347 悲哀経験を乗り越える

 ●聖書箇所 [民数記11ー14章]
 長年の連れ添いを失ったゴリラは手の届く限りの体毛をむしり取り、檻の中を無言で歩き回ると言います。最近も有名な作家が妻に先立たれて、後追い自殺をしました。私たちが想像するよりもこのようなことは多いようです。このような経験を悲哀経験と言いますが、心のもつれを生じさせ、そのままにしておくと人格的な歪みとなって行きます。それは生きる力を奪うことでもあります。いままで生活して来た場が極めて不安定なものに感じられるからです。しかし実際のところ、このような悲哀経験を通じて私たちは成熟することができます。ただし、これは私たちには率直には喜べないものです。ここが肝心なところです。では現実から逃げるか。それは良くありません。
 恋愛をし、結婚を考える相手がいた女性。親に反対され、もう二度と恋愛をすまいと決意した女性は、以来首が傾いたままになってしまいました。これにより異性との出会いを拒絶しているのです。もう二度と悲哀経験をすまいと決意しているのです。再び自分を傷つけないようにしています。でもこのような生き方は現実的ではありません。生きる喜びがありません。神さまは私たちを愛してくださっています。日々喜びの生を生きるようにと願っておられます。そのための鍵は愛です。その愛を私たちは親から受けます。しかしこの愛がほころびを見せています。私たちが悩むのはそのためです。今こそ天からの愛、地上のものを超えた愛があなたを救います。今回はイスラエル人の荒野におけるつぶやきを観察しましょう。それらは私たちにもあるものであるから。悲哀経験直後には、まずつぶやきが起きます。その後に怒りや憎しみなど激しいものが続きます。神さまの豊かな愛が私たちを救います。私たちにはどんな種類の悲哀経験があるかを見て、つぶやかない道、神さまの愛を感じる道を学びましょう。

入信あるいは献身直後[11:1-3]

 タブエラにおいて早速イスラエル人は文句を言いました。「荒野ってこんなにひどいところだとは思わなかった……あーあっ。神さまが連れ出して下さるから、信じていたのに…ぶつぶつ…」。本来エジプト脱出はイスラエル人のリクエストでした。なのに……。あなたには似たようなことはありませんか。「せっかくイエスさまを信じたのに、ついに献身までを決意したのに……」。「良いことが起きると期待していたのに。これでは全く逆だ!」。神さまに従うときに出会う試練があります。困難があります。これをどのように考えたらいいでしょうか。信仰の学校に正規に入学が認められた、と考えてください。ならばすぐに中間試験があります。そうです。中間試験です。試験は落とすためのものではなく、習熟度を確認するためのものです。不十分なものを認識させて、補習すべきものを悟らせてくれます。そうしてこそ次にもっと難しいものを学習する準備が整います。ヘブル人への手紙12章7、8節をお読み下さい。神さまはあなたを愛しておられます。その証拠に今、鍛えてくださっています。私はギリシアに旅行したことがあります。初対面ではわりと堅い印象を受ける彼らですが、テーブルに座り、「エフカリストー」と言うと、にこっとします。その表情がとてもすばらしいのです。私はそれを見たくて見たくて、必要以上に「エフカリストー」を言いまくりました。おかげで楽しい旅になりました。人にもよりますし、年令にもよりますが、ことばを覚えるのはなかなか難儀かも知れません。でも苦労して覚えた曉に、にこっとされるのはなんとも心地よいものです。神さまはやがて今の困難を喜びに変えてくださいます。

暮らし向き[11:4-35]

 荒野における物質的な不満です。もともとはイスラエル人の中に混じっていた外国人がつぶやいたことでしたが、この種のことは伝染性が強いのです。あっと言う間に全イスラエルに広がってしまいました。モーセはさすがです。偉大な指導者です。すぐに70人のサブリーダーを任命してつぶやきという火の勢いを押さえようとしています。利口なやり方です。あなたは自分を見て物質的に金銭的に恵まれていない、とお考えでしょうか。どうか腹八分目であることで満足し、感謝してください。私は目標を達成できたときに、いつも80パーセントの出来と考えるようにしています。そうでないと高慢にもなるし、第一、ハングリー精神がなくなります。もっと、もっと、という姿勢を私は必要としています。そうでないと、目標を達成した瞬間から怠惰が始まるのです。これでお分かりのように腹八分目は不満ではありません。むしろ感謝の一つの形態です。今、怠惰と書きましたが、過ぎた物質的なあるいは金銭的な祝福は心の、そして生活のバランスを崩します。二人の親友が道を歩いていました。ふと見ると、財布が落ちているではありませんか。一人が拾って見ると万札が何枚も入っているではありませんか。多少迷いましたが、そのままポケットに入れてしまいました。もう一方が言いました「二人で見つけたんだから、二人で分けよう」と、むりやり一方のズボンのポケットに手を突っ込みました。そのときです。後ろから「それは私のだー!」という叫び声と共に駆けてくる来る人がいました。もう一方の彼は言いました「あなたに返させなければと思い、彼から取り上げるところだったんですよ!」。いままでの友情はもはや消え去りました。今、あなたに与えられている物質的な金銭的な恵みは十分なのです。感謝して下さい。箴言15章16、17節
をお読み下さい。

指導者[12:1-16、16:1-50]

 12章1ー16節ではモーセの姉ミリヤムと兄アロンが、16章1ー50節ではコラらがモーセに反抗しています。彼らにはモーセが神さまのおことばを、そしてリーダーシップを独占していることに耐えられませんでした。彼らは謙虚さを求められていましたが、そのようにはできませんでした。神さまの権威に反抗したとみなされました。神さまの世界において、男と女(同一の立場の場合は男が上)、先輩と後輩、年令の上下が無関係です。また極めて柔軟性に富むものでもあります。「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」(マタイ19:30)とある通りです。しかし、私が先になったと高慢になっていたら、後になります。そこに神さまの権威があります。神さまは権威を授けたい者に授けます。これは神さまがこの宇宙の主権者であるからです。モーセは神さまから確かに権威を受けました(出エジプト記3:12、民数記12:7、8など)。指導者への従順は神さまへの従順であると知ってください。指導者は神さまによって立てられています。どうか指導者のために祈ってください。国の、家庭の、学校のそれぞれの指導者のために。指導者は特別に厳しい基準で判定されますから(ヤコブ3:1)。

神の祝福一般[13:1-14:45]

 約束の土地に入ろうとするとき、モーセは物見を派遣しました。彼は利口です。神さまが助けて下さるのはなすべき努力を怠らなかった者に対してです。各部族より一人ずつ選抜され、12人が帰国報告をしました。しかし全く正反対のものでした。2人(エフンネの子カレブとヨシュア)は積極的で、10人は否定的でした。同じものを見ながらどうしてこんなにも異なるのでしょうか。信仰が異なるのです。信仰とは考え方です(ヘブル11:19)。神さまの力を信じましょう。神さまはあなたを十分に祝福してくださいます。「少ないなあー」とお考えでしょうか。「今、私の目の前に豊かに備えられている!」と前向きに信じたエフンネの子カレブとヨシュアの二人は約束の祝福を手に入れました。でも否定的であった10人はそれを得ませんでした。今、あなたの目の前に神さまの祝福はもうすでにプレゼントとして用意されています。神さまを信じましょう。あなたを愛しておられる神さまを信じましょう。それはどんな場合でも前向きな反応を考え方をすることです。あなたはもしかして、今、悲しい経験のまっただ中にいらっしゃるかも知れません。でも前向きであってください。祝福はもうすでにあなたの手元にあるのですから。