけてと言いましたが、なぜ?そんなに手間がかかる?それは人格と人格の関係だから。人格と物との関係は簡単です。物は壊れたら捨てればいいのです。物権など存在しません。でも人格と人格の関係はそうは簡単ではありません。たとえば人間関係。あなたはこれに悩んではいませんか。
 ある人が教会に祈ろうと出かけました。2、300席はあろうという教会堂の玄関で立ち止まり彼は中にいっこうに入ろうとしません。人陰はまばらでぱらぱらという程度。しばらくして一人の人がお祈りを終えたのでしょう。立ち上がって帰ろうと玄関に向かって近付いて来ました。その時こう言いました。「すみませんがねえ、あなたの座っていた席は私の席なのです」。

 この話には3つの真理が隠されています。

 1)ランク付け。私たちはいつも人と会う時に相手のランクを気にしています。無意識のうちに自分よりも上か下かを判断して、それにふさわしい態度やことば使いをしようとします。これに失敗するとたちまちにして人間関係は悪くなります。精神病院は人間が裸になって生活しているところと言ってもいいでしょう。飾らないという意味です。どの世界でもそうですが、ボスと言われる人がいます。精神病院にもボスがいて、えばり散らしています。でも看護人の前では小さくなります。さらに看護婦、医者というふうにランクが上がって行くと彼はもっともっと小さくなります。チャップリンの映画に『独裁者』というのがあります。彼はヒットラーを演じ、床屋でムッソリーニと並ぶ場面があります。白いガウンのようなものをからだにかけられ、顔にはシャボン。どこに違いがあるでしょう。何もありません。でも自分こそ偉いと主張したい彼ら二人は椅子の高さで競います。ことほどさように私たちはランクをいつもいつも気にしているのです。ランク付けを失敗して不幸になったのが、サタンであり、それにそそのかされたのがアダムであり、エヴァです。

 2)ペルソナ。これは仮面です。私たち人間はいつもいつも仮面をかぶって生活しています。化粧も着衣もそれのための道具です。つまり化けるためのものです。寝る前にはメイク落としをしますが、24時間、仮面をかぶっているわけにはいかないことを教えています。『監獄作法』という本があります。囚人たちはことごとく能面みたいになって行く。でもそういう彼らも夜になると奇声を発したり、自分を裸にするというのです。ここで重要な事は仮面を付けたり、外したりというのは本人の権利であって、他者が勝手に付けたり、剥がしたりしてはいけないのです。そんなことをしたら恥をかかせるし、プライドを傷つけられたり、面子も丸つぶれです。こうして人間関係は危機を迎えます。気を付けましょう。

 3)ボディーゾーン。なわばりのことです。犬が電信柱におしっこをかけていく、あれです。「おれの縄張りに勝手に入るなー」です。プロクセミックスという学問があって、距離には意味があると教えています。もっとも短い距離は45センチ。密接距離と呼びます。この中に入れる人は限られています。親子、夫婦、師弟関係など極めて信頼感に強い間柄のみ。この距離は心理的なものであって、つまり心理的な45センチであって、これを不用意に超えると問題が発生します。
 たとえばAさんがあなたに「○○○」と言ったとします。あなたはほんとうのことを言ってくれたととても喜びます。たとえ叱る内容であっても。そういうことってありますね。ところがBさんが全く同じ台詞を、すなわち「○○○」とあなたに向けて言った場合に、あなたは怒る!こういうこともありますね。ここに距離の問題があります。不用意に相手の近くに行かない事です。干渉し過ぎないようにしなければいけません。サーカスにはライオン使いがいますが、彼もこの原理を使ってお客さんを楽しませています。両者の間に踏み台を置きます。彼はライオンに近付きます。するとライオンは後ずさりをします。なお近付くと飛びかかってきますが、その瞬間に離れます。するとちょうどライオンは踏み台の上に乗るというわけです。車を運転していて後ろにぴたっとつかれるとそわそわするのも同じことです。もちろん追突されたら困るという気持ちもありますが、それ以上にボディーゾーンを侵食されたことが意味あるのです。いらいらさせたければボディーゾーンを侵食することです。もちろんわざわざそんなことはしないでくださいね。参考までに。
 こうして考えてくると人間関係って実に大変!そうです。大変なのです。では神さまとの関係はどの程度に大変なのでしょうか。以上の3つにいつもいつも注意していなくてはいけないのでしょうか。実はたった一つでいい。それはどれ? 1)です。ランク付け。これだけに注意すればいい。だからラクチン。神さまの前でいつも謙虚に、神さまはナンバーワン、と言っていることです。一番偉いお方として尊敬してください。そういうお方とおつき合いできると思うだけでうきうきするではありませんか。うきうきする毎日、それが神とともに歩む人生!

すべてのことは益となり、祝福へと変えられる

 コリント人への手紙第一15章8ー10節をご覧下さい。パウロによる信仰以前の罪状の正直な告白です。教会とクリスチャンとを激しく攻撃していました。その時点で彼の人生を総括すれば彼は重罪人、神に呪われた者、の一言です。でも逆転が起きました。私たちは過去を引きずっています。「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と。自己嫌悪感で毎日はだいなし。人生にさまざまなことが起きるのは当然です。その起きたさまざまなことをどのように位置付け、意味付け、理解するかが大切です。決してドラマは終わっていないと受け止めてはいかがでしょうか。過去の事がすべて益となり、現在と未来に生かせるとすればあなたはどう思います。将来に希望が出て来るのでは。
 ここに一人の人を紹介しましょう。大阪・桃谷で不良少年たちを厚生させるべく「不良しとって面白いか?俺ンとこに話しに来いや」と呼び掛け働く一人の牧師。元やくざ。金沢泰裕。16才で暴走族、18才以来やくざ10年。彼の生きざまを見て阿部譲二が絶賛。「神を知らない僕だが、金沢牧師には心から頭を下げる。凄い男だと思う」(286ページ)。私はこの本を読んで彼の物凄さの原因が分かった、と思いました。

 「やくざに限らず何ごとでもそうなのだが、本物になるには日々の努力と精進がものをいう。」(74ページ)。(『人生いつでもやり直せる』小学館文庫 高田講治) 

 彼は本物のやくざになろうと一生懸命にやったのです。今は本物の牧師に、いや本物の助け手になろうと一生懸命なのです。ここに彼が過去の問題を克服して祝福の道を歩む秘訣があります。どのようにして過去を克服して行ったのでしょうか。それは単純です。「主イエスさまが十字架で私の暗い、マイナスの、否定的な過去を釘付けしてくださった」としっかりと信じることです。それしか道はありません。どうかあなたもしっかりと信じてください。中途半端ではなく、しっかりと、真面目に。ここに神とともに歩む人生のすばらしさ、躍動感、喜びなどあらゆる良いものがあります。あなたの人生に神さまの豊かな祝福を祈ります。