352 誘惑を逆手に取る

 ●聖書箇所 [ルカの福音書4章1ー15節]

 私たちの人生には様々な出会いがありますが、その中に誘惑があります。ところで人間には二種類あります。出会いを前向きに受けとめて、それから良いものを引き出して行こうと考えるタイプと、出会いにただ流されるタイプです。もちろん前者こそが神のみこころです。今回は誘惑について学びますが、前者のように考えると誘惑はもはや誘惑ではなく、試練になります。試練はその後に大きな祝福を保証するものですから、私たちにはおおいに希望があります。今回はイエス・キリストのお受けになった荒野の誘惑からどのような祝福が私たちを待っているのか、またどのようにしたらそれを得ることができるのかを一緒に考えましょう。

真に報われる

 私たちは何か良いことをした場合にそのことが報われたらいいなあと考えているはずです。ところであなたがしたその良い事をいったいだれが正確に余すところなく評価できるのでしょうか。先週日本水泳連盟と千葉すず選手との間に裁定の結果が出てマスコミをにぎわせました。どちらが悪いのかは私には分かりませんが、きっとだれもが、努力には正確に報いて欲しいものだと考えたに違いありません。もう一度質問です。いったいだれが?私たちはそれが天地の造り主なるお方であることを知り、それに希望を感じています。神さまなら不可能はない!のですから。私たちはみな神さまのところから生まれ出て、今地上におり、やがて天に帰ります。そこで「よくやった。良い僕だ!」とお誉めのおことばをいただくのです。私たちには本来このような気持ちが備わっているはずです。

 フィリッポ・ネリという人がいました。ある日、学生が喜び勇んで彼のもとに報告しにやって来ました。「先生、ありがとうございます。試験に合格しました」。「彼は「ほんとうにおめでとう!それでこれからどうするつもりですか?」。彼は胸を張って、「はい、弁護士になります」。「それから?」「たくさんお金を儲けます」「それから?」「立派な家を建てます」「それから?」「それから結婚して幸せに暮らします」「それから?」ここで彼は彼はしばらく考えて「死ぬのでしょう」と言いました。「それから?」ここで彼は完全に答えに窮しました。以来、この質問が彼の頭から離れなくなり、毎日眠れない日々が続きました。そしてついに神さまに献身することを決心しました。

 そうです。私たちは神さまのもとに帰らなければ決して満足できないのです。ただ一時地上には魅力的なものが多くあるので、私たちは目を奪われやすいのです。サタンはイエスさまをどのようにして誘惑をしているのでしょうか。この箇所全体から判断できることはこういうことでしょう。「イエスさま、地上にはさまざまな魅力あるものがあるではありませんか。イエスさまほどの方でしたら、人々を驚かすようなことはいくらでもできるんだすから、父なる神さまのもとに戻らなくても十分報いはありますよー」。今、述べましたように、私たちにも同じような誘惑があるのではないでしょうか。私たちは心すべきです。神さまだけがあなたを正しく報いて下さいます。どうか霊の目をしっかりと見えるようにしてください。それには罪と言う雲を晴らす事です。罪を悔い改めることです。神さまがはっきりと見えて来るでしょう。

愛する愛に満たされる

 愛とはなんと美しいことばでしょうか。コルベ神父をご存知でしょうか。1941年彼はアウシュビッツ収容所にいました。ある日の事。炎天下の厳しい強制労働から逃げた者が一人いました。所長は言いました。「これは連帯責任だ。夕方迄に戻らなければ、お前たちの中から10人を選んで餓死室に送る」。だんだん、暗くなって行き、ついに脱走者は戻って来ませんでした。囚人たちは集められ、いよいよ10人の選抜が始まりました。「お前!そうだ、お前だ!」。集合した庭に張り詰めた空気が漂います。指名された瞬間、死を意味します。何人目だったでしょうか。男の人が取り乱しました。「故郷に残した妻は子どもたちのことを思い出して泣き叫びました」。そのときです。一人の人が進みでました。所長が尋ねました。「お前はだれだ?」「私はカトリックの神父です」「何の用だ?」「私は彼の身代わりになります」。一瞬所長は信じられないようでした。やがて「よし、分かった!お前が死ね!」、こうしてコルベ神父は餓死室に向いました。最後の一人が死ぬ迄その部屋には讃美歌が聞こえたと言います。
 みことばはこう言います。

 「人がその友のために命をすてる、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)

 イエスさまはあなたが死ぬ代わりに十字架で死んであなたへの愛を示してくださいました。第一の誘惑は3節です。「石をパンに」。食べ物にしろ、何にしろ、物(モノ、お金も含めて)には魔力があります。ゆえに買収や贈収賄が私たちの社会から絶える事がありません。これは私たちの中にある、ある思いには非常に有効です。その思いは他者を自分の目的達成のために利用しようというものです。これは愛と対極にある考え以外の何ものでもありません。イエスさまは弟子たちにこう言われました。

