343 チャレンジする人生

聖書箇所 [ヘブル人ヘの手紙11章]

 11章6節には信仰の定義が述べられています。すなわち信仰の名に値するには「神がおられること」と、「神を求める者には報いてくださる方であること」との二つを信じなければならないと言うのです。前者だけでは信仰としては不足であり、悪霊でさえも信じていることです。後者がどうしても必要です。今回は後者がテーマです。神さまを信じて「自分の人生に祝福を求めてチャレンジをする」と言い直してもいいでしょうか。11章には信仰ゆえに人生に大きなチャレンジをした人が多数登場しますが、アブラハムとモーセをケーススタデイしましょう。私たちがチャレンジをするような積極的な生き方ができるために。

ちょっとだけ難しいテーマを用意する

 アブラハムはカルデヤ地方のウル(メソポタミヤ地方にある)から出立するようにと言われました(8)。生まれ故郷を離れるのは辛いことに違いありません。友人からも親類からも離れるのです。難しさがあることは否めません。モーセは当時のスーパーパワーであるエジプト国の王子の立場を捨てて奴隷になりなさいというアイディアをいただきます。これもまた難しいことです(24-26)。しかし人生に与えられた、ちょっとした難しさが私たちを発奮させるのです。ピリピ人への手紙2章13節のおことばに聞いてください。

  「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」

 

ピーナツ博士

ピーナツバターという食べ物を食べたことがありますか。これは、ピーナツを妙ってすりつぶしぺースト状にした食品で、バターのようにパンに塗って食べると美味しいです。このピーナツバターを考案したのは、ジョージ・ワシントン・カーバー(1864〜1943)という農業科学者です。力一バーについて、こういう逸話が残されています。彼は自分の研究室を、「神の小さなワークショツプ」と呼んでいました。その研究室である日起こったことを、彼はこう書き残しています。彼は祈りの中で神にこう尋ねます。「創造主よ、宇宙はなんのために造られたのですか」すると神からの答がありました。「あなたの小さな頭脳に見合った質問をしなさい」そこで彼は再度質問をします。「人はなんのために造られたのですか」また神の答がありました。「小さき者よ。あなたの質問は大き過ぎる。質問の範囲をもっと狭め、焦点を絞ったものにしなさい」そこでカ一バーは質問の範囲を狭め、こう尋ねます。「では、創造主よ、ピーナツはなんのために造られたのですか」「それは良い質問だ」という答が返ってきました。それをきっかけに、ジョージ・ワシントン・カーバーは、当時安っぽくしか見られていなかったピーナツについて、300以上の使用法を発見するようになります。謙虚な質問が、大きな成功を生んだのです。(『クレイ』2005.5)

 あなたの中で聖霊さまによるインスピレーションが働きます。あなたの中にさまざまなアイディアが飛び交います。あなたが心を神さまの前に開くとき、多くの夢が、目標が、問題解決の希望が沸き起こります。どうかそれらの中からちょっとだけ難しそうなものを選んでチャレンジをしてみましょう。あまり大きいものはけがをすることがありますので気をつけなければなりません。失敗をして自分を深く傷つけてしまうことがあります。

