336 山上の変貌

聖書箇所 [マタイの福音書17章1−8節]

 この部分は山上の変貌としてよく知られた場面です。おそらくヘルモン山(3000メートル。ちなみに富士山は3776メートル)の中腹か、それより下の場所でイエスさまとモーセとエリヤの3人がサミットを開いたのです。何がテーマであったのでしょうか。平行記事を見ると分かります。ルカの福音書9章31節に「ご最期のこと」と訳されたことばが理解する鍵です。ギリシア語ではエクサダスです。「出国」と訳されるものです。罪に汚染された世界(私たちが住んでいる、この世界)から、人々を出国すること、すなわち十字架上の死へ向うことがみこころかどうかを、父なる神さまに尋ねておられます。
 さて今回学びたいのは、イエスさまのこの態度です。私たちはとかく「あれをください!」、「これをください!」、「あれをこうしてください!」、「これをこうしてください!」と言いがちではないでしょうか。そして落ち込みます。発想の転換をするのはいかがでしょうか。「神さまは私に何をするようにお望みですか」。「どのような世界に向けて私がエクサダスすることを神さまはお望みですか」と問うてみるのはいかがでしょう。イエスさまの力と輝きの理由はここにあります。今回は神さまがあなたに願っていらっしやる工クサダスについて考えましょう。

憎しみの世界から愛の世界ヘ

 サミットにはモーセが加わっています。モーセは何で有名でしょうか。そうです。十戒です。出エジプト記20章にありますね。この十戒は一言で要約するとどうなるでしょう。愛です。神を愛し、自分を愛し、人を愛することが重要である、というのが十戒の精神です。私たちは憎しみの世界から出国して愛の世界へ移らなければなりません。ところで、その愛は交わりであり、触れ合いです。一人では成り立たない世界の出来事です。ですから触れ合いは触れ愛とよく言われます。この「ふれ愛」を分析すると、次のように分類できるでしょう。

 (1)「求め愛」(求め合う愛)−一人は、他人と関わることなしには生きられず、育つこともできない。他の人間との関わりを経て初めて、ヒトは人間になり,健やかに育ち、人間らしい生き方を営むことができる。「求め愛」は「ふれあい」の基盤である。

 (2)「見つめ愛」(見つめ合う愛)一一愛は、相手をより深く理解したいという想いや、理解するための行動を生む。「見つめる」とは、うわべを繕った姿ではなく、相手の心を、部分ではなく、全体を理解することである。

 (3)「語り愛」(語り合う愛)一一相手と理解し合うためには、語り合いが必要。語り合うということは、心を開いて心を通わせ合うコミュニケーションになる。そこに、信頼に基づく愛が育つ。

 (4)一一「響き愛」(響き合う愛)一一見つめ合い、語り合う関係は、心が響き合う関係を育てる。相手の気持ちの共感、つまり、気持ちのこだまが生ずる。

 (5)「ほめ愛」(ほめ合う愛)一一どんな欠点をもった人にも長所はある。相手の短所を受容し、長所をほめ合う関係は和を育てる。また、個人の自信、自専心を育む。それが短所を少なくし、長所を多くする基盤となる。

 (6)「支え愛」(支え合う愛)一一すべてに完璧な人はいない。人は互いに支え合い、助け合いながら生きていかねばならない。「支え合い」は「癒し合い」でもある。人は皆、多かれ少なかれ病んでいる。親しい関係には傷つき合いは避けられないが、その傷や病に”手当でができる関係であれば、愛が育つし、心身の健康も維持できる。

 (7)「赦し愛」(赦し合う愛)一一相手の好まない言動を赦し合える関係は、愛に深さと広さ、そして長さを加えることができる.

 (8)「睦み愛」(睦み合う愛)一一これまでの七つの「ふれあい」の積み重ねが、睦み合いをもたらす。逆に、これらが欠けていれば「睦み合い」は生じない。(近藤裕『自分の心を癒す本』三笠書房)

 ところで私たちの現在住んでいる世界は明らかに憎しみの世界です。ある夫が自分の中指を根元から切り落として、妻に郵送しました。彼は浮気をし、謝罪しましたが、妻は誠意が感じられないと受け付けてくれなかったためにそのようにしました。妻は憎しみの牢獄の中に閉じ込められています。今、私たちは愛の世界で生きるために、イエスさまのあたたかさのある交わりの中に身を置くようにするべきです。そのような交わりの特徴は

 1)肯定的。私たちは失敗することがありますが、そのようなときに「次のチャンスには成功するように祈りましょう」と言うべきです。

 2)受容的。人をありのまま受け入れましょう。放蕩息子の父親の姿を思い起こしてください。そのままあたたかく包み込んでいます。ことぱなどで厳しく追求すれば人は変わる、と思うのは誤解です。なおいっそう思わしくない方向へ人を追いやるものです。

 3)感謝の気持ちが充満していること。私たち人は決して一人では生きられません。ともに歩んでくれる、あるいは住んでくれる、そして触れ合ってくれる人がいるから生きていられます。このような暖かい交わりの中で私たちは愛の世界へ旅立つ勇気を得ます。

