362 どれだけ賃金がもらえますか?
 ●聖書箇所 [マタイの福音書19章27ー20章16節]

 20章1節から16節の話は不思議ですね。イエスさまって非常識なお方なのでしょうか。いいえ違います。今回学ぶ箇所にはすばらしいメッセージがちりばめられています。まず背景を知るようにしましょう。19章16節から22節をお読みください。金持ちの青年がイエスさまと会話をしていますね。彼の結論は財産を捨てることはできないというものでした。一方威勢のいいペテロはこうです。27節です。しかし彼の最後に付け加えたことばに注目してください。「私たちは何がいただけるのでしょうか」。「私たちは」と言ってはいますが、彼の性格ですから、実は「私は」です。他には20章10節もそうですが、「ああ、私は損をしているのかなあー、もしかすると。早く取り返さなくっちゃー。きっとそうだ!私の人生は損をしているに違いない。あの人と比べるとよーく分かる!」。あなたはいかがですか。このような気持ちに襲われることはありませんか。落ち込みますねえー。神さまを信じて生きることって喜びに満ちた生活ではないのでしょうか。先にすばらしいメッセージがここにはあると言ったのは、再び喜びに満たされるための提案がここにはあるという意味です。

あなたは神さまを相手にしなさい

 いったい、あなたを祝福してくれるのはだれですか?〜〜さん。そうですか?明治維新の立役者の一人西郷隆盛はこう言いました。「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我に足らざるを尋ねんべし」。もちろん天とは言っても聖書の教える天ではありません。でも私たちは、多くの人による多くの意見の嵐の中にいたにもかかわらずこう発言できた彼からおおいに学ぶべきではないでしょうか。あなたを祝福するのは天地の造り主なるお方です。20章1節以下について考えてみましょう。
 早朝の市場では毎日くり返されることが今日もありました。葡萄園のオーナーが労務者を雇おうとしています。しかしここで問題が発生しました。早朝から働いた者も、9時、午後12時、午後3時、ついには午後5時からたった1時間しか働かない者も同一の賃金だったのです。文句を言うものがいました(11-12)。これは文句を言う者の方が非常識なのです。事は中東で起きています。中東の文化を知る必要があります。売り手と買い手との間でされたやり取りによってものの価値は決定する、というものです。この場合に、第三者は無関係なのです。第三者に出番はありません。ここに第一のメッセージがあります。あなたは神さまを相手にしなければならないのです。この神さまはあなたを愛して、とてもよくしてくださる方です。あなたの受ける分(14)をよくご存じで、祝福をしてくださいます。どうしたらあなたは受けるべき分をしっかりと受けることができるのでしょうか。
 『星の王子さま』のサン=テグジュペリをご存じのことと思います。彼には『スマイル』という作品があります。スペイン市民戦争で彼は捕虜になります。牢獄で看守の侮蔑に満ちた態度や状況から明日にはもう命はないと思っている彼の体がぶるぶる震えています。そこで気を落ち着かせようとたばこを探します。
 「あった!」と指に挟みますが、その指がまた震えています。「マッチは?」と思いながら、看守に目が行きました。冷たい目つきの看守に言います。「マッチを貸してくれないか?」。そのときです。彼は自分でもなぜか分からないのですが、微笑むのです。そのときです。奇跡が起きたのは。看守が聞きます。「あんたには家族があるのか?」「うん、あるある。写真を持っている見てくれ!」(以降略)
 この後何が起きたのでしょう。看守は牢獄のカギを黙って開けてくれ、背中を向けたのです。彼が助かったことは言うまでもありません。微笑みをあなたは忘れてはいませんか。神さまに向かって、ぶつぶつばかりを言ってはいませんか。
 精神科医にカウンセリングを受けている48歳の主婦の訴えです。「私が朝、雨戸を開けると隣の家は窓を閉める。私が外出すると、近所の人は私を避ける」。しばらくして彼女はこう報告しました。「先日、犬の泣き声がうるさいので、苦情を言いましたところ、『ほんとうに申し訳ありません』と丁重に謝罪されました」。彼女は思い込みであったと分かったのです。周りの人々が、周囲の環境が暗いのは自分の心の中が暗いからです。これを投影と言います。神さまは私を祝福してくれないと勝手に暗く思うからです。どうか神さまに向かって微笑んでください。心の目であなたはあなたに向かって微笑んでいる神さまのお顔がはっきりと見えてくるでしょう。あなたは「私はたくさん祝福されているなあー」と恵みを思い出しつつ嬉しくなるのです。