忍耐を学ぶ

 アブラハムはウルを出立をしたはいいが、即座に約束の土地を手に入れることができたわけではありません。かえってよそ者として、うさんくさい目で見られました(9)。「神さまを信頼してやって来たのに-」と思いつつ、危険な環境の中でしぱらくの間、過さなければなりませんでした。
 モーセはどうだったでしょうか。初めの崇高な決意がそのまま彼の気に入るような結果を招いたでしょうか。「同胞の為に戦う」と決意をしたのですが、その同胞から逆ねじを食らわされました。彼は自信を失い、ミデアンに逃亡・亡命せざるを得ませんでした(出エジプト記2:11-15)。40年です。なんと長い時間でしょう。忍耐の期間でした。
 あなたもきっと忍耐をしなければいけない時があります。「あ−あ、40年も・・・・・・」とは思わないで下さい。旧約聖書においては実物教育がなされていたのです。40は完全数です。十分な、の意味です。モーセが砕かれる、すなわち神さまから忍耐したとお墨付きをいただくのにこの程度の年数がかかったというのです。あなたの場合はきっともっともっと短いでしょう。でもこの忍耐があなたに「神を求める者には報いてくださる方であること」を信じさせてくれるようになるのです。  この種のチャレンジ信仰こそあなたの人生を豊かに祝福するのです。そうは言っても待っている間、辛いには違いありません。なんと言っても私たちが感動するのは希望ある夢に向って決断する時です。そしてそれが実現する時です。わくわくします。いのちが躍動します。心が燃えます。でも両者の中間が最も辛い。でも忍耐の間に私たちの信仰は育てられます。

 織田信長が持つ丸根砦に向かった徳川家康には次のような話が伝わっています。まだ若かった家康にとって一番大きな楽しみは、途中、16年ぶりに母親(伝通院夫人)に会えたことでした。文字通り涙の対面でしたが、その最中、家を囲む垣根の向こう側を大きな荷物をつんだ荷車をお百姓がひっばっているのに気づきました。車は重く、おまけに坂道でした。しばらくして、母親は言いました。「竹千代!」と、家康を幼い頃の名前でよびながら、次のように言うのでした。

 「竹千代、今のお百姓さんを見ましたか、どうやら坂道を登りきったようですね。よ−く覚えておきなさい。人の一生は重荷を負って遠い道を行くようなものです。決してあせって急ぎすぎたりしてはいけません。あせらずたゆまず、困難に負けず、どんな苦しみものりこえれば、かならず楽しい日が来るものです」

 やさしい母親の言葉にうなづき、この教えを座右の銘にしました。

 「人生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、あせらずたゆまず」。

 信長も秀吉も短期政権でしたが、彼は長期の安定政権を立てました。

 神さまはあなたを愛しておられることを忘れないでください。忍耐の末にあなたは勝利者となるのです(11 : 11、12)。ローマ人への手紙5章3-5節をお読み下さい。

信仰を育てていただく

 信仰は時間をかけて育てていただくものです。一朝一夕に完成するものではありません。
 
 まず、神さまから子どもを授かるということばを与えられたアブラハムの場合を考えてみましょう。三段階あると考えていいでしょう。

 (1)は「不信」。創世記17章17節をご覧下さい。

 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」お分かりでしょう。信じることができなかったのです。注意したいのは「ひれ伏し」ているのにです。あなたは礼拝をしても、信じていないことがありますか。そうです。そういうこともありうるのです。でもいつまでも信じなかったわけではありません。やがて 

 (2)に進みます。それは「もしかすると……」。そして

 (3)「信じる」。

 モーセの場合は。アブラハムとは違った進行をします。

 (1)力強く信じました。「私はイスラエル人のメシアになる!」と叫びました。でも同胞に歓迎されないことを知って、

 (2)段階へ進みます。それは「不信とあきらめ」。亡命の地ミデアンでそのような気持ちで過しました。

 (3)段階で彼は「神さまと戦い」ます。

  「イスラエル人のために立ち上がりなさい」
  「いやです」
  「立ち上がりなさい」
  「いやです」。

 あなたは神さまと戦ったことがありますか。不遜だとは思わないで下さい。神さまは私たちの親であり、親子の間に、すなわち子どもが親に反抗期があるのは全く自然なことです。ないのがむしろ不思議であって、困ったことです。真剣に生きる者には神さまと戦う時はあります。モーセはこうして立派な指導者として育てられて行きました。私たちはお互いに集まるのはなぜかを忘れてはいけません。弱いから互いに励ますのです。決して裁いてはいけません。「なぜ、信じないの!エッ?」などと言ってはいけません。人の信仰にはそれぞれ成長のための段階があります。その段階に従ってチャレンジのレベルも違うのです。私たちは自分の段階、すなわちレベルを知って行動すべきです(ピリピ3:16)。

