349 エデンの園に帰ろう

 ●聖書箇所 [創世記2、3章]

 エデンの園は神さまが私たち人間のために作ってくださった、理想の世界です。そこには常に喜びがあり、幸せがありました。私たちが本来いるべき場所です。ところであなたは周囲の華やかさとは裏腹に空しさやうつの気分にさいなまれることはありませんか。友人たちは楽しそうにしている、しかし私は、とか。何が原因でしょうか。神さまとの交わりの状態に原因があります。良い交わり、質の良い交わりがあればそのようなことは起こり得ません。出エジプト記34章29、30節をお読み下さい。神さまと深い交わりをした後のモーセの顔は輝いていたではありませんか。エデン、それは楽しみの意味。私たちはエデンの園に帰らなければなりません。ところで創世記2章4ー14節は、それ以前の創造物語の順序を一度ばらしてから、書上げたものです。そこには人間中心を明確にさせる意図が明らかです。2章7節では土(アーダーマ)から作られたので、人はアーダームとあります。この土の器に息を吹き込んでくださったのが神さまです。こうして人間は生きるものとなりました。人間だけがこのときに息を吹き込まれて霊を持つようにされました。その証拠に世界の生きるもの全部の中で礼拝をするのは人間だけです。霊は送信機であり、受信機です。人間以外に霊を持つ存在はありません。したがって人間だけが礼拝をすることが出来ます。私たち人間は神さまよって特別扱いされたのです。さて息を吹き込まれて、人は生きるものとなったのですが、これは聖霊さまの存在の大きさをそのまま教えているのです。聖霊さまのお働きによって私たちはだれでも元気になり、はつらつと生活が出来ます。今回はどんな心が聖霊さまのお働きを招くのかを学びましょう。

感謝する心

 いかがでしょうか。あなたは日頃から感謝を忘れないようにしていらっしゃいますか。ありがとう、の心です。2章8節以下には人がエデンの園に置かれたことと、そこで働くことが求められていることが分かりますね。その働きの実は9節に記されています。さて、不思議なことがあります。働けば報酬を期待できます。ところがここでは働く前に報酬が用意され、しかも16節ではいくらでも食べて良いとあります。なんという気前の良さ!ここに神さまの心の広さを見ることができます。どうか覚えてください。あなたが出勤します。でもそれには健康がすでに与えられたいなければならない。でもすでに与えられている。なんとありがたいことでしょうか。家族が、友人が、そして信仰が与えられています。たくさん感謝したいものです。最高のプレゼントは何でしょうか。それはイエス・キリスト。

 メリ−・ロイド先生は顔を真っ赤にし、涙をたたえて言われました。「イエスさまが、天国から、私たちの地上に降りてきて下さったことは、ちょうど私たちが、お便所の中に降りていくようなことです。」今から50年昔の田舎の「お便所」。そこは汲み取り便所とか、ポットン便所とも言われ、見下ろせば一面黄金の国、無数のセンチ虫のはいずり回る世界でした。用をたすことも忘れて、子どもたちは、アンモニヤの刺激臭の中で、引き込まれるように眺めて空想にふけったものでした。水洗の英国から、ポットンの岡山へ。そして、この適切なたとえが、ロイド先生にひらめいたのでした。(ぽぽ1999年12月1日号)

 一番のプレゼントはイエス・キリストです。イエス・キリストおられるところに信仰が生まれます。信仰があればどんな問題でも解決できます。どんな局面に立たされても慌てることはありません。

