351 あなたはわたしの愛する子

 ●聖書箇所 [ルカの福音書3章]

 最近読んだ本で感動を覚えたものがありますので、ご紹介しましょう。元祖便利屋さんの書いたものです。

 寂しい人がふえている

 世間の雑用、引き受けますー二十年も続けている便利屋の仕事を一言でいうとそうなります。けれどもというか、だからというか、その「雑」の部分にこそ、建物をとりのぞいた、飾らない、人の暮らしのそのままの姿、心のすき間やほころびを垣間見ることができるのです。……「ちょっとお話ししたいんですが」 女性の声の、そんな電話を受けたのは三年くらい前のことでした。住所を聞くと、私の事務所の近く、東京・世田谷区の豪徳寺というところ。二つ返事で引き受けて、さっそく出向きました。古い木造アパー卜の一室、六畳間と三畳くらいの台所がついた殺風景な間取りで、依頼主はひとり暮らしの女性。昼時のことで、部屋に入るとすでに、コンビニで買った弁当が私のぶんも用意されていました。「さあ、どうぞ」招き入れられて、相対すると白髪の上品な感じの七十歳前後の女性です。互いに箸をとり、口に食べ物を運びながらモグモグ、ポツポツと話を交わします。内容はいかにもそれくらいの年齢の女性が話題にしそうな子どもや孫の話、あるいは嫁と姑の関係のことなどです。世間にはありふれた話題ですが、それがまた、家族がありながら、彼女がわざわざ狭いアパートにひとり暮らしをしている理由を説明してもいるようです。……それで一時間ほどたって、潮時だと思い、「じゃあ、きょうはこれで失礼します」と切り出すと、女性も心得たように、 「ありがとう。いくらかお支払いしなきゃならないわね」 一件につき一万二千円というのが、私の便利屋稼業の基本料金です。しかしー失礼ながらーアパートや部屋の調度の様子から察して、懐具合がそんなに豊かだとは思いにく い。全額を期待せず、内心、きょうは八千円か一万円くらいもらえればそれでいいやと思い、領収証を取り出しました。しかし、向こうは平然とした様子で、「とりあえず百万円払っておきましようか」と札束をカバンから取り出したのです。……

 百万円の孤独

 実は、高額な依頼はこれがはじめてではありません。以前、いっしょに食事をしたというだけで九十万円というケースがありたので、こちらも驚きはさほどでもなかったのです。とはいえ、差し向かいで弁当を食べて、あまり実があるとも思えないというか、まったくどうでもいい世間話を開くだけの代償が一万円札百枚というのは、やはり尋常の額ではありません。それを惜しげもなく払ったということは、その女性の金銭感覚が度外れたものなのではなく、彼女にとってそれが妥当な価格だと思えたからなのでしょう。(『人のために人となる人』サンマーク出版)

 以上、読んでみての感想は、「人って、人が恋しいものなんだなあーっ」と、私は深ーくため息をつきました。でも恋しいのに傷つけあいます。いや、恋しいからこそ、傷つけ合うのでしょう。期待が大きすぎて。でも期待しないでは生きることができないのも事実でしょう。私たちは互いに寄り掛かりつつ生きるものなのですから。でもあまり寄り掛かり過ぎるのも考えものです。適度な範囲で済ませなければなりません。それには霊のレベルに於いて恋しさを満足させておかなければなりません。イエス・キリストは実にたくましく生きた方です。どんな困難にもめげず、前向きに、積極的に。それにはわけがあります。霊のレベルにおける健康を常に確保しておられたからです。「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」。これは父なる神さまから御子へのことばです。あなたもこのことばを受け取ってください。霊の耳で聞いてください。あなたは霊のレベルにおける健康を常に確保して祝福された人生を歩むことができるでしょう。

 中米を発掘調査隊が進んでいました。突然シェルパたちが立ち止まり、座り込んでしまいました。脅してもすかしても動いてくれません。彼らはこう言いました。「からだが急ぎ過ぎて、霊(たましい)がついて行けない」。あなたはいかがですか、日頃せわしなく過していて、立ち止まることや休むことはついぞない、というようなことはありませんか。

