327  神の福音

 ●聖書箇所 [マルコの福音書1章14、15節]

 バプテスマのヨハネの時代が終わった事を知らせるくだりですね。彼の任務はメシアが来られる、「彼こそ、そのお方だ!」と叫ぶことでした。そして当のメシアであるイエスさまはこう言われます。

 「福音を信じなさい」。

 さて福音とはどのようなものでしょうか。勧めて下さるのですから、相当良いものに違いありません。宗教改革者であり、聖書翻訳家であるティンダルはこう言いました。

 「人の心を喜ばせ、歓喜のあまり、賛美を歌わせ、踊らせ、飛び跳ねさせるような、良い、楽しい、嬉しい、そして喜ぱしい知らせ」。

 では言語からその意味を訪ねてみましょう。英語で evangelism と訳され、日本語で 福音 と訳された語はギリシア語で euggelion。これは ue(wellの意、evは変化形) 十 angelos(使いの意味、angel の語源)で、良い知らせ、あるいは良い知らせを伝える者、です。ちなみにミケランジエロは音で想像できるでしょう。ミカエル 十 天使、すなわち ミカエル天使 です。ことぱあそぴはこのくらいにしてさっそくどの程度歓喜に浸ることができるのか、その中身に迫りましょう。

新生(ヨハネの福音書3章3節)

 人は新しくされる、というのです。どのような意味でしょうか。あなたはボーリングをなさったことがおありでしょうか。あの、玉をころがす、あれです。ときどき機械が正常に作動しなくなりますね。そういうときに威力を発揮するのがリセットボタンです。押すと再び使えるようになります。私たち人間もときどき正常に作動しなくなることがあります。心が冷たくなったり、人間関係が壊れたり。そういったときにやり直しができたらなあ−と思いませんか。私は十代の頃盛んに思いました。「こんな人生、こんな自分、いやだなあ−」と自己嫌悪感にさいなまれていました。「なんとかやり直しができないかなあ−」とも。そこで知ったのがイエス・キリスト。すべての原因が自分の中にある罪である事に気がつき、悔い改めました。すると私はリセットされた経験をしたのです。嬉しかったですねえ。そして今も。
 イギリスのことわざにこのようなものがあります。

 「一日だけ幸せでいたいと思うなら、床屋さんに行きなさい」            `
 「一週間だけ幸せでいたいと思うなら、結婚しなさい」
 「一ケ月だけ幸せでいたいと思うなら、新しい馬(現代なら、新車でしょうか)を買いなさい」
 「一年だけ幸せでいたいと思うなら、新しい家を建てなさい」
 「一生だけ幸せでいたいと思うなら、正直になりなさい」

 いかがでしょうか。あなたの胸に手を当てて、罪を認めることができるでしょうか。

聖化[ガラテヤ人への手紙2章20節]

 聖化とは日々の生活で罪に勝てる恵みです。牧師と一婦人の会話。

 「先生、先生のネクタイ、少し長いようですけれど、切らせていただいてもよろしいでしょうか」
 「ええ、いいですよ。でもその前にあなたの舌も長いから、私に切らせてください」

 私たちには罪があります。

 「あの人、赦せない−−−−」
 「もう二度と顔を見たくない……」
 「どうしてあの人、あんなことするのかしら……信じられない……許せない……」

 このような汚い、しかし、沸き上がってくる思いに私たちは勝たなければなりません。と言うのは、罪の本質は疎外であるから。人間疎外を英語でalienationと言います。 alien (外国人、異星人)という語がいっとき流行りましたね。ラテン語のalienusから来た語です。この語の意味は自分ではない、他、他のものと交換可能、の意味です。罪は目の前の人を交換可能な存在へと駆り立てるのです。目の前の人に
 「あなたは必ずしも必要な人ではないのですよ、いや、いなくてもいいのですよ。はっきり言いましょうか。あなたはいない方がいい人なのです」と言うに等しいのですなんと恐ろしい。それだけに罪に勝てる恵みとはなんと嬉しく、誇らしいものでしょうか。
 ユダヤ人としてアウシュピッツに収容され、死と常に隣り合わせにいたオーストリアの精神科医ヴィクター・フランクルはこう言います。

 「人間とは何でありましょう。我々は再びこの問いをくり返します。人間とは人間であるべき姿を絶えず決定して行く存在であります。人間とは動物の水準にまでなり下がることもできると同時に、聖者の生活を送るところまで向上できる可能性を持つ者であります。人は結局、ガス部屋を発明した存在でもあり、だが同時に、その同じ人間によって発明されたガス部屋へ、頭をまっすぐに上げながら、主の祈りを唱えながら入って行くことができる存在であります」

