346 サタンの効用

聖書箇所 [ルカの福音書4章16−21節]

 サタン、いやだなあ−、というのが大方の感想でしょう。悪魔、悪い者など他にも似たようないくつかの名前を持っています。しかし、この、私たちが住んでいる世界は神さまの御手の中にあると知れば、決してサタンが悪いことばかりの存在ではないと言えるのでないでしょうか。誤解をしないで下さい。サタンは悪者です。でもこう考えたらいかがでしょうか。サタンが私たちに暗闇を見せれば見せる程、わが救い主イエス・キリストのお働きは輝きを増す。救い主イエス・キリストのお働きについてはルカの福音書4章にイエス・キリストご自身がイザヤ書を引用しつつ述べておられます。

 わたし(イエス・キリスト)の上に主(神、あるいは父なる神)の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。

 あなたは貧しさを覚えてはおられないでしょうか。あなたは何かに捕われ、縛られてはいないでしょうか。大切なものを見ることができていない、ということはないでしょうか。理不尽な取り扱いを受けて、しいたげられたという記憶はないでしょうか。あなたは、いま、本当に自由なのでしょうか。もし、あなたが以上の質問に肯定的な解答をすることに少しでも躊躇なさるなら、サタンはあなたの生活に影響を与えています。しかし安心して下さい。今、イエス・キリストの光はあなたに向って強力に輝いています。サタンの効用を三つ考えることができます。

小さな力で大きなことができることを知るようにされる

 創世記3章にあるアダムとエバが堕落したときの話は有名ですね。このとき、サタンは「いまからお前たちを大きく堕落させる」とはアプローチしませんでした。「小さな木の実を一つ食べるくらいのこと、何でもないじやあ−ないのかな」という誘い方でした。でもこれが結果としてとてつもない大きな結果を招きました。全人類に罪を引き入れてしまいました。今、私たちは種々悩み込むのは、この堕落を原因にしています。小さな事が、行為が大きなことを生じさせました。私たちの周囲には暗いニュースばかり報道される印象がありますが、それもそういう事実があるからでしょう。

 最近もパチンコに若夫婦が夢中になっていて、それも三時間も、車の中に置き去りにされていた子どもたちはとうとう死んでしまった、というニュースを聞きました。きっと始めは30分程度のパチンコ遊びであったんでしょう。だんだん時間が伸びて、なんというかわいそうなことを。

 ぞうさんが「すみません。あなたのお家で休ませてもらえませんか」と一軒の家の持ち主に頼みました。彼は断わりました。「あんたみたいな、ずうたいの大きなのを入れたら、家がこわれてしまう」。「でも寒いから、せめて鼻のさきっちょだけでも」。「さきっちょだけ、う−ん、それなら」。ぞうさんは「ありがとう、ありがとう」と言いながら、鼻のさきちょを家の玄関に入れました。すると、しぱらくして、鼻の根元まで入れているではありませんか。さらにはとうとう、あの、大きな体全体を入れようとして家を壊してしました。

 サタンのしたことは神さまの発明品である「からし種の信仰」の悪用なのです。サタンに悪用されてしまったこの信仰を取り戻さなければなりません。
 マザー・テレサはこう言いました。

 「私たちのしていることは大海の一滴に過ぎない。でもその一滴がなかったら、大海は生まれなかったでしょう」。

 その通りではありませんか。大海の一滴が彼女の大きな働きをいまでも支えています。私たちは心の中にともすると穴を作ります。この穴をすきま風が吹き抜けます。このすきま風こそサタンから来るものです。でも小さいのですから、ふさぐことは決して難しくはありません。むしろ小さい内にふさぐべきです。これが成功すればあなたという大きな存在(これは真実です。神さまはあなたをとっても強く愛しておられます。あなたの存在をかけがえのないものと考えていらっしゃいます)を喜びをもってあなた自身が確認することになるでしょう。小さなイエスさまをあなたの心に迎えていればいいのです。小さなイエスさまとは、少し信仰があればいいという意味です。

愛し合うことのすぱらしさを知るようにされる

 愛し合うことはなんと気持ちの良いことでしょうか。エーリッヒ・フロムは愛には次の四つの要素があると言います。

 1)配慮=愛の対象の持つ生命と成長に関心を示し、関わること。その人の中にあるものを育てること。
 2)責任=自発的に、決して義務感からではなく、相手のニーズに答えること。
 3)尊敬=愛の対象をありのまま見る。個性を個性として尊重すること。
 4)理解=愛の対象を理解すること。
 そして愛とは「愛の対象への積極的な侵入である」と言います。

