345 一人の若い娘とナアマン将軍

聖書箇所 [11列王記5章1−14節]

 ヘブルヘの手紙10章25節にこうあります。

 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。信仰は極めて個人的なもののはずですが、これはどういう意味でしょうか。他の人々との協同あるいは協力、すなわちチームワークの可能性が、信仰の持つ、もうーつの面としてあることを教えています。一人で信じるのも良いことです。しかし一緒に信じてくれる、一緒に祈ってくれる仲間もありがたいものです。ここでイエス・キリストのおことぱを思い出しますね。

 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイの福音書18 : 19、20)

 今回はチームワークが非常にうまく機能した例を学び、祝福を受けましょう。スリヤ(シリヤ、アラムと同じ)国のナアマン将軍はライ病に苦しんでいました。でも奴隷の若い娘の助言により、彼にとって非常に難しい問題を解決することができました。

みことば

 まず、みことばでプレーボール。北王国(イスラエル王国)とアラム王国とはしばしば戦争をしていました。あるとき、アラム側が攻め込んで、大きな戦果をものにしました。王は彼が一番信頼するナアマン将軍にその一部である若い娘を渡し、彼女はナアマン将軍の妻に仕えました。さて、この彼女はみことぱを信じる者でした(3:5)。将軍がライ病で悩んでいると知るや、すぐにイスラエルの預言者を紹介しました。癒しは預言者がするものではなくて、みことばがするものです。預言者は単なるメッセージャーです。彼女はみことばに対するしっかりとした信仰を持っています。一方、将軍は信じている、あるいはすぐに信じたのでしょうか。いずれもノーです。5章9節以降をお読み下さい。彼のプライドが邪魔をしています。みことばが彼には見えません。プライド、先入観、立場などなど、いくつもの障害物がみことばと彼の間にはありました。
 あなたはいかがですか。みことばとの間に何も障害物はありませんか。彼は神さまからテストされています、みことばを信じるか、否か。信じるならその通りになります。あなたが信じた通りになります。ある人々は、「私の人生には良いことが起きない。かえって悪いことばかり起きる」と言います。これは本当でしょうか。本当かも知れません。というのは「私の人生には悪いことばかり起きる」と、もし信じて来たのなら、その通りに起きるはずだからです。気を付けてください。前向きに、積極的に信じてください。
 「私を愛して下さるお方は善意のお方、私に良いことをしてくださるお方」と、こう信じてください。そのためにもチームワークを活用することをお勧めします。一人では、人間は弱いものです。一緒に信じてくれる仲間、一緒に祈ってくれる仲間がいてくれたらなんと幸せなことでしょう。ちなみに、信じることにはすばらしい副産物があります。
 
 最近の研究でストレスが心筋梗塞の有力な原因の一つであると発表されています。ストレスは血流を鈍くさせるのです。ウィーン大学の調査によると心筋梗塞の起きやすい時間は平均値で朝10時、広がりは午前9時−午後2時です。日曜日にはこの時間内にしっかりと礼拝をして、仲間と祝福を受けられると信じましょう。信じられないのは大きなストレスです。
 腎臓結石のために手術を繰り返していた人がいました。教会に来て、仲間が一緒に信じて祈りました。すると不思議なことにおしっこのときに大きな石が出て来ました。やがて5年後、また同じように石が体内に出来ました。また、みんなで祈りました。するとまたまた同じことが起きました。これは決して偶然ではありません。

忠実さ

 私たち一人一人にはそれぞれ務めが与えられており、忠実なプレーが求められています。さて、彼女は敵のまっただ中にいます。でも何一つ不満を言いません。むしろナアマン将軍とその妻にしっかりと仕え、新しい主人の窮状を知って手助けをしようとしています。これは彼女の目の前に用意された、彼女が取り組むべき務めでした。将軍も1節で分かるように尊敬される立派な人物でした。私たちも尊敬される者でありたいものですね。尊敬される人の一つの大きな特徴は目の前に用意されたことを丁寧に取り扱うことです。決していい加減には取り扱いません。ここでもイエス・キリストのおことぱを思い出しますね。

 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカの福音書16 : 10)

 神さまはよ−く見ておられます。小さな事と思われる事でも、神さまからいただいた務めであると考えるなら、あなたは祝福されます。かっこよく見せようとすると失敗するものです。神さまに「奇蹟を起こしてください!」と叫ぶよりも、神さまの前で誠実に生きることの方が不思議な出来事への近道です。今、私たちには謙遜が求められています。

 エリシャはまるで自分が牛であるかのようにして一生懸命に働いているときに神さまに呼ぱれました(T列王記19 : 19-21)。

 ダビデは羊飼いの仕事をしっかりとしている時でした (|サムエル16 : 1 1-13)。

 将軍は謙遜を学びました。癒された時の様子を聖書はこう記しています。14節です。「その皮膚は幼子のようになった」。これは彼の内面を表現しています。そしてここに大きな秘密が隠されています。牧師の息子であるユング*はすべての人の中にある無意識には父親、母親、老人、幼子の部分がある、と言いました。ナアマンの中の幼子がこのとき機能したのです。彼女の中の母親がそれに火を付けました。とすると預言者エリシャは父親役と言えそうです。お父さんとお母さんが揃って、「ナアマンちゃん、素直になるのよ!」、「はい!」。こうして奇蹟は起きました。あなたの中にも幼子がいます。イエス・キリストは言われました。

 この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイの福音書18:4)

