329 まずは基本から

●聖書箇所 [|テサロニケ5章1 6 − 1 8節]

 新年あけましておめでとうございます。生涯で一番良い年にしましょう。いかがでしょう?賛成ですか?賛成ならアーメンと言ってください。一番良い年にするには、一番多く祝福されることです。それにはまず基本をしっかりと身につけなければいけません。それもほんものでなければなりません。

 とても腕のいい偽札作りがいました。ある日、一万円札を作り、目の前にかざして惚れ惚れしていました。「なんという出来!俺は天才だ!」しかし使ってみるとすぐに警察に捕まってしまいました。プライドを傷つけられた彼は警察官に食ってかかりました。「いったいどこが違っているんだ、えっ!」。警察官は気の毒そうにこう言いました。「違いはまったくないがねえ一、君が手本にしたのは偽札なんだ」(『ユーモア話術の本』三笠書房)

 さて本物の基本を学ぴましょう。

いつも喜んでいなさい                  

 あなたはいかがでしょう?いつも喜んでいらっしやいますか。ネヘミヤはイスラエル人が捕囚から帰還したときの指導者です。イスラエル人とともに荒廃した神の都エルサレムを見たときには失望しました。でもすぐにこう言いました。

 「悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(ネヘミヤ記8:10)

 不安が私たちを取り囲むことがあります。たとえそうであっても私たちは喜んでいなければなりません。それは神さまの力があなたとともに存在するためです。
 若くして娘を亡くした母親がお棺の中の亡骸を前にこう言いました。「神さま、しぱらくの時間、娘といっしょにいることを楽しませてくださってありがとうございます。再会が許される日を愉しみに生きて行きます」。
 信仰ってなんとすぱらしいものなのでしょう。ある人たちは自分と相性の悪い人と出会って、喜ぶことができません。この世界は神さまの御手によって導かれていることを知らなければなりません。あなたの人生に起きる出来事に偶然はありません。神さまはあなたを愛してそのあかしに愛するがゆえの干渉をなさいます。          

 ミサワホームの三沢千代治社長がある本にこう書いています。
 ノルウエーの漁村でいわしの水揚げがあるときのことです。どの船のいけすの中のいわしもぐったりしているのに、一隻だけピンピンしているのです。どうしてかな−というのが船員たちの共通した疑問でした。あるときその秘密が分かりました。その船のいけすには一匹の大きいなまずが入れられてあったのです。そのなまずにいつも緊張を強いられて、いわしは元気だった、というわけです。私たちもそうです。ちょっと自分と違った個性の人と出会い、刺激を受け、違った自分の一面に気がつき、輝かせたり、磨いたりできるようにされるのです。
 なんという感謝なこと!神さまはあなたに賜物とともに人生をくださいました。与えられた賜物を生かさなければなりません。もしまだ発見していなければ見つけなければいけません。あなたは大きく用いられなければなりません。神さまのご配慮をすなおに受け入れて下さい。神さまはあなたを愛しておられます。どうぞすなおにこれを学んで下さい。

