335 感謝と感動を味わう

 ●聖書箇所 [創世記1 3 − 1 8章]

 今回の題は感謝と感動を味わう、です。いかがでしょうか。あなたは今感謝の生活、感動を覚える生活をしていらっしやるでしょうか。「いやあ−、ありがたい!」、これが感謝。「へえ−、そんなこと、あるんだ」というのが感動。

  「先生!よろしくお願いしまあす。」教会の奥に私は、何か荷物でも届いたのかと玄関に出てみると一人の青年がそこに置かれていました。両足が伸びたままで、体に少しふるえがあり、坊主頭の彼は暗い顔をしてそこに置かれ、座っていました。彼に手を貸しながら会堂に案内して話を聞くと「家にいても、おまえが生まれて来なければ良かったとか、これからのお前のことを考えると、絶望だとか言われるとつらすぎる。自分でも死のうかと思っている。でも養護学校にいた時の友達が、この町にも教会があるから、死ぬくらいなら行けって言われたので頼んで連れてきてもらった。」と言うのです。……そのA君がほとんど毎日教会に来ることになりました。……そして夏のキャンプに出かけ、そこでイエス・キリストを……信じ、洗礼を受けました。……大きな笑顔が彼の特徴になりました。人一倍明るい青年になりました。……ところで旧約聖書に出てくるヨブと言う人は、試練の中で、こんなふうに言いました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨプ記1章21節)
 ヨブの告白には現代人が忘れてしまいがちな真理が隠されています。つまり……自分は「何も持っていなくて当たり前」というところから始まっているのです。この発想は現代社会ではなかなか育ちません。「人間は何か持っていて当たり前」という考えが主流だからです。「何か持っていて当たり前」という発想から導き出されるのは「もっともっと」という思考です。それが否定されると「落胆、無気力、絶望」へと向ってしまいます。……(関根一夫・ミッション・エイド・クリスチャン・フエローシップ牧師)(『クリスチャン新聞福音版』1996.9.1)

 その通り、と私はこの文章を読んでうなずきました。「もともと私は持っている、私にはできて当たり前」という意識が私たちから、感謝も感動をも奪っているのです。今回はアブラハムから、謙虚な彼の信仰から学びましょう。神さまはあなたを愛して日々の生活に感謝と感動を用意してくださっています。いつどのように経験できるのかを学びましょう。

主の命令

 創世記17章10、11節をお読み下さい。割礼を受けなさいという命令がアブラハムにはありました。この割礼には一つの重要な意味があります。それはイスラエル人と外国人とを区別することです。アブラハムはもともと住んでいた所から、父祖の土地から、彼の側からすると向こう側へ渡りました。ハ・イブリとは「向こう側の人」という意味です。「ヘブル」人の語源です。こちら側はどのような世界でしょうか。それは生まれながらの心のままで生きる世界です。向こう側は変えられた心で生きる世界です。アブラハムはすなおにこの命令に従いました。ゆえに彼の心は聖いものへと変えられました。一族が割礼を受け終わった創世記17章27節のあとの記事に注目しましょう。創世記18章1節では早速主がアブラハムに現れておられます。大きなプレゼントです。でもここからが彼の新しい心が表現されている所です。旅人へのあたたかいもてなし。8節までお読みください。私たちは勘違いをしてはいけません。ある人々は礼拝や祈祷会に皆勤していれば立派な信仰を持っていると考えています。そうではありません。立派な信仰であるかは、身近な人への態度によって証明されるのです。私たちはアブラハムの態度に学ぶべきです。しかし、この、心を変えることが難しいのです。ギリシア語ではメタノイアと言い、悔い改めと訳されることば、これはメタ=大転換、ノイアはヌースで心を意味しています。でも大転換は難しいのではありませんか。実際には。覚えてください。不可能を可能にするのが信仰の力。神さまの力。どうしたらこれを活用できるのでしょうか。それは主のご命令をいただいたときに、さっと即座に従う事。最近こういう記事を目にしました。

 20世紀のもっとも重要な物理学者のひとり……ボーアはじつは映画ファンで、とりわけアメリカの西部劇が好きだったという。西部劇といえば決闘シーンがつきものだ。たいていはクライマックスで、ファンはそれをみにいく。ボーアにひとつ解せなかったのは、どうしていつも腰のピストルを先に抜いたほうが撃ち殺され、その逆ではないのか噂ということだった。……なんらかの実際的な根拠があるのか。……それをボーアは知りたいと思った。そこで、……ボーアは「実験」をしてみることにした。ふたりの助手を街にやり、ピストル(といっても)鉄砲だったそうだが買って来させた。そして、あらかじめ一方に先に抜かせるよう指示して、ふたりを対決させた。その結果は、あとから銃に手を伸ぱしたほうの見事な勝ちに終わったという。……口ベルタ・カレーりは、相手を撃とうとまず考えて手を動かすと、そこに一瞬の遅れが生じるからだという。あとから手を伸ぱすほうは、敵の動きにせまられてまさに間髪を入れずに反応する。……(これを)受け身の能動性(と言う)。(『日本経済新聞』2000.6.28国立民族学博物館教授・野村雅一)

