348 祝福の質と量を決める鍵

 ●聖書箇所 [創世記12章]

 今回はアブラハム(アブラムを後に改名して)から学びましょう。当時多くの人々が世界にいた中で彼が選ばれたことは実に不思議です。しかし不思議なのはそればかりではありません。あなたも選ばれましたね。さて、選ばれた理由ですが、それは何でしょうか。12章2、3節に解答が示されています。祝福するためです。ところで今回のテーマは私たちが受け取る祝福の質と量を決める鍵です。簡単に答えを言ってしまいましょう。それは神さまとあなたとのかけ算。それは協同作業です。つまりあなたにも果たすべき分があるという訳です。

おことばを信じる[12:1]

 アブラハムへの指示は12章1節にあります。「出て……行きなさい」。アブラハムは父テラとともにウルから出て、カランへ。そしてアブラハムは父親の親族から離れてカナンへ。これは12章4、5節に示されています。このような住所を転々とすることは当時としては決して珍しいことではなくて、むしろ常態と言えるでしょう。遊牧の時代です。水や食料を求めてあちらこちらというふうに。ではアブラハムと他の人々との違いはどこにあるのか。それはおことばに従って、ここが違います。それにしてもいままでの馴染みの生活環境から離れるのです。勇気が必要ではないでしょうか。これは一種、冒険です。そうです。信仰とは冒険です。現状よりもっと良いものを求めての冒険です。するとやはり不安は避けられないのでしょうか。そこで必要なのが保証です。電化製品などに付属してくる、あの保証書の類いです。さて、人生の場合、おことばがその役割を果たしてくれます。もしおことばをいただくなら、あなたは安心して冒険することができます。そして神さまがあなたのために用意して下さった祝福を、もちろん質は高く量も多いのです、獲得することができます。ここであなたがおことばを個人的にいただく必要があります。というのは、あなたが個人的に得る祝福であるから。おいのロトも同行していますが、祝福は少ないのはこの理由によります。そのために良い方法をご紹介しましょう。何でもそうですが、楽しむ、ことです。義務ではなくて、楽しむことです。

 三人の職人が並んで同じものを作っていました。
 一人目の男はしかめっ面をして、
   「なんて熱い日だ。工具もボロボロ。あーだんだん、腕も疲れて来たーー、かったるいなあー」。
 二人目の男は、
   「もうすぐ給料日だ!はやく終わらせよう。まあ、こんな程度でいいだろう。分かりゃーしないって」。
  彼はただもらうことだけを考えています。
 三人目の男は、
   「なんて気持ちの良い朝なんだろう、空気もおいしい。健康なのも実にありがたい。力一杯腕をふるうことができる。きっと良いものができあがるぞー」と出来上がったときのことを想像して、微笑んでいました。

 さあ、どの男があなたの好みでしょうか。三人目の彼は仕事をしているのではなくて、楽しんでいるのです。あなたも信じることを楽しんで下さい。すばらしい祝福の世界が広がること、請け合いです。

自分の可能性を信じる[1:3、11]

 もし、あなたがご自分の可能性を信じるなら、与えられた課題や目標やテーマにしっかりと取り組みましょう。前向きに!必ずや達成できるでしょう。アブラハムはおことばをいただいたとき、75歳でした。この年令は通常、守りに入る頃と言われて言われます。「守りの経営」などという言い方をしますね。いままでに築き上げて来たものを失わないようにという思いから、冒険を避けようとする姿勢です。しかしアブラハムは違います。12章5ー8節までをお読み下さい。どんどん話を進め、行動に移しています。一族郎党を引き連れて、その姿には逞しさと若さが見られます。ところで彼に約束された祝福は? 子孫? 肥沃な土地? 偉大な国民? もう75歳です。まずは子どもが与えられなければ絵に描いた餅です。また肥沃な土地を上げる、と言われても先住民がいます。しかも体格のいい者が多かった。彼に約束された祝福は一見、得ることが非常に難しいものでした。あなたには今、難しい課題がありますか。困難なテーマを抱えて困っていますか。でも感謝して下さい。なぜ?って。神さまが、「あなたにはできる!」と知っておられ、それを用意してくださったから。どうか今までの人生の歩みを振り返ってください。「あれも、はじめは難しそうに見えたけれど、なんとか出来た!」ということをいくつも思い出すのではありませんか。

 ある有名なプロフットボールの選手がこういうことを話しました。

 私の父はよくキャッチボールをしてくれました。そして私は決してボールを受け損なうことはありませんでした。というのはグローブの中に投げ入れてくれたからです。ボーリングをするときもそうでした。私は溝にボールを落としました。父は溝にピンを並べてくれました。
 
 自信をつけさせようという親心です。あなたも神さまからそのような取り扱いを受けてきているはずですよ。思い出してください。そうして次に、ちょっと難しい問題に挑戦!