 ある日のこと、私は不思議な夢を見ました。ひょっとすると、幻かも知れません。気がつくと神様のみ前にいたのです。その方の顔は見えませんでしたが、神様であられるということが分かって、ひざまずかずにはおれませんでした。そこにおられるお方は、それほど神々しく偉大だったのです。神様がそこにおられるという不思議な感じがしました。私はひざまずいて、神様に自分のした悪いことを告白し始めました。きっと誰でも、こんなにきよい神様の前に出たら、自分の罪を告白するのではないでしようか。私が「ああ、神様、私は十分に祈っていませんでした。」と申し上げると、神様は「それはとても大切なことだけど、一番大切なことではないよ。」と言われました。続けて私が「ごめんなさい、神さま。私は聖書を毎日読んでいませんでした。」と申し上げると、神様は「聖書を読むこともとても大切なことだけど、一番大切なことではないなあ。」「そつだ、分かった。私はごはんを食べすぎました。ごめんなさい。時には断食した方がよいと思うんですが、どうしてもがまんできないんです。」と申し上げると「それもとても大切なことだ。でも一番大切なことではないよ。」と言われました。私は自分の心に思い浮かぶありったけの罪を告白しました。「他にもまだあるかなあ。もしかして貧しい人へ十分施さなかったのかもしれない。それとも、まだ信仰が足りないのかもしれない。あれこれと考えているうちに、突然、ある考えが浮かぴました。「ああ、神様。妻にもっと優しくすべきでした。彼女をもっともっと大事にしなければなりませんでした。神様は答えられました。それは、とてもとても大切なことです。でも一番大切なことではありません。」「これ以上、あと何を告白したらいいとおっしやるのですか?神様は何をお望みなのでしょう。」私は子どものようにだだをこねました。神様のお考えがちっとも分からなかったのです。すると、神様は言われました。「あなたが〈最後の時〉に私の前に来る時、私はあなたに一つだけ質問をします。それは「あなたは私の愛を受け入れることを学ぴましたか!」という質問です。」(実はこの文章を書いている今でさえ、私は〈最後の時〉の本当の意味をすべて理解しているわけではありません。神様の言葉はこうです。あなたがく最後の時〉に私の前に来る時、私はあなたに一つだけ質問をします。それは『あなたは私の愛を受け入れることを学ぴましたか。』という質問です。もつ一度言いますからよく問いてください。「あなたはわたしの愛を受け入れることを学ぴましたか?」今、お話しを問いているあなたも、この言葉を是非どこかに書いておいてください。大切な言葉を忘れてしまわないようにしましょう。……。(『カバの郵便配達人』小沢治 プレイズ出版)

たえず祈りなさい

 これはあなたを愛する神さまからの励ましです。慰め、また親切です。あなたはいつも祈っていますか。どうか祈ってください。お祈り、それはいつでもつながる電話のよう。ここで閑話休題。                                                              

電話と祈り                                 

 神父さんは、日曜日に、いつも子どもたちに分かりやすい話をしていた。ある日曜日、お祈りについてやさしく説明しようと、電話を持ってきた。神父さんがはじめた。「みんなは電話で話すとき、向こうの相手は見えないでしょう」。子どもたちはうなずいた。
 「いいかね。神さまにお話しするのは、電話で話すのと同じようなことだよ。みんなの目には見えないが、神さまは向こう側にいらっしやるんだよ」。すると一人の子が立ち上がって尋ねた。「神さまの電話番号は何番ですか?」。

高い税金             

 ある子ども、どうしても一万円が要るという。母親は思い余って、「神さまにお祈りしてみなさい」と言った。子どもは、一生懸命に祈ったが、二週間たっても効き目がない。 そこで、一万円をくださいと、神さまに手紙を書いた。神さま宛の手紙を受け取った郵便局では処置に困って、郵政大臣に届けた。開封した郵政大臣は心を動かされて、千円を送らせた。子どもに一万円は多すぎるので、千円で十分だろうと考えたからだ。子どもは千円を受け取って大喜びした。そして早速、神さまにお礼の手紙を書いた。「神さま、お金を送ってくださってありかとうございました。でも、お役所を通してですから、90パーセントもの税金がとられましたよ」。(『教会のこぽれ話』サンパウロ)

 ぜひお祈りをしてください。お祈りには力があります。

 波多野鶴吉は、安政一年に丹波の村に生まれ、洗礼を受けたのは三十三才の時、明治二十三年であった。当時、綾部には明治十七年に設立された丹波教会からの訪問伝道が盛んであった。だが、彼が寄宿していた実家羽室家は綾部の真宗浄光寺の檀家でキリスト教は絶対反対、伝道者の来訪には門前に塩をまいたという。彼も始めは耳を傾けなかったが、そのかげで同業者の高倉平兵衛や組合で彼の書記であった新庄倉之助らが信者で、彼らの熱心な祈りがあった。新庄は、桑畑でひざまずき、波多野の救いを祈ったという。やがて留岡幸助牧師の説教を聞くようになった波多野は、とくにルカ福音書一五章の放蕩息子や同一九章のザアカイの改心の話に心打たれ、ついに受洗にいたったのである。その後の波多野は「信仰に入ってから自分は実に幸福である」と語り、聖書を離さず、いつも読みふけり、朝夕祈り続けていた。……波多野は明治二十九年、三十九才で郡是(ぐんぜ)という会社を創立する……生糸の牛産も本格的に進み、全国の品評会でも賞をとるようになり注目されるようになった。かたわら綾部の本杜には川合信水という有力な牧帥を招聘し、教会も生まれ、会社のクリスチャンの数は相当に増えていった。ところが、大正時代の大恐慌がやってきた。これは世界的な生糸の大暴落をもたらし、郡是も資本金の倍以上の損失を出し、会社は創業以来十八年目に最大の危機を迎えた。しかし、この危機は見事一年で奇跡的に解決をみることができた。試練は会社内部の結束を強め、社員や女工たちから給与返上の申し出があったり、皆心を一つにして祈る時がもたれた。……危機を乗り越えることができたのである。このときのことがこう評価されている。「波多野社長の日頃の誠実さと慈愛が内部に鉄の結束を生んだ結果であり、……」と。しかし、彼はこう語ったという。「全く神様の御恵みで私としては、ただそのお力にすがって最善を尽くしただけであります。あの一年は私にとってただ祈りの一年でありました」。(『チャペルタイムス』)                                      

