350 神のまなざし

 ●聖書箇所 [ヨシュア記1章1ー9節]

 他人のまなざしに悩む女性についてお話しましょう。彼女は「だれかに見られている」と訴えます。たった一人で部屋にいるときも、「見られている」と言います。はては「カーテンの向こうにだれかいる、あの絵の人物が私を見ている」と言って、絵画を外にほおり出してしまいました。実は彼女には思いを寄せる男性がいて、ちっとも振り向いてくれないことに孤独感をつのらせていました。表面的には「見ないで!」と見せつつも、本当の所は「見て、私を見て!」と叫んでいるのです。他人からのまなざしを巡る人間の世界は複雑です。攻撃的な人がいます。周囲の人々は「どうしてあそこまで責めるのだろう!?」と注意をしたくなりますが、お説教して、つまりことばで注意して直るものではありません。その人の内側から突き上げるものがあるからです。幼児期に特に母親に甘えることができなかったのです。それを大人になってから取りかえそうとして、そうしているのです。母親は自分の子どもがどんな理不尽を働いても、母親であることをやめることはありません。そういう母親に向けての無礼な態度を甘えと呼びます。かってに母親にされたしまった人は面喰らいますが、そのような人は明らかに愛情を求めています。幼児期は人格の成長には非常に重要な時期です。これは「見られて」、そして「見て」成長していくのが人間である、と表現できるでしょう。しかし、現代のハイテク時代はこの関係が変容しています。私はホームページを公開しているので、多少とも私のプライバシーについて知っている人々はいるでしょう。しかし私にEメイルをくださる方々のほとんどは匿名です。ご自分を紹介なさる方は極めて珍しいのが現実です。すると私は「見られて」いますが、だれに「見られて」いるのかが分かりません。「見られる」不安が生じています。このような状況においては、少なくとも私自身に関しては人格的な成長はといえば明らかに限界があると言わざるを得ません。自分が「見て」、自分を「見られて」というやり取りが、交わり、キャッチボールが成立していないからです。ならば自分が相手をしっかりと「見た」ら問題はないのでしょうか。ことはそうは簡単ではありません。もし、「見た」ら、何が「見る」側に生じるでしょうか。それは、失望。私たちは「見る」ときに、なんらかの期待を込めて「見ます」。でも人間である限り、がっかりさせられないことはありえません。では「見られる」ことに問題はないでしょうか。同じ理屈で失望が生じます。相手を失望させてしまいます。自分が「見て」、自分を「見られて」というやり取りが、交わり、キャッチボールが私たち人間として必要不可欠であるとは認めつつも、その限界を私たちは覚悟しなければならないのです。どこに希望があるでしょうか。神さまとの交わりにあります。神さまを「見て」ください。完璧です。非の打ち所がない。翻って自分が「見られる」場合はどうでしょうか。罪があり、汚れがあり、非力があります。でも、でもです。あなたの神さまのまなざしはやさしく、思いやりに満ち、ありのままを受け入れてくれます。ここに新しいあなたの可能性があります。神さまのあたたかいまなざしこそがあなたを生き返らせます。今回テキストから学びたいのは、いつ、私たちはこのまなざしを感じ取ることができるのだろうか、です。神さまのまなざしを感じるとき、あなたは息を吹き返します。あなたのいのちは輝きます。

日常生活において訓練を受ける時[1:1]

 ヨシュアはモーセから指揮権を移譲されました。それにしても300万人も率いるのです。大変なことです。でもこのようなことがスムーズに行くには、それなりの準備が必要です。ヨシュアは若いときからモーセのもとで訓練を受けて来ていました(*1)。そういう中できっと多くの苦労があったことでしょう。涙を流すような時があったでしょう。あなたはいかがですか。悲しいとき、辛いとき、あったのではありませんか。いや、今がそうなのかも知れませんね。どうかヘブルへの手紙12章5ー9節までお読み下さい。

 あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧め……
 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

 今、私は訓練を受けていると受け留めるとき、あなたは神さまのやさしいまなざしを感じるでしょう。

新しいアイディアを実行する時[1:3、11]