あなたは正しく生きていなさい

 「正しく」という言い方はちょっと堅い感じがします。もっとやさしく表現しましょう。人には親切に、丁寧に接し、喜んでいる人がいたら、一緒に喜んであげ、悲しんでいる人がいたら、上手に喋らなくてもいいからそばにいてあげるなどです。するとあなたは喜びをもらえます。
 ところでイエスさまのお弟子さんたちはこの点ではどうであったのでしょう。ルカの福音書9章49ー50節を見てみましょう。ねたみが感じられませんか。既得権の保護、特権の独占意識などなど。決して正しく生きているとは言えませんね。正しく生きて行かなければいけません。正しく生きる者は必ず神さまから祝福を受けます。なぜ?って。神さまの目は節穴ではないから。隠れた所で隠れた行為を見ておられます。あなたのした良い行いは人々には知られなくても心配は要りません。
 ある大学の社会学部の学生たちが低所得層が住む一帯を調査しました。学生たちの印象は「こんなところに住む少年たちの未来は真っ暗だ!」というものでした。25年後、このレポートを見つけた一人の教授が追跡調査をしました。200人のその後を追い掛けました。20人はすでに亡くなっていましたが、残りの180人の現在が判明しました。弁護士、学校の先生、会社の役員たちでした。一人一人をインタビューするうちに一人の女性の名が共通して登場しました。彼女は答えました。「私は彼らを愛したのです」。
 そうです。愛される必要が私たちにはあるのです。愛からすべては始まるのです。今、あなたに必要なのは「私は愛されている」意識です。もちろん単なるリップサービスではありません。事実を言っています。イエスさまはあなたの罪のあがないとなるために、そうしてあなたを生かすために自ら命を投げ出されました。これが愛でなくて何でしょうか。愛されている意識はあなたをして正しく生きるようにさせ、神さまの祝福を得させるようにします。
 大学の教授が、彼の専門ではあったのですが、夫婦を数組集めて、カウンセリングをしました。「いまから用紙を配りますから、相手の良い所を15ヶ書いてください」。動機付けにこう言いました。「一番早く書いた人にはごほうびをあげます」。しばらくして一番乗りが出ました。しかしその時に一つも書けていない人もいました。
 どんなメッセージがここにはあるのでしょうか。自分の中に一つも良い所が見つけだせない人は他者にも見つけだすことができない」というものです。見つけだす力こそが愛です。神さまの愛を信じてください。

あなたは自分を小さい者、あるいは少ししかしていない者、と思いなさい

 謙虚な人はいつもこのようにするでしょう。逆に高慢な人は、「私のしていることは大きい、実に大きい。それに比べてあんたのしていることはくだらないことだ!」高慢は滅びに先立つことを心してください。

 バス会社が運転手の採用面接をしました。

面接官「あなたは、もちろん腕には自信があるでしょうが、断崖絶壁の上でも運転できますか?」
受験者A「全く問題ありません。どんながけっぷちでも任せてください。私はそういう所が大好きです」
受験者B「そういう所は慣れています。タイヤが半分道路からはみだしていても大丈夫です」
受験者C「無事に運転できると思います。でもそのような所を運転することは私は望みません」

 だれが採用されたと思いますか。もちろんC。20章10節を見ますと、明らかに自信過剰。ペテロも。イエスさまはこうおっしゃりたいのです。「ペテロ君、君は自信過剰だよ。自意識過剰だよ!」謙虚な人にこそ神さまの祝福は約束されます。二つ紹介しましょう。第一は永遠のいのち(19:19)。第二は天の宝(19:21)。
 星野富広さんをご存知と思います。中学校の先生でした。体操の時間に模範演技をして頭から落下。首の骨を折りました。9年間の闘病生活。彼は悩みました。「私にはなぜ、こんなことが?」「もう何にもできない!」。あるときベッドわきにあるお花に目が行きました。そして彼はこう思ったのです。「私にはきれいなお花に感動できる力がある」。これがすべての始まりでした。筆を口に加え、字を書く練習をしました。ついにはあのきれいな作品が世界中に知られて行きました。「きれいなお花に感動できる力」、小さなものではありませんか。あなたも小さなことをしているのではありませんか。それに感謝して下さい。小さなことができることに。このときあなたにはもう喜びが戻っていているはずです。 ペテロは成長途上でした。やがて、「何がもらえるのですか」とは言わず、「あなたにあげよう」(使徒3:6)という人物に変わって行きました。彼の中の喜び、神さまを信ずるがそう言わせたのです。