342 あなたの中の優れた宝

聖書箇所 [ローマ人への手紙5章1−8節]

  「実存的転換」ということぱをご存じでしょうか。
 
 朝日新聞から、『人質495日』にテロリストたちに拉致された宣教師の話です。レバノンに派遣された彼はベイルートにおいて、妻の目の前での出来事でした。この彼の採った態度がその一例です。「実存的転換」とは「物事の受け止め方や考え方を変えること」です。突然襲ってきた運命を呪うことを止め、敵に向って小さなことでも感謝をするようにしました。ついに彼は無傷で帰還しました。「実存的転換」とは環境をも変えるものです。あなたはぶつぶつ言って生活をしてはいないでしょうか。どうして私の環境は悪いのかと。

 ある人がこうつぶやいていました。 「私の十字架は他の人に比べて重すぎる。不平等だ!」。あるとき、上からこのような声が聞こえて来ました。「ではそれを降ろしなさい。そしてあなたの好きなものを選びなさい」。目の前には種々の十字架が置かれているのを彼は見ました。「さあ、どれにしようかな−」と歩き始めました。なかなか適当なのが見つかりません。見かけは良かったのですが、重すぎたり、バランスが悪かったり。明け方になってようやくお気に入りを見つけました。そのとき、また声がしました。「それはもともとあなたのものですよ!」。あなたはご自分の十字架を重すぎる、不適切だとお考えですか。そんなことはありません。あなたにとってちょうど良いものです。

 今回学ぶ聖書箇所では十字架を、「平和、喜び、患難、忍耐、品性、希望」であると見ることができます。十字架とはあなたの人生のテーマです。ところで「実存的転換」、すなわち「物事の受け止め方や考え方を変えること」は困難さを感じているときにはそうたやすいことではありません。そこで今回はそれを容易にするための下地を作ることをしましょう。これから説明することは、あなたの心の中に余裕が生まれさせ、「実存的転換」をしやすくさせるものです。「隠れた」としたのは、意外に私たちはこれらのものの存在に気付かないからです。でも立派な宝です。

あなたという一人の人の存在(ローマ人への手紙5章8節)

 あなたの存在そのものに大変大きな価値があります。あなたの存在は決して偶然の産物ではありません。あなたが生まれて来るためには父親と母親が必要です。彼らにもそれぞれ同じように父親と母親とが必要です。―世代を40年と考え、25代までさかのぼると、ちょうど1000年間ですが、先祖の数は1600万人です。平安中期からこれらの人々の一人が欠けてもあなたの存在はありません。聖書には多くの系図が載せられていますが、この大切なメッセージを神さまから受けとらなけれぱいけません。たとえばイエス・キリストの系図。

 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。

 イエス・キリストの誕生は私たち人類の歴史への干渉です。偶然ではありません。あなたの誕生も善意の神さまによって計画された意味のあるものです。どうか立派な行動をしたからといったことで自分に価値が発生したとは考えないでください。私は団塊の世代です。ライバルがいつも周りにいて、競争ばかりさせられて来ました。「頑張れ!頑張れ!」の大合唱の中で生きて来ました。私には休むことが苦手です。休むとライバルに遅れをとる恐れと不安が生じ、さらには罪悪感さえ持ちます。でもこれでは明らかにバランスが悪いのです。行動していないときには自分に価値を認めることができないのですから。ローマ人への手紙5章8節をお読み下さい。

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 「私たちがまだ罪人であったとき」とはあなたが良いことを何もしていない段階で、すでに神さまから愛おしい思いで見つめられていたことを教えています。

豊かな感受性(ヨハネの福音書11章33−35節)

 イエス・キリストのお顔をあなたはどのように想像なさるでしょうか。優れた聖画がたくさんあるので、きっとすましたやさしいお顔でしょうね。ヨハネの福音書11章35節には涙を流されたイエス・キリストのお姿を見ることができます。他の場面では怒りを見せてもおられます。パリサイ人や律法学者たちなどに向けて。イエス・キリストはとても感受性の豊かなお方です。感受性の豊かさこそ私たちに幸せを与えてくれます。

 ある婦人がお母さんを亡くされました。お葬式における彼女の態度は非常に立派で、何一つ取り乱すところがありませんでした。彼女はこう教えられて来ました、「クリスチャンは悲しんではいけない。故人は今天国で生きているのだから、むしろ喜ぶべきです」と。彼女はまもなくうつ病になりました。現実に生じている感情を抑圧してばかりいるとうつ病になることがあります。親切な人の助言で彼女はうつ病から解放されましたが、それは思いっきり泣いたときでした。寂しいはずです。悲しいはずです。ならば泣くのが当然ではありませんか。感情を、気持ちを自由に吐露できる人はほんとうに幸せです。親切にされて「うれしいーツ、ありがとう!」と素直に言える人は幸せです。反対に「何か、裏があるのよね!」などと言う人はなんと寂しい人でしょうか。あなたが豊かな感受性を養うには神さまの中の母性に触れることです。そんなものがあるだろうかとお考えですか。アダムは神さまに似せて造られました。そのアダムの一部からエバが作られました。つまり父なる神さま (男性)にもアダムにも、その中に女性性あるいは母性があるということを教えています。

