326 生きるって、楽しい!

 ●聖書箇所 [箴言3章1ー12節]

 天地の造り主なる神さまが私たちの世界を造って下さった時に、その作品をご覧になって、思わず、「良いものができた」と満足の声を上げなさいました(創世記1:31)。神さまの実力を考えるとすばらしいものができたはずですから、その喜んでいらっしゃる様子が目に浮かぶようです。私たち人間にも何かを作り出したいという欲求があります。なぜなら「神のかたち」を持って造られていますから。つまり私たちは神に似ています。ところで何を私たちは作り出して行かなければならないのでしょうか。それは「生きるって、楽しい!」と思わずうなってしまうような人生です。いかがでしょうか。あなたはそのような思いを日頃感じていらっしゃいますか。心の曇るようなことが起きませんか。起きますねえー。でもめげてはいけません。神さまだって、せっかくのご自分の作品を壊されてしまったのです。壊した犯人は人間、そして人間の持つ罪です。神さまは気を取り直してすばらしい世界を取り戻そうと奮闘中です。その熱心が大切な一人子イエスさまを犠牲にさせました。私たちはその、神さまの熱心に答えなければなりません。そのためのカギは強い意志です。次の小ばなしを聞いてください。

 ユダヤ人が二人、救命ボートに乗っていた。四面見渡す限り船影も見えない。一人が祈りはじめた。「おお神様、もし無事に帰れましたら、財産の半分を慈善事業に寄付致します」 だが、いつまで漕いでも助けの手は差し伸べられなかった。そのうち夜になってしまった。「おお神様」と、さっきの男がまた祈りはじめた。「もし、お救いくださったら、財産の三分の一を寄付します。しかし、朝になってもご利益がない。絶望的になった男は、また祈りはじめた。「おお神様、お願いです。もしこの場を無事に切り抜けることができましたら、私の……」「待て!」と、もう一人の男がさけんだ。「取り引きをやめろ。島が見えたぞ」

 シカゴにゴルフ狂のラビが住んでいた。あるとき、一週間も霧がたちこめていたが、ようやく青空となった日が、なんと安息日であった。ユダヤ人とって安息日は一週間でもっとも聖なる日にあたり、体を動かしてはならない戒律がある。ラビは人目につかぬよう朝早くゴルフ場に出かけ、クラブを握った。ラビの死んだ 父親が、天国からこのありさまを目撃して神に告げた。
 「どうぞ、せがれのラビをこらしめてやってくださいませ。掟を破ってゴルフなどやろうとしております」
神が答えた。「よしよし、ひとつうんとこらしめてやろう」
 下界ではラビがボールをセットして、久しぶりにエイとばかりにティーショット。ボールはのびにのびて250ヤード。しかもなんとホールインワンではないか。これを見た父親がいった。
 「神様、これではさっぱりこらしめにならないではありませんか?」
 神は笑いながら答えた。
 「なに、これでよいのじゃ。ラビめ、誰にも自慢ができまい」
 いかがでしょうか、このユダヤ人のたくましさ。参考にしてください。

 強い意志こそがあなたをしてどんなことにも負けないで「生きるって楽しい!」と言わせるのです。今回学ぶます箴言はソロモンの作品です。預言者ナタンから「主に愛される者」と呼ばれ、彼の人生は確かに神さまから大きな祝福を受けました。でも彼は父親の不倫の相手から生まれた子です。これが彼の心に傷となっていることは十分に考えられます。彼が召し抱えたのは妻700人、そばめ300人と言われます。これも一つの現れではないでしょうか。そんあ彼の人生から生まれた作品です。私たちは多くの事を学ぶ事ができる書物です。今回は3つのことを学びましょう。