 ある旅行者が、日干しレンガで作られたインディアン特有の家の前を通りすぎようとしたとき、家の前で年老いたインディアンがまどろんでいるのが目にはいった。東部から来たその働きバチの銀行家は、これを見て、少し腹がたった。そこでたインディアンにこう言った。 「酋長、そんなところでうとうとしていないで、少しは町に出て仕事でも探してみたらどうだね」酋長は片目を開けて言った。「何のために?」 「この頃じゃあ、給料もけっこういいらしいよ。週に200ドルくらい稼げるらしいね」「なんでそんな金がいるんだ」「週に200ドルくらい稼げれば、預金もできるし、投資だってできる。そうしたら仕事をやめてのんびりできる」酋長は両目を開けて言った。「もう、のんびりしてるさ」(人生が驚くほど逆転する思考法』三笠書房)

 このインデイアンはまなけているのでしょうか、それとも?議論の別れるところですが、忙しすぎる人には学んでもいい態度ではないでしょうか。今、ちょっとだけ立ち止まって「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という声を聞いてください。これはあなたに向けられたことばでもあるのです。効用を以下に説明しましょう。霊のレベルにおける健康を常に確保しておくことができていることの効用です。

飛躍のチャンスのときを知らせてくれる[20、24節]

 神さまは愛ですから、あなたにはあなたの人生に於いていつも良い思いをしてほしいと願っていらっしゃいます。それには「今だ!さあ、行け!」と自分で納得して決断でき、実行できる認識力と言ったらいいでしょうか。神さまはあなたにさまざまに飛躍の楽しみを用意してくださっております。それには踏み込むチャンスのときを知らなければなりません。 「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という声を聞くあなたは、非常に感度がよくなっており、祝福を逃しません。イエスさまの場合はどうであったでしょうか。12歳の時に両親に連れられて神殿に行かれました。ここで「私は神さまとともに生きる!」と確認なさいました。やがて18年たって、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった、というのがこの3章21ー22節の場面です。このときバプテスマのヨハネもイエスさまの霊的体験を共有したでしょう。というのは彼自身もかつて経験しているからです(2節)。

 私はかつて会社に勤めていましたが、あるとき自分でレンタカーを借りてきて、ポスターを張り出し、同僚を集め、海や山へ案内するなど始めました。多少疲れましたが、多くの人から感謝のことばをもらい、とてもいい気分になったのを覚えています。「これが私の賜物、生きる道かな」と直感しました。とてもうれしかったからです。というのはそれまで私の中になかなか克服できない劣等感があって、それは私に向けていつもこう言うのです。「お前は社会では役に立たないよ!生きていてもみんなの邪魔になるだけだよ!」。でもそれがそのときにふっとんでしまいました。「私だって、他の人から期待されている!」と分かったからです。信仰とは何でしょうか。それは期待感です。神さまは私を愛してくださっているので、いつも良いことが起きるに違いない、という期待感です。「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」ということばはあなたに期待感を抱かせ、チャンスに強い人にしてくれるのです。

愛とあわれみの心をあなたの中に育ててくれます

 バプテスマのヨハネの役割は何でしょうか。三つのメッセージが語られています。

 1)形式主義はダメ(7-8)。
 讃美歌集第2篇の26番「ちいさなかごに」の2にこういう歌詞があります。

 「おはよう」とのあいさつも、こころこめて交わすなら、その一日おたがいに、よろこばしく過ごすでしょ

 ほんとうにその通りですね。
 
 2)「自分だけ持っていてはダメ!(11)。
 喜びを互いに分かち合いましょう。

 3)他の人に忠実でありなさい(12-14)。
 買い物から帰って来ると、お母さんは台所にあるテーブルの上に一通の手紙を見ました。こう書いてありました。
 「お母さんへ、さとみより お金を下さい。1.おそうじ代 60円 2.おつかい代 80円 3.まどふき代 100円 4.いぬのせわ代40円」お母さんは返事をすぐに書きました。
 「さとみちゃんへお母さんより。1.生まれた時からの食事代80万円 2.生まれた時からの洋服代 30万円 3.生まれた時からの病院代 30万円」
 さとみちゃんは「こんなにもかかっているんだー」とびっくりしてお母さんに謝りました。