人のことばの世界から神のことばの世界ヘ

 エリヤは大預言者です。預言者は神さまから預かったおことばをそのまま、薄めたり付け足したりしないで、人々に取次ぎます。聞いた人が怒ろうが、泣こうがおかまいなしです。おことぱには少なくとも二つの恵みがあります。一つは平安。これは人のことばの世界と、神のことばの世界とを対比させると理解しやすいでしょう。雨も雪も、風が吹かなければ空から垂直に降って来ます。ところがある場合にはそうでなく、まるでぶつかってくるように感じられるのです。それは車を運転している時。人のことばの世界では私たちは人から裁かれているように見え、そして人のことばに一喜一憂させられる現象が不断に見られます。ことばには良きにつけ悪しきにつけ製造能力があります。「光あれ!」とことばが発せられたときに、光が存在を始めました。そして人のことばは悪をも製造します。目の開き具合を見て、「寝ているのか、起きているのか分からない」と言えば、相手の人の心に傷をつけるでしょう。大きな瞳の人に向って、「出目金!」と言っても同様です。
 良いものを製造しましょう。前者には「謙虚な眼差し」、後者には「すべてを包み込む大きな眼差し」と言ったらいいのです。こちらが神のことばの世界のことです。
 次は力について。韓国ナザレ園の創設者・菊池政一牧師を紹介しましょう。

 菊池師を信仰に導いた聖書のことばは「ただ神のみわざが彼の上に現われるためである」(ヨハ9:3)であった。この時、イエスは伝道の旅で生まれつきの盲人と出会ったのである。これを兄弟子たちは、イエスに「この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と質問した。それに対するイエスの答えが冒頭のことぱであった。「私はこの福音を受け止めて救われました。青年時代、東京で無理な苦学をしてすっかりからだをこわしてしまい、田舎に帰り、罪の呵責とひどい神経症に苦しめられ、そして止めどもない前世の縁、先祖のたたりなどの日本教の教理に悩まされていました。その時、この因果論を打ち砕く福音の言葉を、自分の身に当てはめました」信仰により、師の上には平安と希望の光がさしこみ、……二十四才で受洗した師は、……使命感に燃え伝道者として献身した。その後、ナザレ園を創立、盲老人ホームや救護施設、特別養護老人ホームなどを増設するようになったのである。さらに師の働きは韓国慶州市で在韓日本婦人の保護のため韓国ナザレ園を開設するに至った。(『チャペルタイムズ』1999年6月10日号)

 みことばは私たちに大きな力を与え、大きなことをさせます。では神のことぱの世界に大きく飛躍するにはどうしたらいいでしょうか。それはイエスさまを信じるという、人生で初のエクサダスを経験することです。

 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1 : 12,13)、

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(同3:16)

 このようなみことばを私たちは理解してクリスチャンになります。これは罪の世界からのエクサダス。このようにみことばに裏打ちされた経験を積み重ねて行くことです。神のことばの世界の豊かさがさらに私たちには理解されるのです。

肉の判断の世界から霊の判断の世界へ

 霊(神)の判断が十分に働く世界はすべてにおいて安心できる世界です。それを主観的に理解できている時、シェキナーと人々は呼びます。それがここの場面です。2節と3節。神のご臨在に心も体もすべてが輝いています。霊(神)の判断が十分に働く世界がどんなものであるかを簡単に例をもって説明しましょう。
 フランスにクロード・ベルナールという生理学者がホメオスターシス(これは恒常性と訳されますが、アメリカのキャノンが命名)という現象を発見しました。「外部環境の変動に関わらず、内部環境はほぼ一定に保たれる」というものです。たとえば哺乳動物である人間の体温は真夏でも真冬でも大体35−37度です。血液は私たちが日常の食生活をしていれば、どの個人も中性に近い弱アルカリ性に保たれています。あなたはいかがでしょうか。外部環境に左右された生活をしてはいらっしやらないでしょうか。人のことばに大きく左右され、落ち着きをうしなったりとか。私たちは無意識のうちに肉の判断によって生活し、行動しています。ゆえに不安定であったりすることが避けられません。あなたは歌謡曲が好きですか。演歌が好きですか。これらのすべてがが悪いとは言いませんが、歌詞の中には(メロディーは価値中立的であって、無関係です)悪い考えが色濃く反映したものがあります。

 心のこり(なかにし礼作詞 中将奉士作曲 細川たかし歌)という歌があります。

 私バカよね おバカさんよね
 うしろ指 うしろ指 
 さされてもあなた一人に 
 命をかけて耐えてきたのよ 
 今日まで秋風ガ吹< 
 港の町を船が出てゆくように
 私も旅に出るわ 
 明日の朝早く

 一番のみですが、三番までにバカが6回も登場します。私は女性がこの唄を歌うことが信じられません。バカな女性はバカな男性と結婚し、バカな子を産み、バカな家庭を作るのです。バカな家庭が集合してバカな社会が誕生するのです。イエスさまはバカと言う者はゲヘナ(地獄)に投げ込まれるとおっしゃっています。でももしかすると私たちはこのような詩に親近感を持つのかも知れません。それだけ染み付いていると言うことができるでしょう。

 船頭小唄(野口雨情作詞 中山晋平作曲 森繁久弥歌)はどうでしょうか。

 おれは河原の 枯れすすき 
 同じお前も 枯れすすき 
 どうせ二人は この世では
 花の咲かない 枯れすすき

 あなたは花の咲かない枯れすすきなのですか。染み付いた考えの―つは無常感でしょう。これは万物は常に変化流転、永久不変のものは何―つないという仏教的な考えです。平家物語にはそれがよく表現されております。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれるも人も久しからず、只、春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。(平家物語』巻一祇園精舎)

 解決策は私たちがこれらのものが私たちのうちに存在することを意識して、エクサダスを決意することでしょう。神さまの豊かな祝福があなたにありますように。