 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ25:25-28)

 私たちは人に仕えなければなりません。それが愛することです。どうかいままで受けた恵みを数えてみてください。あなたの心の中が熱くなって行くのが感じられるでしょう。

 水野源三をあなたはご存じでしょうか。10歳のときに脳性麻痺と診断され、手足を使う事も話す事もできなくなった彼は母親が掲げる五十音表にまばたきで合図してなんと30年余の間に4万もの詩を書きました。次は彼の詩の一つです。

 「いくたびも ありがとうと声出して 言いたしと思い 今日も暮れゆく」

 多くの人が彼の詩に励まされ、希望をもらいました。彼は多くの人を愛したのです。それには秘密がありました。彼の心の中にはいつも神さまへの感謝の気持ちが絶えることがなかった、ということ。

能力を全開にしてくれる

 能力は使われないとやがてはどんな結果を招くのでしょうか。萎えますね。あの屈強な宇宙飛行士も長期間宇宙にいるとーそこは無重力の世界ですから、筋肉を使いませんー地上に帰還したときには起き上がることもできません。もちろん歩く事もできません。もう一つあります。もし能力が使われないと起きる問題が。それは悪いことに使われるということ。口が達者な人がいるとしましょう。この能力が使用禁止にされると、悪いことのために私たちは用いるようになります。つまり人の悪口を言ったり、噂話をしたり。週刊誌が毎月多くの部数が売れるのはこれが理由です。噂話をしたり、されたり、聞いたりすることにある種の心地よさがありからです。私たちはまさに罪人です。イエスさまがお受けになった誘惑を観察してみましょう。3、7、9節に「(もし)あなたが神の子なら」という表現があります。「もし、〜なら」には二種類あります。eiとeanです。前者は事実の場合に、後者は事実でない場合に使います。イエスさまは神の子であることが事実なのですから、前者です。しかしイエスさまは人として誘惑を受けていらっしゃるのですから、神の子としての力を使用することを避けていらっしゃいます。もし使用してしまったら、「私たちとはやっぱり違う、神の子なんだから誘惑に勝てるのは当たり前じゃあーないか」と総スカンを食らうでしょう。私たちと同じ「人」として誘惑を受け、「人」として誘惑に勝つことが必要なのです。イエスさまは力を見せびらかすこと、つまり悪い使い方をなさいませんでした。私たちは能力の正しい使い方をするべきです。そうしてこそ真の満足感が感じられるものです。なぜなら神さまがあなたのタレントや能力をお造りになったからです。製作者こそが最適の使い方を知っているはずです。あなたの能力の製作者である、まことの神さまのためにそれを使ってください。最高にその賜物は輝きます。

 ニコロ・パガニーニは超一級のバイオリニストとして知られていますね。1782年にパリにやって来たときのことです。盛大の歓迎会の中で演奏が始まりました。ご存じの通りに弦は四本。しばらくして彼は一本の弦を切りました。人々はそれに驚きましたが、彼は平気な顔で相変わらずすばらしく演奏し続けました。さらにまた一本、ついには一本の弦で見事な演奏をやってのけました。超一流の演奏者は違うのです。天地の造り主なるお方は超超一流なのであなたの能力をあなたには想像できないくらいにすばらしく用いてくださいます。

理想に生きることができる

 理想、それはロマンとも言います。ロマンがなかったら人生寂しいではありませんか。私はいつもロマンを持っています。自称ロマンチスト。ところでどんなロマンか聞きたいですか。私のロマンはこれです。出会うすべての人に、「これからどんな人に成長していくのかなあー」という前向きな期待感です。「もっともっと変えられて行く!」という強い思いです。そして私は他の人にも私に向けて同様に考えて欲しいのです。いかがでしょうか。「私は今月が最高、あとはレベルが下がるだけ!」というのは困るのです。あなたもそのように思われたら悲しいでしょう。互いに期待して行きたいものですね。夫婦、親子、兄弟、友人同士、先生と生徒などなど。サタンはなぜ誘惑を仕掛けたのでしょう。それはイエスさまの持つロマンを破壊するため。それは神の国というロマン。そこには愛、喜び、平安が充満しています。でもこれをサタンは破壊したい。ブツブツ、悪口、ねたみ、誹謗の世界へと私たちを招き入れたい、というよりもそういう罪の世界から移っていかないようにと、リーダーであるイエスさまを潰そうとしています。
 あなたにもロマンが必要です。それは聖霊さまが教えてくださいます。1節と14節を見て、この誘惑の事件は聖霊さまに導かれ、聖霊さまによって幕引きがなされていることに注意しましょう。聖霊さまがあなたにロマンを与え、このロマンがあなたを誘惑に負けないようにしてくれるのです。