 「足の裏で土地を踏む」ことによってそれを手に入れる、なんて普通は考えられないことです。少なくとも現代ではそうでしょう。ただし当時は遊牧民の時代ですから、不思議な話ではないのかも知れません。また11節では敵前渡河作戦遂行の訴えが見られますが、これも普通には考えにくいことです。このような新しい、普段とは違ったやり方を実行するのはなかなか難しいことではありますが、大きなメリットがあります。マンネリ化を避ける、というメリットです。私たち人間の習性としてどんなに珍しいものに触れても、どんなに強く感動しても、いつまでもそれを維持できるものではありません。必ずマンネリ化します。そういう中で悪習慣などがいつの間にか生活の、人格の一部になっていたりする場合がありますが、マンネリ化はそれに気付かなくさせます。
 ゆでカエルのお話をご存じでしょうか。ゆで卵ではありません。熱湯の中にカエルを投げ入れれば、すぐに飛び出します。でも水の中ではどうでしょうか。気持ち良くしています。さて、27度まで熱します。何の変化もカエルには起きません。ではそれよりも高い温度にして行ったらどうでしょうか。少しずつなら、カエルの中からエネルギーがだんだん奪われて、そのままゆでられてしまいます。悪習慣はこのようにして免疫を付けて、私たちには感じられなくなるのです。
 もし新しい、良いことに取り組むとするなら、三つのメリットがあるでしょう。
 第1に、たとえ小さなことでもそれを付加すれば、全体が新しくされます。最近日本人女性がアメリカのジャズの殿堂入りを果たしました。渡米してまもなく壁にぶつかりました。でも日本らしさを本場のジャズに組み込んだところ、それが注目され、独自のジャズとの評価を獲得しました。
 第2に、悪習慣を浮き立たせる効果があります。
 第3に、そしてあなた自身オリジナルな存在との意識を持つようになるでしょう。イスラエル人は牛や羊を犠牲としてささげて来ました。イエス・キリストはそういう日常のペースにくさびを打ち込みました。すなわちご自身を犠牲としてささげられました。ここにイエス・キリストの人生の独自性があります。他の人には真似のできないことでした。

 あなたもあなたにしかできない、新しい試みを探してください。必ずあるはずです。あなたは神さまに選ばれて今生きています。使命が、生きる理由が独自にあるはずです。あなたにしかできないことがあるはずです。そういうことを意識するとき、あなたは神さまのあたたかいまなざしを感じるでしょう。

勇気を持つ時[1:2-9]

 勇気とは「できる!」という思いです。ヨシュアは大きなプレッシャーを感じていたに違いありません。なにしろ300万人を率いるのですから。そして2ー9節を見ると、私たちは神さまのヨシュアへの熱い思いを感じるのみならず、さらにそのことを確信します。「私がついているから、安心して前進しなさい!」という応援歌です。私たちは精神的な圧力には弱いものです。

 良子さん(18)の父、信夫さん(48)はリストラされ、公園で−人ボーツと3ヶ月過し、家族にも隠し続けていました。これを知った時、良子さんもお母さんの敏子さん(45)も大ショック。ところが良子さんは不安になり、母と衝突。これをきっかけに良子さんはさまざまな問題に悩まされ、母娘で相談にやってきました。お母さんの敏子さんは自分の父親をとても尊敬し、夫にも父のようになってほしいと願っていました。お父さんはしつけの厳しい人でした。しかし敏子さんの家族には問題が多かっ たようです。姉はコンプレ ックスを持ち、妹は何に対しても無関心で一人の世界を作っていました。弟は父親の高い要求に苦しんで、その圧力に負けていた、やさしい人ではあったけれども弱い人だったそうです。敏子さんのように父に似ている人もいれば、そうでない人もいるわけです。こう話している内に敏子さんは自分の現在の家庭も同じになっているのに気づきました。つまり敏子さん自身が厳しい父となり、夫や子供たちに高いハードルを与え続け、みんなはそれがクリアできずに劣等感を持ち、自信をなくしていったのです。
 アメリカの名フットボール選手の話に「過去に一度も失敗したことがない。幼いころ、キャツチボールでは父がいつもグロ−ブに入るようにボールをな投げてくれたし、ボーリングでは、ボールが溝にいくときは、ピンを溝に並べてくれた」というものがあります。この話を彼女にしたとたん「分かりました、私は今までストライクを出させてはいけないと思ってました。夫や子供たちが成功してもほめることなく、さらに目標を高くして、ストライクが出ないように導いてきたようです」と、泣き崩れ、父の厳しさに歯を食いしばってきたこと、悲しんでいた三歳のときの自分を思い出しました。そしてそれを癒した後、彼女の意識と見方が変わり、夫と娘に許しと感謝の手紙を書いて渡しました。カウンセリングが終わったとき、敏子さん、良子さん母娘の長い葛藤が終わり、強い絆が生まれました。夫の信夫さんが立ち直ったのは言うまでもでもありません。夫の能力も、リストラへの対処も家族のあり方が大きく影響してくるのです。(『さいたまリビング』1999.11.13)

 チック症をご存じでしょうか。幼児期に精神的なプレッシャーを受けて、それが許容量を超えたときに、なります。私たちは他の人に圧力をかけるべきではありません。それは倫理にも反します。自分で納得して、少し高い目標に挑戦するのならいいでしょう。そのときには神さまも喜んで力をくださいます。そして勇気は内面から沸き上がるものでなければいけません。でも神さまのみこころを、すなわちお考えを行うなら必ず勇気は与えられます。どうかこれを信じてください。7ー9節にはそう約束されているではありませんか。こうして勇気をあなたが感じるとき、あなたは同時に神さまのあたたかいまなざしを感じることができるのです。