 主の祈りとは「我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ」であり、聖さの象徴です。私たちはこれを努力によって得る事ができるものなのでしょうか。できません。できないのです。聖霊の神さまの出番がここにあります。聖霊さまはあなたに主イエスさまのあがないのわざの意味を理解できるように働いてくださいます。その意味とは「あなたはとても尊い存在である」というメッセージです。これを真に理解した者は決して他者を疎外することはないのです。ここに聖化があります。

神癒[ヤコプの手紙5章15節]

 キリスト教は二千年の歴史において、癒しが神の手によりなされることを言って来ました。実際に癒しが祈りにより起きます。なぜいやしは起きるのでしょうか。理由は簡単です。私たちがこの地上に生を受けたのは使命とともにであって、その使命を果たし終えるまで私たちは健康でなければならないのです。ではパウロの場合はどうでしょうか。癒されない場合もあることを教えているのでしょうか。その通りです。彼は実にダイナミックな人です。理も弁も立つ人です。でも何かが欠けているのです。神さまはそれをご存じでした。何かとは何でしょうか。それは思いやりであり、愛です。十字架は愛と正義の十字路です。彼を大きく用いる為に神さまは彼の愛を必要としました。眼病かてんかんか、それは分かりません。神さまは言われます。
 「私の恵みはあなたに十分である」(IIコリント12 : 7-10)

 そうです。彼には恵みは十分であったのです。神さまはいつもだれにでも十分な恵みをくださいます。 もしあなたが病気で悩んでいるのならぜひ祈ってください。神さまはあなたを癒してくださいます。

復活・再臨[テサロニケ人への第一の手紙4章16節]

 キリストは私たちの現在住んでいる世界にもう一度来てくださいます。これを再臨と言います。罪に汚れた世界を作り直すためです。新しい世界で私たちは生きるのですが、それには新しい身体が必要です。それが復活の身体です。特別製です。主イエスさまは私たちの初穂としてすでにそのお身体をお持ちです(ルカ24 : 36-43)。この身体は病気もせず、怪我もせず、永遠に使えるものです。私たちは死んだ後このような立派な身体を与えられ生きるのです。「終わり良ければすべて良し」と言います。この復活と再臨とを信じる者はいつも希望を持ちほがらかに生きることができます。またそのような者はこの世界において希望そのものとなります。それはどのような人でしょうか。たとえば

 ○平和を作り出す人。それは
  ●温かいストーブのよう。
  ●その人がいるだけでほっとできる。
  ●悲しみや辛さを分かってくれる。
 このような人のそぱには愛がただよいます。

 私たちは反対であってはいけないでしょうね。それは
 ○争いを起こす人。それは
  ●冷たい北風のよう。
  ●うわさ話や悪口が大好き。
  ●正論を吐くが愛と配慮に欠けている。
  ●責めたり、批判ばかりしている。

 私たちの心の中に真の豊かさや希望があるならば、どちらの人に育って行くかは容易に想像がつきます。ともに復活と再臨を期待して生活をして参りましょう。

物質的経済的祝福[ピリピ人への手紙4章19節]

私たちは神さまから二種類の世界とかかわりを持つように導かれています。一つは目に見えない、霊の世界。もう一つが目に見える物質の世界。いずれも神さまの手になる立派な作品です。ある人々が誤解しているように物質の世界を軽視してはいけません。私たちは霞を食べて生きているわけではありません。ゆえに、もし不足を覚えるならば充足を求めて祈り求める、そして必要なら働くべきです。モーセは荒野の旅に触れて、神さまのご配慮を次のように証言しています。

  「事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」(申命記2:7)

 私たちは物質的な経済的な祝福を求めて良いのです。神さまは良いお方です。忘れないでください。最後にもう一度言います。福音をしっかりと信じてください。それにはどうしたらいいでしょうか。

 ある牧師が「幸福な人とは?」と訊ねられてこう答えました。「夜、ふとんに入る時、朝、起きることが楽しみな人」。すると質問した社長さんはこう言いました。 「傍らに好きな人、惚れた人がいること」。あなたには「好きな人、惚れた人」はいますか?「以前はいたけれど……」ですか。では今はどういう状況でしょうか。主イエスさまを好きになってはいかがでしょうか。惚れた人としてそぱにいていただいてはいかがでしょうか。それが福音を信じることです。神さまの祝福をあなたの上に祈ります。