328 あなたは全き者であれ                  

 ●聖書箇所 [創世記1 7 − 1 9章]

 神さまはアプラハムに誕生日のプレゼントをくださいました。さあ、それは何でしょう。みことぱでした。なんと粋な計らいでしょう。あなたはいかがですか。みことぱをいただいたことはありますか。さて、そのみことぱは17章1節以降です。一言で言って、「私はあなたを絶対に祝福する」というものです。「絶対に」と言えるのは神さまだけです。人間の絶対はあてになりません。でも神さまには自信があります。ちなみに契約 (17:2)は遺言書とも訳せます。これは一方的なものです。そして私たちにとっては希望です。神さまは一方的にアプラハムを祝福するとおっしゃています。さてこれだけの配慮をされたアプラハムにはどのような心構えが必要でしょうか。それは「私は神さまに期待されている!」という意識です。これは選ぱれた者が持つべき態度です。あなたは選ぱれた者ですか。
 ヨハネの福音書10章1節から数節を読んでください。羊飼いは羊一匹一匹に名前を付けて呼びます。羊は自分の羊飼いの声を覚えていて寄って来ます。あなたは礼拝に来られますか。それはあなたがあなたの羊飼いである神さまを認識している証拠です。そうです。あなたは神さまに選ぱれています。そして期待されています。その期待とは何?それは「あなたは全き者であれ!」です。今回は全き者の持つ習慣を学ぴましょう。                               

悔い改めの習慣

 悔い改めの態度ってどんなものなのでしょう。それは、「私には足りないところがある、私には至らないところがある、私には弱さがあり、それが罪を犯させてしまう」という意識を持っていることです。ゆえに真実に素直に「ごめんなさい!」と言えるのです。このようにできる人は素晴らしい人間性を示しています。人間って実にすぱらしいのです。なぜって。それは天地の造り主なる神さまの手になる作品だから。ゆえにどうか覚えてください。私たちは決して人を傷つけてはいけません。けなしてはいけません。ところが私たちは互いに憎み合ったりします。なんということでしょう。
 16章1節以下をお読み下さい。アプラハムとサラ夫婦には(まだアプラムとサライと呼ぱれていた)子どもがいませんでした。妻であるサライは提案します。女奴隷ハガルによって子を得なさいと。しかし彼女が妊娠すると突然女主人であるサライヘの態度が変化します。心理的に優位にたったのです。このような場合の心境の変化はお分かりでしょう。
 4節と5節をお読み下さい。サライは言いました。「あなた(アブラハム)のせいです」。ここにはねたみ、憎しみ、差別、攻撃、さぱき、いやみなどといった罪のあらゆる要素が見えます。 「あなた(アプラハム)のせいです」とは自己義認の主張です。「私は正しい!」という思いです。このようにストレートに言わない場合でも、人々はこうは言うでしょう。「確かに私には至らぬところはあった。でもあの人の方がもっと悪い!」。実質的に同じ事を言っています。これも結局は自己義認であって、悔い改めとは正反対の心です。
 ノーベル文学賞作家である大江健三郎の著書『宙返り』にはこのような主人公の台詞があります。 「(たとえ神なしでも)私たちの教会は『魂のことをする』場所です」。
 これは私たちクリスチャンヘの、あるいは神さまを信じると自称する者たちへの皮肉ではないでしょうか。『魂のこと』、なんとなく分かりますね。先に『魂のこと』でないことは何なのかを考えてみましょうか。それはお金や地位、名誉など目に見えるものに執着すること。しかし全き者は『魂のこと』をするのです(ヨハネ6:27)。そうです。全き者は『魂のこと』の一つである悔い改めの気持ちを持つものです。
 どのようにしたら私たちは悔い改めの気持ちを持つことができるのでしょうか。それは神の前を歩むこと(17:2)、これに尽きます。多くの人は人の前を歩んでいます。すると「なんだ、俺の方がましだ!」と思います。でも神の前を歩むとき、私たちは内にある罪に気付き悔い改めざるをえません。そういう思いに強く迫られます。全き者はこのような種類の人間です。

愛する習慣

 愛には絶大な力があります。人間の内面を変える力があります。外面を変えるのは難しいことではありません。床屋さんに行って、背広を買って、靴を買えばそれで十分です。でも内面はそうは簡単ではありません。しかし愛が変えてくれます。だから私たちには希望があります。

 イスラエルでは五年以上にわた四十代以上の既婚男性一万人について、調査を行った。研究に携わったジャック・H・メダリーとユリ・ゴールドポートは狭心症の新しい症例がどのように発展するのかを知りたいとこの調査を始めたのである。彼らは一人一人の心臓病に関する医学的な危険要素をチェックしたあとで、「奥さんはあなたを愛している態度をみせますかと」という項目を含むいくつかの質問を行った。そしてはっきりした力強い結果を得たのである。危険度の高い男性、つまり血中のコレステロール値が高く、心電図が異常を示し、医学的に心配される人−の中で、愛情豊かで自分を支えてくれる妻をもっている人は、冷たい妻と暮らす人より狭心症に進むケースが少なかったのである。……それではどんな愛情が……ヘレン・ケラーもこう言っている。「人生はわくわくする仕事だわ。そして一番わくわくするのは他の人のために生きている時ね」私の知り合いの牧師がある未亡人の相談に乗った時の話を紹介しよう。彼女は感謝祭たった一人で過ごさなけれぱならないことで大変悲しい気持ちになり落ち込んでいた。神父(牧師、の間違い)は「では/z処方葵”をさし上げましょう」と言ってメモ用紙に、貧しくしかも流感にかかっている老夫婦の住所と名前を書き始めた。そして「この人たちはあなたよりずっとひどい状態です。行って何かしてあげなさい」とぶっきら棒に言った。その女性はプツプツ不平を言いながら帰っていったが、翌日タクシーでメモの住所を訪ねてみた。ちっぽけなアパートにその老夫婦がひっそりと暮らしていた。彼らは互いにどうにか食事の仕度はこなしえていたが、どちらかが老人病院に入らなけれぱならなくなる日を恐れていた。そこで彼女は感謝祭のディナーを用意してあげることにしたのである。次の週になり、彼女は再び牧師のところへやってきたが、その足取りはまるで踊るようであった。(『今できることから始めよう』三笠書房)