 牧師の息子であるユング*1は男性の中の女性性をアニマと呼びました(ちなみに女性の中の男性性をアニムスと呼びます)。神さまには本来女性的なもの、母性があります。母性の特徴はやさしさであり、すべてを包み込む抱擁力です。あなたにぜひ神さまにはこのようなご性質があることを知っていただきたいと思います。

失敗の経験(詩篇119章71、72節)

 聖書に登場する英雄たちはことごとく失敗者でもありました。アダム(人類初の罪)。ノア(酔っぱらって醜態を曝した)、アブラハム(預言を信じなかった、保身の為に妻を売った)、モーセ(自信過剰になったり、逆に無カ感にさいなまれたり)、ダビデ(人妻を奪い、その夫を謀略死させたり)などなど。
 彼らのようなものではないにしても、あなたにもきっと失敗があるはずです。とすると英雄になれる素地がありますね。さて失敗には二つの恵みがあります。一つはあなたを謙虚にさせます。

 「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(蔵言16 : 18)

 とあります。高慢には注意しなければなりません。
 もう一つは種々の事を学ばせてくれる、という点をあげることができます。成功体験は非常に心地良いものではありますが、逆に新たに学ぶことができにくくさせる弱点があります。私たちはかつての成功にこだわってしまう傾向を持っています。冷静に考えれば、かつての成功はかつての環境の中で起きたことであって、今日も同じ環境のままであるとは考えられないはずです、が、ついかつてと同じやり方で成功する、と錯覚させるのが成功体験のこわさです。でも失敗はあなたの「実存的転換」をたやすいものにしてくれます。あなたの思いを柔軟性のあるものにしてくれます。

 ダミアン神父はハワイに派遣されました。1 0 0年以上前は暗い雰囲気でした。モロカイ島はライ病者が隔離されたところでした。彼は積極的に彼らに近づき、福音を伝えようとしました。でもそれは失敗の連続でした。彼は一つのことをこうして学び、祈りました。「どうか私を彼らと同じ立場にしてください」。ついに彼はライ病にかかり、人々は心を開いて行きました。失敗は宝物です。あなたの人生は失敗から多くを学ぶことによって真の成功へと導かれます。もしあなたが―つ失敗したら、喜んでください。祝福へまた一歩近付いた、と。

 個性(コリント人への手紙第一12章14、27節)

 「私」と「あなた」、「あなた」と「私」とは違う、意識のことです。お花を見ても、まさか汚いと思う人はいないでしょうが、色に感動する人がいれば、形に興味を示す人もいて、さまざまです。「ある人は手、ある人は足」、でも一つのからだ。これが社会というものです。誰一人不要な人はいない、すべての人は使命を与えられている、これが神さまからの私たちに対するメッセージです。しかし分かっちゃいるけど止められない、すなわち人を裁きやすいのが私たちの常です。

 「あなたは、どうして、私が考える通りに行動しないの!?」
 「あなたは、なぜ、このようにできないの!?」などなど。

 こう思う場面が多いのではないでしょうか。人により、できることとできないことの種類が異なります。互いに違いを、すなわち個性を受け入れるべきです。ポール・トュールニエがこういう意味の事を言っています。

 「個性を認める社会には成長がある」。

 大切なことは人の前で生きる、ではなくて、神さまの前で生きる意識です。人の前で生きるとは周囲の目を気にし過ぎた生き方です。人が助言してくれたとして彼はあなたの失敗に責任をとってくれるんでしょうか。みことぱにはそのような心配は不要です。みことばは、神さまの保証のことばです。神さまはあなたをその個性において造ってくださいました。勇気をもって
 「これが私です!」
 「私はあなたとは違うけれど、これでいいと思っています」
 「私はあなたとは異なったペースで進みますが、これが私なのです!」

と言ってください。あなたは心の中に喜びと平安とを感じるでしょう。こうして隠れたいくつもの宝を自分の中に発見するとがぜん、「実存的転換」への勇気に溢れて来ます。そしてあなたは環境の奴隷ではなくて、逆に支配する者となって行きます。

*1

ユング【CarI GustavJun9】(『現代用語の基礎知識1998年』)
 スイスの心理学者・精神医学者。ブロイラーに協力、連想検査を作り、また、性格を外向型・内向型に分類。はじめフロイトの考えに共鳴し、精神分析運動の指導者となったが、後にその学説を批判し、独自の分析心理学を創始。(1875〜1961)

◆女性原理(feminine principle)〔哲学思想用語〕
 これまで、社会・文化・思想などを動かす原理として考えられていたものが、権力・論理・理性・暴力といった男性的な原理であったのに対して、女性的なものを中心に置こうとする考え方。女性原理という概念は、フェミニズムの運動と関連しているが、現代においてもっとも大きな影響力をもつ女性原理の理論のひとつは、ユングのいうアニマである。アニマは、男性的なものであるアニムスに対応する女性原理であるが、ユングはそれが男性のなかにも存在すると考えている。つまり、女性原理といっても男性原理と排除し合うものではない。今日の問題は、単に女性原理の重要性を説くことで終わるものではなく、男性原理との相互作用の問題に移行しつつある。

◆アニマ(anima)〔外来語年鑑1998年〕息。生命。ユングの心理学で,男性にある抑圧された女性的特性。
  アニマ【animaラテン】(広辞苑)