 祈りの特権は罪が赦されたことから生まれるものです。イエスさまのあがないの恵みを経験して父なる神さまに直結した生活をされるように、すなわちお祈りの生活をされるように主の御名によって祝福いたします。

すべての事に感謝しなさい

 感謝の生活をしましょう。すべて、とありますから、すべてです。実際は選別してしまうのが私たちの常ですね。これは感謝できること、あちらは感謝できないこと、というふうに。どうかすべての感謝して下さい。どんなことでも、悪いことと(実際はあなたが)思えるようなことでも。神さまはあなたよりも頭脳が格段に優れていることを知ってください。そして感謝を表現してください。ことばを活用したらいっそう恵みがあります。

 あるお医者さんのもとを若い婦人が訪ねました。お舅さんと同居し、面倒を見ているのですが、彼は結核なのです。「うつされていないか、心配です……」と訴える彼女に、「では念のためにレントゲン写真を撮ってみましょうか」。さて、看護婦さんの持って来た写真を見てお医者さんは驚いていいました。 「大変です。相当進行しています。すぐに帰って静養した方が良いでしょう」。彼女は帰宅するなら寝込んでしまいました。まもなくお医者さんは二人の写真を取り違えたことに気付き、看護婦さんに謝罪に行かせました。するととたんに彼女は元気になってしまいました。ことぱには力があることを知ってください。キリスト教はことぱの宗教です。ことぱには無から有を造り出す力があります。

 初めに、ことぱがあった。ことぱは神とともにあった。ことぱは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書1 : 1-3)

 めがねをはずしたら 川崎友美  

  わたしは二年生からめがねをかけ始めた 
  めがねをかけると たぶんみんなと同じに見えている 
  けれどめがねをはずしたらみんなには味わえない
  ぽやけてなんとなくいい世界 
  わたしだけの特別な世界を
  ときどき楽しみながら遊んでる
     (横浜市・下和泉小四年)(『読売新聞』2000.12.28)

 なんて肯定的な前向きな女の子なのでしょう。ことぱがそうさせていますね。『讃美の力』という本をお読みになったでしょうか。この本の中に書いてあることは一言でこういったことです。「どんな、悪いことと見えることでも讃美し、感謝しなさい。かならず神さまがそれを最終的には良い結果へとあなたを連れて言ってくださる。」アル中の夫がいたら、アル中であることに感謝しなさい。そしてアル中から解放されたあかしが載っています。あなたは感謝の結果がこのようなものであることを信じますか。確かに感謝できないような状況もあるでしょう。でも感謝してください。試してみてください。

 あやは十歳。お祭りのごちそうをつくるので、お母さんに頼まれて、わらぴ取りに行きます。でも途中で道に迷い、山姥に出会います。山姥はこう言います。「ここは花さき山。あたりには小さな花がたくさん咲いています。「この花は、ふもとの村の人間がやさしいことをすると、ひとつ咲く。あや、おまえの足もとに咲いている赤い花。それはおまえがきのう咲かせたんだ。」あやはきのう、欲しくてたまらなかったお祭りの着物を妹にゆずってやったbのです。「この花さき山のいちめんの花は、みんなこうして咲いたんだ。つらいのを辛抱して、自分のことより人のことを思って、涙をためて辛抱すると、そのやさしさとけなげさが、こうして花になって咲き出すのだ。やさしいことをすれば花が咲く。うそではない。ほんとうのことだ。」(『花さき山』ポプラ社、斉藤隆介)