 確かにそうではないでしょうか。主のご命令に間髪入れず、反応したいものです。

義とされたこと

 ソドムとゴモラの話を学びましょう。創世記18章20、21節をお読み下さい。神さまはこの二つの町のあまりの不道徳に対してついに滅ぼす決定をなさいました。アブラハムのこれに対する反応は23節にあります。彼は「正義の神さまが正しい人まで含めて一緒に滅ぼしてしまわれるんでしょうか?」と激しく詰め寄っています。これも先の受け身の能動性でしょうか。私たちはアブラハムの、神さまの哀れみを求める聖さに心を奪われます。 32節迄の神さまとのやり取りは実に印象的ではありませんか。義の人が家庭を、社会を、世界を救う可能性を教えています。ところで義の人ってどんな人のことでしょうか。まじめで融通がきかなくて、自分に対してだけではなく他の人にも厳しい人、でしょうか。答え、それはここに見るアブラハムのような人です。つまり他の人の上に神さまのあわれみを願う人の事です。私の好きな人であるサン・テグジュペリ(『星の王子様』の作者)はこう言います。

 「人は神に開かれた窓を持つのでなければ、空しい」

 私たちはどちらに向って心の窓を開いているのでしょうか。向いている方向にしたがって見えるものが違ってくるはずです。少なくない人が人の方を見ています。すなわち心の窓を開けるときは人が見えるのです。人が見えれば、何が起きるのでしょうか。それはあら探し。そしてさばき。そういう人はこう考えているのです。「俺はいつも正しい!」「なぜ、私の考えの通りにしない!?」そう言う人はいつもいらいらいら。これがその人への神さまによるさばきです。私たちは「『私はいつも正しい』と思う」という罪を知らなければなりません。アブラハムは心の窓から神さまを見ていました。ですからこう言わざるを得ないのです。「私はちりや灰にすぎません」(創世記18 : 27)。このような謙虚さを持つ者こそが義の人です。これほど罪に深く汚染されている私でさえ救われた。神さまのあわれみを受けた。同様に、彼らも救いを哀れみを受けて欲しいと義の人は考えるのです。あなたも義の人になることができます。どのようにしてなれるのでしょうか。それはもう学びました。罪に激しく汚染された自分自身を正確に認識する事であり、イエス・キリストの前で悔い改めることです。あなたは罪を赦されたことによって新鮮かつ強い感動と感謝とを味わう事でしょう。

祭司

 13章1節以下の記事から話しましょう。おいのロトはアプラハムと行動をともにしていたからこそ裕福になれました。でも感謝の思いはなかったようです。さて両人の部下たちの間でいざこざが頻発しました。アプラハムは関係のこじれを避けるためにこう提案しました。 

 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:9)

 なんという寛容さ!ロトは好きな方を選んでさっさと去って行きました。でもその土地で大戦争が起きました。はじめはアブラハムも中立を保っていたのですが、ロトが捕まってからはそうはいかなくなりました。一族郎党を引き連れて参戦、勝利を収めました(14-16)。さて勝利の凱旋をしたところ、二人の王が出迎えました。ソドム王は世俗的で、計算高い。21節を見てください。もう一人のメルキゼデク王はパンとぶどう酒を持参してアブラハムを霊的に祝福しました。彼は祭司キリストを表しています。私たちはアブラハムのように祭司との出会いをするべきです。それは良好な人間関係を生産してくれます。これなくしてだれも幸せにはなれません。一番身近な人間関係といえば、家庭、家族。
 ある心理学者は「家庭のない家族の時代」と現代を表現してこう言っています。

 @要塞家族−一他人の悪口を言って、内部を固める。
 Aサナトリウム家族一一傷をなめあう。
 B劇場家族一一それぞれ役を演じる。
 Cホテル家族一一義務も責任もない。
 D乗り合い家族−−用件以外は話さない。

 イエス・キリストは「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マルコ3:35)とおっしやいました。私たちは教会と言う霊の家族の中で理想的な人間関係を学ぶ事ができます。そして肉の家族にその成果を還元しましょう。それにはいつも素敵な祭司との出会いをしていなければなりません。祭司は神と人、人と人、という間を仲介します。ここに最高の方がおられます。イエス・キリストです。十字架の上であがないとなられたお方。
 私は婚約した男女に相手の家庭を訪問しなさいと言い、こういう助言をします。女性に向っては、「彼のお父さんが彼の妻にどんな態度をとっているかを観察しなさい。なぜならその態度がやがて彼からのあなたへの態度になるから」と。もちろん反対もしかり。しかし私たち人間、だれも完全な親を勤めることはできません。私たちに今できることは最高のモデルを得て、できるだけそれを見つめる事です。見つめるものを私たちはコピーするのですから。最高の祭司とはイエス・キリストです。彼を見つめ、そして救い主として信じ、そして彼を見習ってください。彼はささげる人生を生きました。あなたもささげる生き方をしてみませんか。真の感謝と感動がそこにはあるはずです。

 混血児の母と慕われたエリザベス・サンダース・ホームの園長であった沢田美喜(0901-80)は昭和23年から32年間にわたり、私財を投じて約2千人の孤児を養い自立させました。彼女は最後にこう言っています。「私の見つけたほんとうの幸せは、火でも水でもそこなわれず、泥棒であれ、役人であれ、どんな偉い方でも、私からそれを取ることができない」。彼女は多くの偏見や無理解と戦ったのです。でもささげることは彼女をいつも感謝と感動の世界へといざなったのです。