 私たちは他者の世話になりながら生きています。他者に対して誠実でなければなりません。つまりバプテスマのヨハネは他者に愛とあわれみの心が大切であると説いています。あなたが「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という声を聞くとき、すなおに私の心に受け入れますと言うときあなたの中に愛とあわれみが生まれます。あなたの中にイエスさまが生まれています。そして愛とあわれみも。ある人は「そのわりには私には愛がない!」と嘆きます。練習してください。とにかく使うことです。一万円札を持っていても、床の間に飾っていても何の意味もありません。使ってはじめてその効能にあずかることができます。まず私の中に「愛とあわれみがある」と信じてください。そうしたら使う勇気が湧いてきます。祈ったらさらにそれは協力なものになります。聖霊さまがあなたの中で働くからです。小さなことを忠実に行うことができるようにしてくれます。
 イエスさまの宣教開始はおよそ30歳。ではそれまでは何を。一家の家計を背負っていました。(肉の)お父さんのヨセフは若くして亡くなったので、母親、弟たち、そして妹たちを彼が養わなければなりませんでした。でも彼は天下の救い主。この落差の大きさは?前者は後者に比べるととても小さい。でも小さいことを大切にする、これが神さまのみこころ、そして祝福を受ける秘訣。

 ロシアの文豪トルストイをあなたはご存じです。愛の人として大変有名ですね。でも彼の妻の評価は大きく違っています。彼女はこう言っています。「伝記作家は彼についてこう書くでしょう。『彼はバケツの水をかけるごとく人々を愛した』と。でも彼は私にコップの水一杯もくれなかった」私は個人的には彼女を知りませんのでこれが真実なのかは分かりません。ただ一つ明らかなことは彼女は愛をもらえなかったと思っている事実はあるということです。そしてこれが大切なのです。愛をあげたと思っていても、相手は受け取ってはいないと思っているとしたら。ここに小さなことを大切にすることの意味があります。もし小さなことを大切にできたなら大きな祝福を得ます。もっとも逆に「小さいことは難しい」とも言えます。私は現在大宮に住んでいますが、はじめて大宮駅に降り立ったとき、今でも忘れはしません、拡声器で「世界に平和を!」と訴えている年輩の人がいました。横目に歩き乍ら、「うん、なるほど、その通り、その通り」とうなづいていました。まもなく拡声器を片づけ帰り支度を始めました。そのときです。私が彼の顔を見たのは。恐ーい顔でした。「彼の心には平和がないなあー」と直感しました。

 一休さんでおなじみの一休和尚が道端の乞食にお金をあげました。ところがちっともうれしそうな顔をしないので、「あんたはお金をもらってうれしくないのか」と聞きました。すると彼は「あんたは俺に金をくれてうれしくないのか」と言われてしまいました。せっかくの小さな行為が無駄になってしまいました。黙ってただお金を渡すだけでいれば、大きな幸せが来たことでしょう。「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」、これは「わたしはあなたを愛している。あなたはわたしの大切な子どもだ。わたしはあなたを誇りに思う」という意味ですが、とても小さな声です。小さいから聞き逃してしまうほどのものですが、あなたはこれを受け取ることによって大きな幸せを味わうことができます。

 今回はちょっと立ち止まってほしい、なぜなら聞いてほしい神さまのお声があるとお話して来ました。最後の小話をして閉じましょう。

 タイタニック号の救命ボートの話です。救命ボートには全員は乗れず、女性や子どもが優先です。船長がその旨説明し、男性には降りていただくことにしました。はじめに「イギリス人に「あなたは紳士だ」と言うと、静かにボートを離れた。アメリカ人には「あなたはヒーローになれる」と言うと、ガッツポーズをして飛び込んで行った。ドイツ人には「これはルールです」と言うと従った。最後に日本人には「みなさん、そうしていますよ」というと周りをキョロキョロしながら、飛び込んだ、というのです。

 ここで私は前向きに生きようとするあなたにはこういうことばをかけたい、いや、聞いて欲しいのです。人からのものではない。「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」、それは御子を捨てるほどにあなたを愛してくださった神からのお声です。

 このお声を聞いて、霊のレベルにおける健康を常に確保しておくことが祝福される人生の秘訣です。