従順の心

 22章17節には「善悪を知る木」が登場します。これ以降名指しされていないので実際にどんな木なのか分かりません。3章3節では「園の中央にある木」と言われ、3章4節で悪魔は「それ」と呼んでいます。きっとどこかが他の木と違っていたんでしょう。さて「食べるな」と命令がされていましたが、ついに人間は食べてしまいました。これが有名な堕落物語。もし食べたら、「死んで死ぬ」、「死にに死ぬ」という直訳がいかに強い警告であったかを教えています。少なくともあたま(脳、知性、理屈などのことを指します)は「食べてはいけないと理解していますが、からだは食べてしまいました。こうして私たちの世界には病気と死が入って来ました。実はここに病気の原因と、それゆえにいやしの原理が隠されています。少し説明しましょう。心の中でもからだの中でもバランスが崩れていると(広い意味に於いて)病気です。心の中にも(霊的な意味で)筋肉があります。これは心の考えるパターンを作っています。心のくせとも言います。指紋のようなものでだれも同じものを持ってはいません。きれいなものを見て、すなおに「あーら、きれい!」と言う人もいれば、「ふん、何よ!」と反応する人もいます。これは心のくせであり、心の筋肉によって動きます。からだにも筋肉があります。人間では276種類で500本。もし病気であればこれらの筋肉が正常な働きをしていません。筋肉が単体で異常かも知れないし、また連係プレーが正常ではないかも知れません。そこで病気から解放されるためには健康な、すなわちバランスの取れた心の発するメッセージをきちんとからだに伝達する必要があります。この役割を果たすのがことばです。

 マタイの福音書9章18節から26節には二つのいやしの記事が載っています。健康な心(健康な信仰)を表す印はそれぞれ「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」(18)、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」であり、いやしがからだに起きるためのことばはそれぞれ「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」(22)、「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」です。今回はこれ以上、いやしのテーマには触れませんが、伝えたかったのはことばの大切さです。従順なことばを使いましょう。聖霊さまがあなたに常に臨みます。

寛容の心

 あなたはいかがでしょうか。寛容の心をお持ちでしょうか。そのように行動する背景は何か、そのように言う事情は何か、など、相手のことを理解しようとする気持ちが大切です。短い言葉や少しの行動ですべてを、全体像を理解することは不可能です。たとえばあなたがさばかれたとしましょう。 そのときには「この人にはきっと何か辛いことがあったに違いない」と考えるようにすることです。さて、造られた動物を見渡してもアダムの助けになるような存在は見当たりませんでした。そこで神さまは男(イーシュ)から女(イシャー)を造られました。私はよく冗談で女の人はお医者(イシャー)さんでなければいけませんと言います。その務めはあたたかさです。あたたかさこそが私たちの心をいやします。家族でも教会でもどこでも女性がその場をあたたかくします。

 詩を一つ紹介しましょう。題は、ただいま。

 がっこうからかえったとき、わたしがふざけて「おじゃまします。」っていったら、おかあさんが「あ、よそのこがきた。いらっしゃい。」といったので、わたしはなんだかきゅうにさびしいきもちになりました。だからわたしは「おじゃましました。」といってそとにでて、こんどは「ただいま。」といいました。そしたらおかあさんが、にこっとわらって「おかえりなさい。」といってのでわたしはようやくほっとしました(全国小中学校作文コンクール文部大臣奨励賞1999年12月1日読売新聞)

 それでもあたたかさは情緒であって欠点もあります。流されやすい、あるいは振れる振幅が大きい。そうして誘惑に負けて禁断の木の実を食べてしまいました。3章1節以下をお読み下さい。このときにアダムは男性(イーシュは成人の男性を指します。男の子ではありません)としての務めを果たさなければなりませんでした。それは理念、理性、理屈、ことば、ロゴスを使うこと、それによって彼女の振れを止めなければなりませんでした。でも失敗しました(3:6)。ところでこのように両極端の性質を持った者たちを極めて身近に置いたのには理由があります。寛容を身に付けなさい、というメッセージ。寛容でないところに聖霊さまの風は吹きません。

 さて最後にこれらの性質を自分のものにするためにどんな心構えが必要かをお伝えしましょう。それは、自分を義としないこと。堕落物語には確かにサタンが登場します。サタンが誘ったから堕落は起きたのです。ではサタンにすべての責任を求めて行くことが正しいのでしょうか。責任は私たち人間にあります。その証拠にエデンの園から人間が追放されました。自分を義とした態度が、全ての良いものを破壊しました。最後にこのみことばを味わってください。

 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。(マタイ5:20ー26)