聖いリズム

 1節から12節をお読み下さい。一つのパターンがあることに気付かれるでしょう。
 「私(神さま)の教えることにすなおに従いなさい。そうすればあなたは祝福されますよ!」といったようなものです。私たちには神さまによって造られた時に備えられたものがいくつもあって、その一つがリズムです。プログラムと言ってもいいし、パターンと言ってもいいでしょう。ホトトギスやつばめなどは渡り鳥で、冬には越冬地である東南アジアに行っています。それにしてもこれだけの距離をよくも方向も間違えずに、移動できるものだと感心しますね。17年ゼミは地中にいて17面目に地上に顔を出します。でもたったの一日しか誤差がないと言うのです。24時間のタイマーなら売られていますが、お店には17年のタイマーってあるんでしょうか。これは神さま製造のすばらしい機能が組み込まれていることを証明しています。私たち人間にはどのようなリズムがあるのでしょうか。まずは一日という単位。朝起きたら、まず神さまに「あはようございます!」と話し掛けましょう。お祈りについて言っています。お分かりでしょうか。お祈りは呼吸にも例えられます。決して欠かせないものです。お祈りは確かに毎日続けていればときにマンネリになる場合もあります。それでもこれはじっくりと取り組むべき価値があります。やがて私たちの霊魂は内側からエネルギーを産み出す快感に驚くようになります。元気のもとです。次に一週間と言う単位。まず日曜礼拝をしましょう。これは家族団欒です。単身赴任は決して正常なことではありません。私たちは受け入れてもらえる仲間の中にいるときこそ幸福感に浸れるのです。「私はこの家族から歓迎されている。私はこの家族の一員だ!」。このように確信を持てる人は本当に幸せだし、「生きるって、楽しい!」ということができるのです。

聖い目標

 聖い目標があなたを内側から元気にして行きます。ところで聖い目標があるのなら、聖くない目標もあるはずです。それぞれどのようなものでしょうか。ずばり前者について言いましょう。4節にあります。神さまと人とを愛することです。こういうことばをお聞きになったことがあるでしょうか。

 「人は愛されて安息し、愛して満足を得る」。

 私たちは安息を求めます。そして神の家族の中でそれを経験します。ホッとする瞬間です。でもそれだけでは私たちは幸せではない、と言うよりもいつまでもその幸せは続かないのです。愛することによって、はじめてそれは得られるものです。
 ヨセフをあなたはご存じでしょう。創世記39章から彼のエジプト記は始まります。侍従長ポティファルにかわいがられ出世しますが、わなにはめられ牢獄につながれます。しかし主がともにおられて幸せな者であったと記されています。彼は時々穴に落ち込みます。あるいは落とされます。でもころんでもただでは起き上がらないのがヨセフです。なぜ?答、それは、いつも目標を持っているから。彼は「夢見る人」とあだ名されています。彼の人生は穴とともにあります。最初の穴は兄弟のねたみによるものでした。しかし彼は負けません。私たちの人生もそうではないでしょうか。ときどき穴があり、そして落ち込むのです。目標があなたを再び立ち上がらせてくれます。しかも神と人とを愛するという聖い目標が。私は現在10個(2006年現在)の教会の牧師をしています。巡回しています。いつも私は、何を、行った先の教会のみなさんと分かち合う事ができるだろうか、何を、与える事ができるだろうか、つまり与える心意気で赴きます。すると彼らはとても深く私を愛してくれます。「『与える者は受ける』、それはほんとうのことだ!」と常に実感しています。そしてこれが私には元気の源です。さらにもう一つ。聖い目標は悪習慣から私たちを解放してくれます。なかなか悪習慣からは抜けられないものです。一番安直なやり方はお説教です。
 「それは悪い事!でしょう。だ・か・ら、やめなさいッ!」。これでやめられますか。やめられませんねえー。コップがあるとしましょう。このコップの中には空気が入っています。ではどのょうにしたら中の空気を全部抜く事ができるでしょうか?少し考えてください。難しく考えてしまう人もいらっしゃると思います。掃除機のノズルを使って……とか。いやいあや実に簡単な事です。水を入れればいいのです。そうでしょう。ネッ!私たちは同時には別のことを行う事はできません。悪い事をしながら、良い事をするとかはできません。良い事を、すなわち聖い目標を目指して行動していれば悪いことを、少なくともその間は行い得ません。どうか聖い目標を掲げて進んでください。目標の立て方は興味+賜物+チャンス です。まず、あなたに興味のあることでなければなりません。次に賜物が必要です。オリンピックで水泳の競技で金メダルを取りたいと思っても泳げないのでは困ります。今持ってなくても、訓練して得られる場合も少なくありません。さらには生かすチャンス。これも神さまがくださいます。チャンスを生かすかどうかはその人のセンスでしょう。目標は何歳になっても持つことができます。私はもうすぐ死ぬという人がいらっしゃったら、天国に行く備えをしてください。ただしこれはだれにも必要なものでしょうね。どうしたら、いいでしょう。天国にはATMがあるそうです。ある人が天国に行って、お金を引き出そうとしました。ところが何も引き出せないのです。調べてもらったら、残高がゼロでした。私たちの地上の人生は天国貯金をするためのものです。どうか、神を、すなわち人を愛してください。これは同じ事です。神を愛していますと言いながら、人と喧嘩ばかりしているのは実際の所、神を愛していません。捧げてください。財を、時間を賜物を、そしてあなた自身を。あなたの日常の生活は実に活力のあるものになるでしょう。