天国をいつも見る

 アブラハムもモーセも約束のものを手に入れませんでした(11 : 13)。なぜでしょう。旧約聖書の歴史は、あるいはイスラエル人の歴史は実物教育の時代です。荒野は私たちの人生の現場を、イスラエル人は私たち自身を表しています。さまざまな困難と戦いながら前進するのが人生です。その場合、決して忘れてはいけないのが、「私たちは旅行者 (他国人、天幕生活者、旅人、寄留者)」(11 :9、13)という意識です。私たちは今、電車に、バスに乗っています。どんなに快適でもそこは住むところではありません。どんなに豪華なホテルに泊まっても、そこも住むところではありません。帰るべきところがあります。神さまのもと、すなわち天国です。地上のものにこだわらないとき、私たちは大きなチャレンジをすることができます。でも私たちは実際の所、日々の現実の世界の動きを見ていると天国人として生きることの難しさを感じざるを得ません。それは目の前でいろいろと不平等と思えるようなことが多く起こるからです。

 昔あった馬車の話をしましょう。せまい馬車の中でも、現在の列車や飛行機のように、一等二等三等と待遇が別れていて料金も違っていました。あるとき、一等料金を支払って乗ったお客さんが不平を感じました。「高い料金を支払ったのに、いったいどこが違うんだ!?」しばらく走ると、スピードが落ちて来ました。御者が言いました。「すいませんが、三等のお客さま、降りてください」。坂道でした。プツプツ言いながら三等のお客は下りました。さらに坂道がきつくなり、また御者が言いました。「今度は二等のお客さま、降りてください」。このときようやく一等のお客さんは安心しました。しかし納得が行かないのが二等のお客さんです。「これでは不平等だ!」。御者は平気を顔をして言いました。「恐れ入りますが三等のお客さま、少し馬車を押して下さい」。こうして、だれもが納得しました。

 私たちは短期間、狭い領域で、そして悪い頭で判断しています。こうして間違った結論を導き出しています。神さまの統治なさる世界に不平等はありません。「地上の人生が、人生のすべて」と考えるから天国人として生きることができません。天国も含めて物事も精算されるのです。信仰とは、天国の時間も含めて、報いを追求するものです。もし地上で多くをもらってもそれらは朽ち果てるものです。天国における報いにこそ標準を合わせるべきです。

ある時、献身を決意する

 アブラハムは年寄り子イサクを焼くように言われました。モーセは王子の地位を捨てるように言われました。実に大きな決断が求められたものです。でも彼らは捨てました。これが良かったのです。なぜでしょうか。捨てる、と言いましてもゴミ箱に捨てるのではありません。神さまの御手に返すのです。ささげるのです。 2倍、30倍、60倍、1 0 0倍になって戻って来ます。私たちは捨てるべきものは二つあります。

 一つは大事な大事な持ち物。お金や財産です。それらを偶像にしてはいけません。偶像はあなたをコントロールします。あなたの人生はあなたのものでしょう。偶像にコントロールされてもいいのでしょうか。ある人は人の目という偶像にコントロールされています。捨てて下さい。他人があなたをどのように見ようが構わないではありませんか。どのように評価しようがいいではありませんか。もし他人の助言に従って、失敗したとしてその人は責任を取ってくれるのですか。

 二つ目は罪です。隠している罪はありませんか。十字架の下に置いてください。これら二つを捨てるとあなたにはがぜん勇気が生まれて来ます。もう失うものはない、という意識があなたを勇者とします。大きなチャレンジへとあなたを誘います。あなたには今、強い、未来志向の信仰が生まれています。さあ、あなたは今、旅立ちます。神さまの豊かな祝福があなたにありますように。