勝利宣言

 神さまによってついに勝利宣言が発せられました。お立ち台に上がったのは、ナアマン将軍と若い娘。この組み合わせはなんとも不思議なものではありませんか。戦勝国のナンバーワンの将軍と敗戦国から拉致されてきた一奴隷。神さまの世界では、性、国籍、立場、年令、生まれ、先輩後輩など、どのようなものも障害にはなりません。私たちはだれとでも自由に優れたチームワークを組むことができます。ヨハネの福音書6章1節以降に「5000人への給食」という出来事が紹介されています。主役を張ったのは、大麦のパン5つと小さな魚2匹を差し出した無名の一少年でした。神さまの前につまらない人だとか、無視されてよい者だとか、いるはずがありません。あなたも重要な人物の一人です。どうか 「私は神さまにあって自由」という意識を持ってください。そういう信仰を持ってください。それこそ真の、十字架を信じる信仰です。
 私が尊敬するノーマン・ビンセント・ビール牧師に関する、次の文章をお読み下さい。

 永遠のベストセラー『積極的考え方のカ』の著者ノーマン・ビンセント・ピール牧師が、九五年の生涯を閉じた。一九九三年、クリスマスイブのことである。彼は自宅で愛する人々に見守られながら、安らかに息を引き取った。ノーマン・ビンセント・ピール牧師にふさわしい死に方だった。彼は、積極的考え方の大切さを説いた。これによっでさまざまな世代の人々が、心に平和と自信をとり戻したのである。説教、スピーチ、ラジオ番組や著書を通して、ピール牧師は、私たちが今置かれた状態は自分に責任があると話した。彼によれば、神は意味のないものをお作りにならなかった。それなら、私たちは朝起きたとき、つぎのどちらの態度をとるべきか?満たされた気分になるか、ゆううつな気分になるか? 選択は私たちに任されているのだ。私には、今でもノーマンが大きな声で私たちに呼びかけるのが聞こえてくる。「なぜ、あなた方は後者を選ぶのですか?」と。……彼はいつも「前向きに考える人間は、前向きな結果を出す」と語っていた」ノーマンは、問題を「すぐにでも取り除くべきネガティブなもの」とはみなしていなかった。この考え方をもっとよく分かっていただくために、ノーマンお気に入りの逸話をここで紹介したいと思う。……ある日、通りを歩いていると、友人のジョージが向こうからやって来ました。その沈んだ表情から見て、どうやら生きる喜びに満ちあふれているのでないことは確かです。平たく言ってしまえば、ジョージはどん底の状態にあったのです。そこで僕は 「元気かい、ジョージ?」と尋ねました。僕としてはお決まりにあいさつをしたに過ぎなかったのですが、彼はこれをまともに受けました。それから一五分は、どんなに気が滅入っているかを訴えつづけたのです。彼が話せば話すほど、僕も気分が思くなってきました。ついに、僕はこう言いました。「いや、ジョージ、君がそんなに落ち込んでいるのを見るのはつらいよ。いったい何があったっていうんだい?」この言葉が引き金になってしまいました。彼は「いろいろ問題があるんだよ」と始めたのです。「どっちを向いても問題だらけさ!もううんざりだよ!もし君がおれの問題をひとつ残らず取り除いてくれるなら、君の大好きな慈善事業に5000ドル寄付してもいい」。こんなありがたい申し出を聞き流すわけにはいきません。何とか手はないかと思いをめぐらせると、いい案が浮かびました。きっとうまくいくでしょう!「昨日、何千人もの人たちが住んでいるところに行ったけど、誰ひとり問題がありそうな人はいなかったよ。君も行ってみたいかい?」 「いつ行けるんだい?今のおれにはぴったりの場所みたいだからね」「君がそう言うのなら」と僕は言いました。「喜んでウッドローン墓地にお連れしよう」僕の知る限り、問題のない人間はあそこに人たちだけだ」 ……ノーマンは、繰り返しつぎのように語っていた。もし、あなた方に問題がひとつもないとしたら、それこそ危険信号です。あなた方は、重大な危機にさらされているのですよ。真の人生を送る道からはずれてしまっているのに、気づいていないのです。もし、どうしても問題がひとつも見つからないとしたら、今いる場所からすぐにに飛び出して、車に乗り、事故に会わないように、でもできるだけ急いで家に帰りなさい。自分の部屋に飛び込んで、ドアを閉め、ひざまずいて神に祈るのです。主よ、どうなさったのですか?もう私を信じてくださらないのですか? どうぞ私に何か問顔をお与えください』と」(『こころのチキンスープ2』ダイヤモンド社)

ユング【CarlGustavJun9】(現代用語の基礎知識1998年)
 スイスの心理学者・精神医学者。ブロイラーに協力、連想検査を作り、また、性格を外向型・内向型に分類。はじめフロイトの考えに共鳴し、精神分析運動の指導者となったが、後にその学説を批判し、独自の分析心理学を創始。(1875〜1961)

◆女性原理(feminine principle)〔哲学思想用語〕
 これまで、社会・文化・思想などを動かす原理として考えられていたものが、権力・論理・理性・暴力といった男性的な原理であったのに対して、女性的なものを中心に置こうとする考え方。女性原理という概念は、フェミニズムの運動と関連しているが、現代においてもっとも大きな影響力をもつ女性原理の理論のひとつは、ユングのいうアニマである。アニマは、男性的なものであるアニムスに対応する女性原理であるが、ユングはそれが男性のなかにも存在すると考えている。つまり、女性原理といっても男性原理と排除し合うものではない。今日の問題は、単に女性原理の重要性を説くことで終わるものではなく、男性原理との相互作用の問題に移行しつつある。

◆アニマ(anima)〔外来語年鑑1998年〕

息。生命。ユングの心理学で,男性にある抑圧された女性的特性。

アニマ【animaラテン】(広辞苑)