聖い賛美と感謝

 聖い賛美と感謝があるのなら、聖くない賛美と感謝もあるはずです。前者は神に向かうものであり(特に5ー7節)、後者は自分に向かうものです。

 「高慢は滅びに先立ち」ますし、「謙遜は栄誉に先立ち」ます(15:33)。

 栄誉とは祝福。祝福される人生を歩むには強い意志が必要であると先に書きました。そしてもうひとつのことを確認しましょう。私たちが

 「幸せであることは他人に対する義務でもある」。

 これは19ー20世紀にかけて文名を高めたアランのことばです。だれも不幸な人と友だちでありたいとは思いません。暗い雰囲気の中にいたいとは思いません。明るい人、前向きの人といつも気持ち良く過ごしたいでしょうね。ならば彼の言う事は正しい。そしてこう一つ「人から愛されるのは幸福な人間だけである」。その通りです。ヨセフはこの種の人でしたし、ソロモンも同様です。多くの人に愛されたのはソロモンが幸せな人であったからです。もしこのようなことを認めるなら、私たちは祝福を受けるために聖い賛美を感謝をささげなければなりません。

 日曜学校の先生が自分のクラスの子が引っ込み思案なので一策を講じました。白板に次のことを書き、ノートに写させ、毎日寝る前に読むように言いました。「私は神さまによって造られた大切な子どもです。私は引っ込み思案です。それで神さまは私の中でわざわざ働いて特別なことをしようとお考えです。神さまがそのようにお考えの間に、私の中で神さまの力がどんどん強くなって行っています。神さまは私の中で生きておられます」まもなくクラスの雰囲気が変わり始めました。これは神さまを賛美したことであり、感謝をささげたことでもあります。あなたもいかがですか。イスカリオテのユダははじめは謙遜で主イエスさまのすばらしい弟子でした。主イエスさまから篤く信頼された証拠に経理に任命されています。でも少しずつ彼は変わって行きます。ぶつぶつが出始めました。彼の最後のみじめさをあなたはご存じですね。私たちは常に聖い賛美を感謝を忘れてはいけません。

 最後にどのようにしたらこの3つを自分のものにできるかを考えましょう。
 それはすなおになること、主の前に。このことに尽きます。NYに住むコラムニスト フィリップヤンシーのあかし

 氏は自宅の水槽に熱帯魚を飼っていました。ある日その一匹が病気になりました。放っておくと他の魚に感染して水槽は全滅です。氏はその熱帯魚を水槽から取り出し治療することにしました。小さな網をつっこむと魚たちはパニック状態になり、水槽の中は大混乱です。やっと仕事を終え、氏はふと考えま
した。魚をひどく怖がらせてしまった。もし私が魚の言葉を話せたら、私の意図がわかってもらえたろうか?どうしたら魚と心を通わせられるだろう?もし私が魚の姿に変身して水槽に入り、魚の言葉で話しかけたら、思いが通じただろうに。  魚になって水槽に入る……ディズニ一映画のファンタジーのようですが……天地創造の神が、そのファンタジーを現実に実行したとしたら、どうでしょう? 私たちと話をしたかった神は、みずからを人間の姿に変え、地球に降り立ちました。降りた場所は約二千年前の寒村ナザレの少女マリヤの胎の中でした。マリア、すなおな女性として聖書には描かれていますね。すなおさが大切です。

 「ラビ様、どうしても分からないことが一つあります。貧乏な人は、力の及ぶかぎり親切に助けてくれるのに、金持ちは余裕があるくせに、何もしてくれません。いったいどうしてでしょうか?」「ちょっと窓から外をのぞいてごらんなさい。外に何がありますかね?」「女の人が一人、子どもの手を引いて歩いています。それに市場へ車が一台入ろうとしているのが見えます」「ふむ、そうか。それじゃあ、今度は壁の窓をのぞいてごらんなさい。何が見えますかね。?」「そりゃあ、私の顔しか見えません」「そうだろう。窓も鏡も同じようにガラスからできている。それなのに、少し銀がつくと自分のことしか考えないようになってしまうものなのだよ」あなたにはどのような銀がありますか。お金?変なプライド?それとも?どれも十字架に付けてしまいましょう。そのときあなたは叫ぶでしょう。「生きるって、楽しい!」