 全く聖書的な理解です。イエスさまは世界へ、あなたの人生へ十字架という武器を持って積極的に侵入してくださいました。では愛をどのようにして実際には発動することができるでしょうか。
 ある人が愛を「ふれあい」であるとしました。そして「ふれあい」を8つに分類しました。

 「求め愛」=他者と関わらずして人は生きていくことはできない。ゆえに「求め愛」から愛は出発します。
 「見つめ愛」=求め合った者たちはお互いを理解しようと見つめ合います。
 「語り愛」=見つめ合う中で語り合いが生まれ理解が進みます。
 「響き愛」=語り合う者たちの間に心に響くものが生まれます。共感の世界の誕生です。
 「ほめ愛」=こうしてお互いに長所を認める余裕が生まれます。
 「支え愛」=完璧な人はいません。長所を持ち寄ってすぐれたチームワークが機能します。
 「赦し愛」=すぐれたチームワークは互いに失敗や罪を許し、赦すことができます。
 「睦み愛」=心身共にふれあう間柄になります。

 こうして愛は完成します。なんとすぱらしい世界でしょうか。
 エリック・バーンは簡単にできるふれあいの仕方を教えてくれています。

 「こんにちは」、「おはようございます」、「こんばんは」などの一般的な挨拶の外に一言付け加えることを勧めています。たとえば「こんにちは!お元気ですか?」

 愛の世界が見えて来ましたねえ−。サタンはこういう愛の世界が大っ嫌いです。彼は本質的にいじわるです。人の幸せをみていらいらし、自分と同じ運命、すなわち地獄行になればいいと誘います。仕掛けて来ます。いじわるな人はサタンと波長があってしまいますので気を付けなければなりません。いじわるな雰囲気を吸収してしまいます。どうかいつも私は神さまに選ぱれたという意識を持っていてください。忘れないでください。次のヨハネの福音書15章16、17節をお読み下さい。

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

 神さまはあなたを名誉挽回の切り札として選びだしてくださったのです。ヨブ記2章における神さまとサタンの会話をお読み下さい。サタンはヨブを代表として「人間は神さまに喜ばれることを本質的には行なえないのだ」と主張し、神さまはそれは間違いだとし、ヨブにご自身の主張の正しさを示すことを期待しておられます。そしてご存じの通り、見事ヨブはこの期待に答えたのです。あなたも神さまの期待に答えて、愛の生活を送ることができます。「私はこのことのために、すなわち愛するために、選ぱれた、と。

謙遜のすぱらしさを知るようにされる

 謙遜な者は恵みを受けます。「なぜ、私には恵みが少ないのでしょうか?」と問う方は少なくありません。私ははっきりと言いましょう。高慢であるから。
 歴代誌第二の12章にエジプト王シシャクによりイスラエルの首都エルサレムが占領された事件が記録されています。理由は高慢であったからです。ソロモン王の後、レハベアム王は国民ともども経済的にも物質的にも政治的にも繁栄し、そのために謙虚さを失いました。この事件は神さまから送られた警鐘でした。サタンは高慢になったので天から落とされました。「おれは神よりも偉い!」とうぬぼれたのです。謙遜とは神さまのおことばに従順であることをさします。
 イエスさまは十字架を前に祈られました。「できるならば、この盃が私の目の前を過ぎ去るように」と。人間イエスとしては当然の願いであったのです。だれだって苦しいことは嫌なものです。でも「みこころのままになさってください」とおっしやったのです。あなたもみことばに従順であってください。みことばと人のことぱとを比較すればそれぞれの性質がどのようなものか、すぐに理解できるでしょう。

 一匹のロバを持つ親子がいました。はじめ子どもを乗せ、父親が手綱を引いて進んでいましたが、人々は「年老いた父親を歩かせるなんて、あの子は、なんという親不孝者だ!」と言いました。それで交代しました。すると今度は人々は「あの父親は子どもを虐待している。あんな小さな子を歩かせて!」と言いました。どうしようと考えた親子はどちらもロバには乗らないことにして、両足を二箇所で縛って一本の棒を通して二人で担いで行きました。

 あなたはこの話をどのように受けとめますか。一つ一つの批評は正義ある主張ではないでしょうか。でも全体として不適切な主張ですね。これが私たち人間のことばの限界です。罪もあります。能力的な限界もあります。みことばにはどんな限界もありません。みことばにこそへりくだるべきです。これが謙遜です。サタンは謙遜ではなかったのです。だから不幸のどん底にいます。そして日夜同じ運命に進む者を探し回っているのです。サタンはまさに私たちにとって反面教師です。
 サタンはあなたの祝福される人生に効用をもたらす存在であるのです。