365 あなたは満ち足りていますか?

 ●聖書箇所 [マタイの福音書15章29ー39節]
 神さまはあなたに多くの恵みを与えて、満ち足らせるお方です。いかがでしょう?あなたはいま満ち足りていらっしゃいますか?今回の箇所では空腹のいやし、病のいやし、疲労のいやしなどを観察することができますね。神さまのあたたかいおこころを見ることができます。私には少し足りないかなーと思う方はこのメッセージを読んでください。いくつかのヒントがありますよ。

父なる神さまと親密であること

 私たち人間には親が必要です。親はありがたいものでいつも子どもを忘れません。私の母は少し離れたところで一人で住んでいますが、時々電話を寄越して「ちょうどいい靴下見つけたんだけれども買っておこうか?」などと言って来ます。何歳になっても子どもは子ども、親は親。子どもは親を忘れることがあっても、親は子どもを忘れません。親と言っても肉の親ばかりではありません。霊の親がいます。すなわち父なる神さま。このお方もあなたを、ご自分の子どもとして一時も忘れることがありません。そしてこのお方と親密であるときに、生きている実感がいつも経験できます。「生きていて良かったなあー」と。

 「子どもは自分に自信が持てるようになると、いろいろな点で大きな飛躍をとげる。しかし、より重要なことは、それをきっかけに、子どもが生き生きとしてくるということだ。(ウェイン・ダイアリー)

 子どもたちに必要なのは学科を学ぷことだけではない。このことがわかり始めてから私は心がとても軽くなつた。私は数学の教師で、数学を一生懸命教えている。以前はそれが私のすべてだと思っていた。……このことが本当にわかるようになつたのは、エディという名の生徒のおかげだった。私はある日、彼に尋ねた。「去年より今年の方がずっと成績が良くなったけれど、どうしてだと思う?」すると彼は答えて言った。「先生に習うようになつてから、自分が好きになったんです」この一言で、私は教育に対する自分の新しい考え方を確信したのだった。エバレット・ショストロム(『心のチキンスープ10』)

 この教師はこの生徒を愛しているし、生徒も愛されていることを認識しています。そこに彼自身や彼の生活に肯定的な態度が生まれたと言えるでしょう。私にも似たような経験が思い出されます。私は語学が大好きですが、思い返せば初めて英語を教えてくださった先生がとっーても好きでした。好きになった先生の科目を好きになることは一般的によくあることです。もしあなたが父なる神さまを好きになったとしたら……。あなたを生んだ神さまを好きになったとしたら・・・・・・、きっと神さまのお描きになった、そしてデザインされた、あなたの人生をあなたは好きになることでしょう。どうしたら父なる神さまを好きに、すなわち親密になることができるでしょうか。それはイエスさまといつもいつも一緒に過ごす事です。この場面は21節から29節へと読み進めてください。ツロとシドンはフェニキア地方です。ここで、そしてガリラヤ湖畔に向けて6ヶ月の間、イエスさまは弟子たちと親しく過ごされました。イエスさまはご自分の十字架の使命を覚え、弟子たちにはさまざまなことを、人生について、信仰について分かち合いました。なぜ6ヶ月かと言いますと、14章19節では、「草」の上に人々は座りましたが、15章35節では「地面」の上です。パレスチナでは春から夏にかけての光景です。夏の暑さに草は枯れてしまいます。いずれにしてもイエスさまとともにいることは父なる神さまとともにいることです。イエスさまについてのイメージを膨らませてください。愛とあわれみのイエスさま。やさしい、愛に溢れたイエスさま。あなたはこうして父なる神さまと親密な関係を楽しみ、満ち足りることができます。

異質な人に対して寛容であること

 異質な人への寛容さを「思いやり」と称します。イエスさまは思いやりのある方です。ゆえに群集が迫ります。彼らは普段は社会から排除され排斥されています。人が人を排除する、なんてことがありますか。あります!これが罪人の社会の現実です。彼らはそれゆえ心傷ついています。「イエスさまなら私たちの気持ちを分かってくださる」という強い期待が彼らを追い立てます。あなたには「私の気持ちを分かって!」という時がありますか。イエスさまはこの時、具体的な援助をなさっています。決してリップサービスではありません。これがイエスさまのやり方です。単なる気休めではない、これがイエスさまのあなたへのサービスです。
 ところで罪人はつい自分と異質の人を排除する、と言いましたが、イエスさまと群集の間にも異質さがあります。でもそれは群集だけにあるものではなくて、すべての人にあるものです。そうです。あなたにも。さあ、それはどういう意味でしょうか?
 あなたには罪があります。人間ならだれにも罪はあります。イエスさまにとってそれはなんという異質さでしょうか。イエスさまには罪がありません。でも積極的に近付いて来てくださいました。そしてその出会いの場、すなわち十字架において救われました。そうです。異質なもの同士の出会いが、第三の、良いものを生み出します。異質なものを歓迎してください。そこには新しいものが生まれます。実は異質なものとの出会いと付き合いとは神さまのみこころです。はじめの人アダム(男)とエバ(女)。両者には明らかに違いがあります。男女には違いがあります。最近読んだ本を紹介しましょう。

