333 なぜ働くのですか?

 ●聖書箇所 [創世記1章26−28節]

 みこころ、というものがあります。これがまたまた重要なものなんです。なぜ?みこころを行っているとき、私たちは最高の状態にあるのです。最善の状態にあるのです。生きていることの喜びに浸る事ができます。ではみこころって何?創造者が被造物に持っているお考えです。私は最近車を乗り換えました。以前の車は12万8千キロも走りました。なにしろ毎月4千キロも走っているのです。この車は本望だったでしょう。そのために、すなわち人を載せ、物を運ぶために造られたのですから。冷蔵庫に洗濯物を入れる人はいません。造られたものにはすべて目的があります。目的に向かって、あるいはそって生きる、使われる、それこそが最高の生き方ではないでしょうか。
 今回学びたいのはそのようなみこころのーつ、働くことについてです。なぜ、働くのですか?の疑問に答えましょう。私たち人間は働くように造られています。これは堕落した後に求められるようになったことではありません。本来人間は働く者です。神さまが働くお方であるように。ただし今回学び働きは給料をもらう働きには限定してはいません。

個人の能力を最高の状態にするため

 26節と27節には「神のかたち」という語が見えます。「神のかたち」とは人格と働きをその内容としています。神さまは働くお方であって、それゆえにその能力を全開させて、私たち人間のために働いて下さいます。「その割には私には恵みが少ないなあ−」とは言わないでください。神さまはあなたを愛しておられます。「神のかたち」に造られたあなたはその与えられた能力を全開にしなければなりません。これは自分を愛することです。自分を大切にすることです。マタイの福音書25章14以下をお読み下さい。人により5タレント、2タラント、1タラントというふうに神さまは能力を人にお与えになりました。与えられる能力は同量同質ではありませんが、責任は公正です。それぞれが5タレント、2タラント、1タラント増やせぱ、1 0 0%の働きです。あなたに与えられているタラントを認識してください。磨けばそれは人間としての成長です。私は現在10個(これは2007年現在)の教会を牧会、すなわちリーダーをしていますが、20歳前半にステレオメーカーでライン長をしていた頃の経験が大変役に立っているとあかしできます。人にものごとを頼む時、頼まれた人はどんな気持ちであるかなどなど。多くの事を教えていただきました。ところで自分の能力を発揮して働くためにはどんなこつが必要でしょうか。それは自分の興味の持てることを核にすることです。嫌いなことは始める前に疲れてしまいます。そうではありませんか。でも好きなことならいくらでも徹夜をしてでも、「止められない!カッパえびせん!」ではありませんか。神さまはあなたにそのような興味の持てる世界を用意してくださっています。どうかその世界で大いに輝いてください。

より良い社会を建設するため

 これは他者を愛することです。28節は文化命令と称されますが、世界における人間の優位を教えています。神さまのお造りになった、私たちの世界では鯨やいるかが主役なのではなく、人間こそが主役です。これを忘れてはいけません。ロボットでもなく、制度でもなく、規則でもありません。人間が主役です。この主役である人間を大切にする、すなわち社会を大切にしなければなりません。このような働きがなされている、そしてそれを人々が知る時に、人々が神を認識していく道が開けるでしょう。これを一般啓示と言います。詩篇19篇1節をお読み下さい。

 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

 これは私たち人間が自然界を見て、人間を超える存在をすなわち神を認識できる、というものです。ところで一般啓示にはもう一つあります。良心です。ある人々が聖められた良心をもって聖められた働きをし、社会を明るくするなら、人々は人間を超えた、すなわち神さまの存在を想像するのです。ここに聖められた者が働くことの意義があります。このことをお話するには現実を見なければなりません。一八世紀の産業革命の頃、アダム・スミスの時代ですが、幼児の死亡率は非常に低く、スコットランドのハイランド地方では生まれた子ども20人のうち2人しか育たなかったと言われています。スミスによればイングランド全体でも半数の子どもは9歳か10歳までしか生きられなかったのです。それほど労働環境が悪かったのです。男女がともに上半身裸になって早朝から夜遅くまで働かせられました。その間太陽の光を見ないまま七歳以上の子どもたちは奴隷のように働かせられました。妊婦は馬のように石炭車を引かされ、坑内の真っ暗やみの中で出産することもあった。一日の労働時間は1 4 − 1 6 時間で、その間逃げられないように子どもたちは機械に縛り付けられました。でも資本家だけが悪いのではありません。人間すべてが罪人です。逆の立場になれば同じことをするのが人間というものです。私たちは罪深いのです。だからこそ聖められることが必要です。真に他者に祝福をあげようという気持ちを持っていることが。私たちは自分の欲望を正しくコントロールしていただいて、すなわち聖められて、立派な良心と共に役に立つ生産物やサービスを会社で生産し、社会に提供します。同様に学校の先生は社会をより良くしていくための人材を提供しています。親の働きももちろん立派です。やがて大人になって社会建設の一線に立ちます。どうかあなたにお願いします。「私はこの働きを通じて、神から補給していただいた愛を、人々と分かち合っているんだ、こうして聖められつつ人を愛しているんだ」という自覚を持ってください。それには十字架とイエスさまから目を離さないことです。そこから聖霊さまがあなたを常に新しく愛に燃える者として整える働きをしてくださいます。

