358 信仰生活、陰の主役
 ●聖書箇所 [マタイの福音書15章1ー28節]

 私たちは教会に出かけます。信仰生活をします。何故なんでしょうか。何がその動機なのでしょうか。意外に自分でも気付いていないその動機に迫りましょう。そこで題を陰の主役としました。表に出てもらいましょう。そうしてきっとさらに充実した信仰生活と教会生活へと導かれて参りましょう。

人を愛したい

 私たちの心の中には本来人を愛したい思いがあります。出会う人々を、家族でも友人でも私たちは愛そうとしています。ただしかしなかなかスムーズに事が運ばないきらいがあり、とまどいを覚えます。1ー2節ではパリサイ人と律法学者たちがイエスさまの弟子たちに難くせをつけています。ここにはどんな心理があるのでしょうか。どんな文章も同様ですが、文脈がそれを理解するための有力な鍵です。読んでみると、直前にはイエスさまが近付いて来る人々をすべて癒された、という出来事があったことが分かります。イエスさまは人を愛されました。それはだれもがそれと分かる出来事でした。このことに彼らは大変いらつきました。それはねたみ。彼らは本来聖書研究家であって、神さまのお考えを人々に伝える聖なる務めを任され、それを通して、人を愛している、はずでした。でも人々はだんだん彼らから遠ざかっていくのが彼らには分かっていました。一方でイエスさまの人気は上がる一方。ねたみとは学者によれば「傷つけられた自尊心」であり、「不安定感と劣等感を基礎にした否定的な感情の状態」と言われます。つまり、「私はだめな人間!」という意識に捕らわれている状態です。このようなときに人は二種類の対応をとります。一つは、周囲をあるいは相手を攻撃すること。これには直接的なものと間接的なものがあります。前者は面と向って口で悪口や皮肉を言ったり、時には暴力に訴えたりするものです。後者は悪いうわさを振りまいたりするものです。もう一つの対応は自分を磨こうとするものです。彼らはどちらを選択したでしょうか。もちろんあなたにはお分かりです。前者でした。ただしイエスさまには隙がないので、欠点だらけの弟子たちをねらい撃ちにしました。弟子たちは19章13ー15節で分かりますように子どもへの対応、20章20ー23節でお分かりのように自分をコントロールすることに問題がありました。そしてちょうど彼らにとって具合のいいことに、食事前の手洗いをしなかった場面を見つけました。これはインフルエンザへの予防ではなく、宗教的な儀式です。彼らが冷静でいられなかったのは、人々からの好意を受け取ることがもはやできない状況にあったからです。ここに私たちへのヒントがあります。
 私たちは神さまからの好意を受け取ることができます。すると私たちはリラックスできます。これが人を愛する余裕を産むのです。以前から言われていることですが、異性から好かれる三条件というものがあります。容姿、人柄、そして経済力。しかし最新の研究によれば、人から好かれるために一番重要なのはリラックスしていることだそうです。どうかあなたもリラックスしてください。最近音楽療法が注目されています。便秘に効くのはモーツアルトの「メヌエット」やシュトラウスの「ウイーンの森の物語」、気持ちを静めるのにはモーツアルト「レクイエム・弦楽四重奏[不協和音]」など。でも決定的なリラックスは神さまから好意を充分に受け取ればそうできます。その好意は二つで構成されています。一つは許し。もう一つは赦し。前者は「私はあなたをありのまま受け入れますよ」であり、「失敗したんですか、もう一度試みてごらん」というメッセージです。十字架のあがないが担保です。

神を愛したい

 私たちの心の中には本来神を愛したい思いがあります。しかしなかなかスムーズに事が運ばないきらいがあり、とまどいを覚えます。神さまと私たち人間の間に置かれた物が、本来は神さまを愛するためのチャンスにきっかけになるはずのもの、それがかえってさまたげとなっています。4ー9節にはコルバンのことが出て来ています。マルコの福音書7章11節附近に並行記事があります。捧げものの意味です。イエスさまは彼らへ反論をお始めになります。それが3ー6節です。「ではあなたがたは律法を真に守っているのですか?」と。イエスさまのおっしゃりたいことはこうです。「あなたがたは親を敬うべきことを知り乍ら、『神さまにコルバンした』と言って、その義務から逃れている。これはごまかしではないか」
 神さまは本来私たち人間に地上のすべてのものへの管理権を預けてくださいました。創世記1章28節でそれを確認することができます。これは神さまが人を愛していることのあかしであり、一方この責任を正しく果たすことは人が神さまを愛していることのあかしでした。でもアダムが罪を犯し、これが正常に機能しなくなってしまいました。ではどのように間違って機能しているのでしょうか。それは人が自らを神とし、管理を任されているものへの究極的な所有権を主張することでした。「おれのものだ!」という叫びがそこには聞こえてきます。男性は立場上、命令を下し、女性は裏から操るという違いはあるものの、自分の思い通りに動かそうとする思いは現実的なものです。では私たちが神さまを愛する力を回復するにはどうしたらいいでしょうか。それにはささげることです。それこそ神さまへの所有権を承認することであり、そのことにより神さまを愛しはじめることができます。

自分を愛したい

 私たちの心の中には本来自分を愛したい思いがあります。自分を大切にしたい思いがあります。しかしなかなかスムーズに事が運ばないきらいがあり、これにもとまどいを覚えます。ところで生まれ乍らの私たちの心の中には何があるのでしょうか。11、18ー20節を読んでみましょう。決して外から入ってくるのではない、という現実。しかもそれらは汚れたもの。そうです。私たちの中は大変汚れています。ときどき私たちはこのことに自分自身で気が付くのではないでしょうか。このままではいけないと思い、反省しようとし、また悔い改めもしようとします。時には他者から指摘されることもあります。そのようなときには大体このような反応をします。このようなとは、12節に見えるパリサイ人たちの反応です。人は事実を指摘されたときには怒るものです。こうして事実は証明されるのです。でも彼らは彼らなりに自分を聖めようとしています。それが七面倒クサイ手洗いの儀式でした。

 バークレイはこのように紹介しています。「食事の前の洗いのために、水がめには常に水を入れておかなければならなかった。この水を使う場合の最小の量は、……卵の殻に入るだけの水量の一倍半であった。この水をまず両手にかけ、指先を上に向けて、水を手にそって流して、手首から下に落とさなければならなかった。これは、汚れた手に触れた水がけがれるので、もし、もう一度水が指の方に流れれば指が再び汚れてしまうからであった。つぎには指先を下にして反対の方向から水をかけ、最後に片手ずつ、反対の手のこぶしでこすって清くした。非常に厳格なユダヤ人は、これを食事の前ばかりでなく、食事の間も料理が変わるごとにこれを行った」。

 しかしこれで本当に人は聖められるものでしょうか。決して聖められるものではありません。真の聖めは聖霊さまによります。聖霊さまを歓迎しましょう。神さまは初めに人をお造りになったときに、ふっと息を吹き掛けられました。それで生きるものとなったのです。でも今、私たちは真に生きているのでしょうか。聖霊さまに触れていただいて、私たちは私たちの霊を再び活性化させなければいけません。こうして私たちは自分を大切にすることができます。

 今回、私たちは自分でも気付かずにいる、信仰生活の動機を学びました。実は私たちは自分をもっともっと高めようとしていたのです。あなたが神さまに造られました、神の子であることのあかしがここにあります。世界に唯一の存在であるあなたの人生に祝福を祈ります。