 現代では夫婦の離婚率は50%前後、事実婚などを含めると、破局率は70%を超えると思われる。なぜ、こんなに男と女の関係がうまくいかなくななったのか?それは男と女は全く違うものであるということを理解していないからである。……その最も顕著な部分が「目」の構造の違いである。視野は女の方が広い。視野がほぼ180度におよぶ女も珍しくない。……男は……前方がよく見える……。こうした機能の違いのため、交差点での横方向からの事故率は、女性ドライバーの方か低い。周辺視野が広いため、左右から接近してくる車に気がつきやすいのだ。しかし、空問能力が未発達なので、縦列駐車や車庫入れは苦手である。男は、狭い範囲なら遠くまでよく見える。前後を走る車の動き、自車との距離をはっきり捉えららるのは、空間能力の優れた男の方である。一方、女は暗いところでもよく見えるが、その範囲は左右に広いだけで、前後の距離感が短い。そのため、長距離のドライブに出掛ける時は昼間の運転は女、夜間は男がする方が安全である。……どうすれば男と女はうまくいく?……女は一日に平均6000-8000語の単語をしゃべり、さらに言葉にならない声や音を2000-3000回、ボディランゲージも8000-10000ほど出している。一日平均、2万回ものコミュニケーションとしての言葉を発しているのである。一方、男は、単語なら2000-4000語、声は1000-2000回、ボデイランゲージは2-3000回であり、合わせても7000回程度である。この違いは、一日の仕事を終えた夕食の席で明らかになる。男は仕事で7000回の持ち分を使い果たしているので、これ以上話す''意欲''がない。だが女性はその日をどのように過ごしたかで変わってくる。昼間にさんざんしゃべっていればよいが、幼い子供しか相手にしていなかった場合、せいぜい2000語ほどしか発していないため、まだ15000語ほどが残っている。その結果、夕食の席では「今日はどうだった?」から始まり、延々としゃべりまくることになる。働く女性の74%、専業主婦にいたっては98%が、恋人や夫の最大の欠点は一日の終わりに話をしてくれないことだと考えている。(『話を聞かない男、地図が読めない女』)

 結婚されている方々には参考になる話ではありませんか。男の人は女の人の話をできるだけ聞いてあげると良いでしょう。女の人は多少話を聞いてもらえる量が少なくても寛容であってください。どうか神さまが、あなたを愛して送ってくださったものとして、すなわちプレゼントとして異質な人を感謝して受け入れて下さい。異質な人との出会いを前向きに受け止めることによって良いものを得ることができます。

イエス・キリストをあかしすること

 ガリラヤ湖南岸にどうして4000人が集まったのでしょう。マルコの福音書5章1ー20節とマタイの福音書8章28ー34節を読んでください。ゲラサ人は悪霊から解放され、いやされました。そしてそのうわさが広がりました。彼も、この出来事を見た人々もしゃべったのです。先に、「ツロとシドンはフェニキア地方です。ここで、そしてガリラヤ湖畔に向けて6ヶ月の間、イエスさまは弟子たちと親しく過ごされました」と書きました。その後にデカポリス地方でこの物語が展開されました。ゲラサはデカポリス地方にあります。さあ、群集は津波のようにイエスさまのもとに押し寄せました、大きな期待とともに。一人の人のあかしは多くの人を招きます。あなたもイエスさまをあかししてください。
 あかしすると二つの良い事があります。一つは必ず救われる人が与えられること。なんとすばらしいことでしょうか。想像しただけでもわくわくするではありませんか。もう一つは霊の筋肉が強くされて、試練に強くなります。試練に弱いのは霊の筋肉が弱いからです。辛い事に出会うとすぐになえてしまいます。あかしする人はいつも先を、そして外を見ている人と言えます。自転車に乗ることを覚えたときのことを思い出してください。はじめはついペダルや前輪を見てしまいます。「前を見てーっ!」と注意されてもついそうしてしまいます。そうして小さい石っころにつまづいて倒れます。あかししている人は先に目を向けている人です。だから倒れにくいのです。
 どのようにしたらあかしができるでしょうか。いつも心の窓を開いていることです。機会が与えられたら、あかししようと心に決めておくことです。必ず神さまはあなたにあかしのチャンスをくださいます。
 路上で四人の男の人たちが大げんかをしていました。三対一でした。一人が倒され、激しく攻撃されていました。ちょうど通りかかった小柄な女性が攻撃している男の腕にしがみついて、「死んじゃう−」と叫びました。その間に被害者は逃げ去って行きました。彼女にも害が及ぶ可能性がありましたが、でも神さまは彼女にそうさせなさいました。力を勇気を与えて下さいました。こういう種類のことは時間をかけて準備するものではありません。そんなことをすれば胃が痛くなるのが落ちです。どうしたらこのような経験ができるでしょうか。いつも心をオープンにしておいてください。神さまはあなたにあかしのチャンスをくださいます。そして救われた人を私たちは見て、満ち足りた思いにさせてもらえます。