 ロシア人の重量挙げのオリンピック選手でワシラ−・アレクシブを覚えていらっしゃるでしょうか。彼は500ポンドを持ち上げようと挑戦をし続けていました。でもどうしてもできませんでした。監督は一計を案じました。501・5パンドの重りを上げさせようとしました。しかし、ワシラ−・アレクシブには499ポンドに見えるようにしました。なんと、なんなく上げてしまいました。このことが世界に伝わると次々に他の選手たちも上げて行きました。

 「できる」と信じることからすべてが始まります。あなたは普段、どんな思いで生活していらっしゃいますか。もしかしたら、否定的ではありませんか。ファーブルという有名な昆虫学者の実験をご紹介しましょう。

 毛虫を花瓶の丸ーいへりに並べました、とぎれなく。毛虫は前の毛虫のお尻を見て、ついて行く習性があるのでぐるぐるとへりを回り始めました。どれが先頭か、最後尾かだれも分からなくなりました。一昼夜して、見てみると、相変わらずぐるぐると回っているのです。2日目、3日目、4日目、5日目、6日目。ついに7日目に餓死してしまいました。実は花瓶のまん中には大好物の餌を置いておいたのです。でも決してそれを見ることはありませんでした。

 放蕩息子(ルカ15:17)は「我に返った!」とあります。そうして本来の、自分が受けるべき祝福へと目が開かれました。あなたは毎日の生活の中で、否定的な思いを習慣的に持ちながらもそれに気がついていないというようなことはないでしょうか。ときには立ち止まることも必要です。
 イソップ童話にこのような話があります。

 杭によって打ち壊されそうになった壁が叫びました。「なぜ、君は私を攻撃する!」。杭は言いました。「私が悪いのではない。私を叩く者がいるからなんだ」。

 このようなパーソナリティーを他罰指向性人間と言います。自分の中に葛藤を抱えていて、それを自分で処理できないと、「会社が悪い、環境が悪い」と周囲の責任にし、追求し、裁きます。そして自分に向っては「なぜ私だけがこんなに祝福されない!」とブツブツ言います。決して良い人間性とは言えません。決して健康な精神とは言えません。どうか自分にチャレンジしてください。神さまは、今のあなたにはできる!と見ておられます。その可能性を現実のものにするためには、「できる!」と常に考えることです。考えることこそ、信じることです。アブラハムはついに神さまのご用意してくださったものを手に入れました。どうかあなたもそうしてください。

神の側の事情を信じる[1:2-9]

 神の側の事情とはいったい何でしょうか。あなたは神の子、神はあなたの親。神の側の事情とは親の側の事情です。親はいつも子どものことが心から離れません。幸せになって欲しい、立派な社会人になってほしい、良い結婚をしてほしい、良い家庭を作ってほしいなどと願っています。親心とはこういうものです。親としての神さまはあなたが反対方向を向いていることには決して耐えられません。もし反対方向へ向っているとか、何か失敗したとかするなら、心は痛みます。それをなんとか改善しなければと考えます。これが神の側の事情です。親は心を痛めていますが、子の側からすればなんとありがたい、たのもしいものでしょうか。アブラハムの最初の失敗が9節以下に登場します。カナン、すなわちアブラハムに与えられた土地、にいれば良かったのです。ききんが彼の心を迷わせました。彼は断食をすることが嫌いでした。「エジプトに行く」とは不信仰、あるいは不従順の意味を持ちます。彼の失敗はさらに次の失敗を招きます。我が身可愛さから妻を裏切ります。なんという不誠実な人でしょうか。これが「信仰の父」なのでしょうか。でもそうなのです。ここが神さまのふんばり所です。どんなことがあっても自分の子どもなら捨てない、これが親というものです。彼は謙虚ではありませんでした。神さまの一番嫌いな人は生意気な人です。高慢な人です。彼は失敗をして、恥ずかしい思いをして悔い改めます。あなたにもときに試練が及ぶでしょう。悔い改めるべきときです。神さまはあなたを愛しておられ、試練を通してあなたを救おうとしていらっしゃいます。砕かれたら、あなたは大きな豊かな祝福を味わい、かつそれに感動します。神さまはあなたに良い人生をくださいました。たとえ辛いことがあっても。イエス・キリストの人生は十字架を背負う人生でした。辛い人生でした。でも今日彼ほど世界中の人々から愛されている者はいないでしょう。これは最高の祝福です。人々から愛され、歓迎され、期待される。こういう人生を送りたいものですね。どうか神さまは「私に良い人生をくださった」と信じてください。 

 その青年は山の頂上に着き、ようやく会うことができた白髪の老人の前でへなへなと座り込み、彼は尋ねました。
 「先生、私はあなたに会うために何日も旅をして来ました。というのは多くの人が、先生こそが人間のうちで最も賢いと認めるからです。私は人生について真実を知りたいのです。人生とは良いものでしょうか、それとも悪いものでしょうか。
 白髪の老人はこう答えた。
 「青年よ。君はどのように考えるのか」。
 彼は焦点の合わない目をして、悲しそうに言いました。
 「辛い精神的なショックが来るのではないかと毎日心配してます。 これが人生のなのですか」
 「その通りだ。青年よ、それが人生だ」と老人は答えました。
 彼はがっくりと肩を落とし、来た道を戻って行きました。しばらくして、もう一人の青年が崖をよじ登って来ました。そしてその白髪の老人の足下にくたびれ果てた様子で倒れました。
 「先生、どうか教えて下さい。人生とは何ですか。人生とは良いものでしょうか、それとも悪いいものでしょうか」。
 老人は先の青年に向けたのと同じことを尋ねました。
 「青年よ、君はどのように考えるのか」。
 彼は希望に満ちた目をして言いました。
 「人生には辛いことがあります。でも私は人生は基本的に良いものだと信じています。多くの人々を見て来ましたが、どの人の中にも良いものがありました。私は人生とは挑戦であり、成長だと思います。努力をすれば必ず報われるものだと思います」。
 青年はもう一度尋ねました。
 「先生、どうか教えて下さい。人生とは何ですか」
 「君の言う通りだ」老人は答えました。