 愛することはまず愛する者自身に最大の恵みを与えます。しかし、つい、そのようなことが分かっていても私たちは与えてもらうことに夢中になりやすいものです。私たちは愛する人に尊敬の念を持つのは、愛することがいかに難しいかを知っていて、それを実行できているからです。愛することが難しいということを別の面から説明しましょう。普通、愛する側は強い立場、愛される側は弱い立場と考えられます。けれども両者は相対的なものであって、決して絶対的なものではありません。相対的であるとはいつでも入れ代わりうる、の意味です。
 先日テレビを見ていましたら、ロシアで、物乞いをしている年輩の女性がお金を渡している青年に、「随分、少ないじやあ−ないの!」と、どなっている場面が写し出されていました。さすがにキリスト教国だなあと一方では感心しましたが。少なく持っている者は多く持っている者からもらうのは正当な権利であり、逆は義務です。でもこの場合はちょっと行き過ぎでしょう。強い立場と弱い立場が逆転しています。もはや物乞いをしている女性は弱くはありません。ならばその男性を愛する立場であったと言えます。でも人間はかつて弱かったとしても一度強くなってしまうと弱い者の立場を思いやることが難しいのです。残念ですが、これが罪人の現実なのです。逆に言うと、愛はいかに価値があるか、です。アプラハムは18章で分かるように弱い立場の旅行者を歓待しました。この歓待された三人の内の一人は受肉前のキリストと言われています。アプラハムは知らずしてイエスさまを歓迎したのです。これはマタイの福音書25章31−46節の話を思い出させますね。私たちは弱い立場の人を愛さねばなりません。でも私たちはつい愛することを忘れるのです。なぜでしょう。

 忙しいという字は立心偏に亡と書きますが、それを上下にすれば忘という字にもなります。忙しいとつい私たちは愛することを忘れてしまいます。現代の病なのではないでしょうか。
 星の王子さまは自分の小さな星を去り、いくつもの星を巡った後、地球という星に来ます。そこで気が付いたことは多くのパラの花が咲き乱れていたことでした。「なあ−んだ。いままで一本のバラしかないと思っていたけれど、たくさんあるじやあ−ないか」。実は王子さまは自分の星ではバラの花があ−だ、こ−だと言うものだから、面倒臭くなって逃げ出して来たのでした。キツネは星の王子さまに「あのバラの花をそんなにかけがえなく思えるのはその花のために無駄な時間を使ったからだよ」と教えました。水をかけ、虫を捕り、風覆いを作ってやった無駄な時間がいつしか星の王子の心の中に、わがままなパラの花に対してそれをいとおしく思わせ、それをこの世の中でたった一輪のかけがえのない花だと思う愛情を育てていったのでした。
 翻って、私たちはどうでしょうか。私たちは余りに忙しくて、お金にならないからと、自分の時間を使おうとはしないのです。愛することは相手のために時間を使うことです。犠牲を払うことです。イエスさまは私たちのために時間もいのちもお使いになりました。私たちは今どのようにこのことを考えたらいいのでしょうか。全き者であるために。         

神を畏敬する習慣

 畏敬ですから、「あ−こわい!」という時のこわさではありません。尊敬の気持ちが込められているものです。あなたは天地の造り主であられる神さまをどの程度畏敬しておられますか。私たちは恵みをいただいたときに、まず感動し感謝をささげるでしょう。再びいただいた時はどんな反応?「当たり前」ですか?。さらにいただいた時は?きっと不平不満が心の中に生まれて来るのでは。「少ないじやあ−ないか、これでは」。ここに罪人の罪人たる所以がありますね。どこかの時点で神さまをあなどる気持ちが生じています。私たちは神さまを怖れなければいけません。怖れる者にはご褒美があります。災いから救われることです。アブラハムは「神の友」(ヤコプ2:23)と呼ぱれました。なんという名誉。友であることの―つのあかしは秘密の共有。神さまは二つの秘密を教えてくださいました。一つは一年後に男の子が生まれること、これは長年の祈りが聞かれることでもありました。あなたにも同じ事が起きます。もう一つはソドムとゴモラの滅亡の預言。しかしアプラハムはなんと愛のある人でしょう。18章23節から33節にみられるやり取りは圧巻です。なんとすぱらしいせりふ、そして交渉!でしょうか。感動的な場面ですね。おいのロトはアプラハムから信仰を学ぴました。そのおかげでこの時天使に助けられました。後ろを振り返った妻は塩の柱になってしまいました。私たちは後ろを振り向くべきではありません。すでに十字架に付けたのです。焼却処分にしてしまったのです。未来を見つめるべきです。未来にこそ希望はあります。私たちに未来を作り出してくださる方が神さまです。私たちは神さまを怖れなければなりません。どうしたらそのようにできるでしょうか。十字架からあなたに向けて流れて来るメッセージをしっかりと自分のものにすることです。                                  

 それはは三つで構成されています。

 1)あなたは愛されています。
 2)あなたは許(赦)されています。
 3)あなたは価値のある存在です。

 なんというすぱらしいメッセージでしょうか。これほどのメッセージを発することのできる方は他にいるのでしょうか。神さまを畏敬する者は全き者です。あなたは神さまの期待に応えたいですか。