立派な教会を建設するため

 これはキリストを愛することです。なぜキリストは私たちの世界に来られたのでしょうか。考えてみてください。それは失われた、故障した「神のかたち」を修理して、私たちひとりひとりにそれを取り戻すためです。さてこの作業が行われる現場はどこなのでしょうか。それが教会です。立派な教会は一人一人に「神のかたち」を回復させてくれます。やすらぎを与え、喜びを提供してくれ、価値ある時間を提供してくれます。 最近読んだ文章をご紹介しましょう。 

 ……ーつの具体例を挙げます。洗礼を受けて間もない青年が、急に「他の教会に行かせてください」と言って出ていってしまいました。私は、自分が何かいけないことをしたのかな、と思って悩みました。彼は理由を言ってくれなかったのです。ところが、数カ月経って、彼が移った教会の牧師から、その理由を間きました。祈祷会のときに、一人の 「心を病んでる人」が祈りの中で、「私は、殺したいほど憎い人がいます」と言ったので、それを聞いて彼は、「俺のことかもしれない」と思って、こわくなりました。それで、「ここにいたら殺される」と思って出ていったのです。その青年は、会員でしたが、 「心を病んでいる人」の方は、会員ではありませんでした。会員でない人のために、会員が出ていく。「なんと、いうことだ!」と思いました。だから「心の病の人は困る」、その人のわがままのせいで他の、教会員がつまづいてしまう、という議論になりました。しかし、そういう祈りを聞いたときに、その青年はなぜこわくなったのでしょうか?自分に結びつけたからです。自分の不親切だったことを思い出したのかもしれません。しかし、その恐怖感に負けて出ていってしまったということは彼も心の病む人であったということです。苦しんでいる人と、心をくだいて一生懸命関わった人が、その人にひどいことを言もれて、傷つき、去ってしまうということが何度もありました。そのとき、何が起っていたのでしょうか?その人に関わって、お世話をしようとした人の心の病が、引き出されてしまったのです。確かに病院に行って治療を受けている人とごく普通に生きている人との間には「程度の差」はあります。しかし心の病のない人と、私は会ったことがありません。みんな心に傷や歪みを持っていることを忘れてはいけないのです。重傷の人は、 「キック・ミー」のゲームをします。「私を蹴ってください」という心理ゲームです。つまり自分でも意識せずに、自分が嫌われるように行動するのです。それに負けて、嫌って見捨ててしまったら、その人はゲームの自的を達成したことになります。その目的とは 「私はOKではない(生きる価値がない/愛されるに値しない)」ということを証明することなのです。そして、聞わった人が傷つき相手を憎むようになったら、その人は「あなたのせいでこうなった」というゲームをして、「あなたはOKではない」というメッセージを送ったことになるのです。「私はOKでない」「あなたはOKでない」は、どちらも病的なメッセージです。誰でも、このどちらかが出てくることに気づく瞬間があるでしょう。いわゆる「心の病の人」はよくに気づかせてれます。そのとき、自分の心の歪みに気づいて、悔い改める人は、きっと心からどんな重傷の人にも、「あなたはOK.(生きるに値する/無限の可能性を持っている一人)です」と言えるように成長するでしょう。なぜなら、自分自身が癒されて「私はOK」と思えるようになるからです。人の傷に触れて、自分の傷に気づき、成長して乗り越えるのです。私たちの教会学校の年間テーマは、「人のせいにしない強さを持とう一解決はいつも自分から−」です。自分が悔改めて、癒され、エネルギーをいただき、心病む者どうしとして、お互いに癒されながら、教会を形成していきたいものです。参考図書『共同体、ゆるしと祭りの場』(ジョン・バ二エ、女子パウロ会)

 今私の手元に心の病を体験したクリスチャンの全国的交わりを目的として一九八九年に 「心の泉会」を作られた田村真由美さんの記事があります(クリスチャン新聞、一九九三年九月三日付)。そこには次のような内容が記されています。

 @心の病気ぱ誰でもかかり得るもので.(牧師も含め)、クリスチャンが心の病気になることは、決して不信仰とか恥ずべきことではない。……
 B心病む人の癒しをあせらないで、心の病を持ったまま教会が受けてほしい。病名というレッテルをはったり、特別扱いをしないでほしい。

 ……現在会の働きを引き継いでいる田村正さんは、著書『録うつ病を生きる](聖恵授産所)で、私たちキリスト者に「信仰を勧めるのでなな<、信仰をもってあたってほしい」(七五頁)という願いを語しておられる。(以上2編は『いのちのことば2000.11』より)

 特に「信仰を勧めるのではな<、信仰をもってあたってほしい」ということばには私も頭をが−んと殴られた思いがしました。信仰をもってあたってもらえる所、それが教会、確かにその通り。しかしこれは肉の力で、すなわち生まれながらの人間の努力で、できるものではありません。聖霊さまの助けが必要です。また、同時に職員も必要であり、設備も必要です。もしあなたが聖霊に導かれささげるなら、それは聖いお金となり、人々の必要を満たします。そのときあなたは神さまとともに働く人です。