367 スカルの井戸の女

 ●聖書箇所 [ヨハネの福音書4章1ー30節]

 ある心理学者が「人生において一番の義務は耐えることである」と言っています。ほんとうでしょうか。「人生において大切なのはいくつもの困難を乗り越えて幸せを手にすること」ではないでしょうか。スカルの井戸の女はこれを実践した人です。私たち人間は決して物では満足できません。それであちらこちらへと自分を満足させてくれるものを求めて井戸を掘ります。しかし決して得ることはないのでストレスは溜まり、病気になり、イライラさせられ、あげくは人間関係を悪くするのです。このようなときには「周りが悪い!」という気持ちにもなります。これが人間関係をさらに悪化させます。しかしこの女性はついにすばらしい井戸を掘り当てました。井戸とはイエスさまのことです。あなたもイエスさまに出会い、彼女と同じものを得ることができます。この井戸の中には何があるのでしょうか。

アガペーという愛

 3と4節を見て下さい。ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤといった地名が出てきています。舞台はパレスチナ。四国を思い浮かべてください。それを90度回転させてください。縦長になりましたね。これを南北に三等分して上からガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ地方と考えてください。ガリラヤとユダヤ地方の住民は同族(ユダヤ人)、サマリヤ地方の住民は(北イスラエル王国の子孫でありながら異民族との)混血という図式です。近ければ仲良くできそうなものですが、人間は罪深いもので、近ければ余計違いが目立つものです。ユダヤ人はサマリヤ人をひどく嫌っていました(ゆえにサマリヤ人もユダヤ人をひどく嫌っていました)。ガリラヤとユダヤ地方との間で行き来するのにわざわざ迂回するほどでした。でもイエスさまはどまん中を通って行かれました。そしてスカルの井戸がそこにあって、女と出会われました。 これは偶然ではありません。イエスさまは事前に知っておられました。6節をお読み下さい。彼女は6時に井戸に水を汲みに来ています。6時とはお昼の12時です。すると暑い真っ盛りにです。なぜ?水汲みの仕事は当時は女性の仕事でした。でも多くの女性は涼しくなった頃、すなわち夕方にやって来るのです。そうです。彼女はだれとも顔を合せたくなかった。だれもが彼女を非難していました。イエスさまが声をおかけになったのはこのような彼女でした。イエスさまの愛をアガペーの愛と言います。すべてをありのまま受け入れる愛です。包み込む愛です。決して条件をつけません。「もしあなたがこの部分を変えるなら受け入れましょう」などとは言わない愛です。この愛を人が受けると、「私は生まれてきて良かった!」「私の人生は周囲の人々から歓迎されているんだ!」と心の中でうなずくことができます。ところで地上においてこの愛にもっとも質的に近いのが母親の愛です。もし母親の愛を、特に生後8ヶ月間に充分に受けることができれば基本的信頼を少なくとも60%は獲得します。基本的信頼とは「私がこれから生きようとしている社会は私を歓迎してくれている」という思いです。40%以下になると将来長じて精神的障害を起こしやすいと言われています。アガペーの愛は100%の基本的信頼度です。いまこれをあなたは経験してください。幼子のようになって。基本的信頼を得る時期の赤ちゃんにとって、自分ができることは受けることだけです。どうかあなたも受けてください。十字架のあがないを感謝して受けとめてください。

平安

 平安に毎日を過ごせたらなんとすばらしいことでしょう。「私、幸せ!」と叫ぶことができますね。一人のご婦人が牧師先生に相談をしました。

 「先生、私の話を聞いてください。私には立派な夫がいます。私に実によくしてくれます。子どもが3人いて、明るく幸せな家庭です。私は確かに幸せです。でも幸せではないんです」。「どうしてですか?」「私に中で声が聞こえます。『いつまでもこの幸せは続かないぞ。いつかは取り去られる』という声です。これが聞こえて来ると『私はきっとそうだそうに違いない』という思いになります」。

 彼女には一つの問題がありました。第二次世界大戦中に生まれ、まもなく両親ともに亡くなり、孤児になり、苦労して育ちました。これは先にお話しした基本的信頼の問題ですね。確かに周囲が悪かった、と言えます。これは事実です。ところで私たちは問題を抱えてしまった時に100%周囲が悪いと常に言えるのでしょうか。ロボットではない私たち人間には自分の側の責任や義務も発生していることを認めなければなりません。スカルの井戸の女は暑い最中、「こんなに苦労するのは周囲が悪い」とぶつぶつ言い乍ら、と私たちが彼女を推察するのは間違ってはいないでしょう。そうです。彼女自身も問題を作り出していました。それをイエスさまは知っておられましたが、ここがイエスさまの並みでないところです。
 私たちはきっとこう言うのが得意です。「あなたにだって問題があるでしょ!」。これではだれもが抵抗感を持たざるを得ません。まず心を開いてもらわなければなりません。イエスさまのアプローチは?13節と14節です。彼女は、今は、少なくとも建て前としては、水、すなわちH2Oに言及しています。でも渇かない水があると言うのです。もう二度と汲みに来なくてもいいという水があると言うのです。彼女は心を開きました。そこで突然、イエスさま16節のおことばを発されます。彼女は驚きました。突如彼女の心の闇に触れられたからです。そこで話をそらそうとします。イエスさまをほめたたえています。それが19節のせりふです。心をすでに開いてしまっている彼女はもはやイエスさまからは逃げられません。彼女はいままで事実から目を背けていました。それをもう止めるべき時が来たのです。私たちにはだれでも人には見られたくない闇の部分があります。触れて欲しくない部分です。自分自身もその闇を思い出したくないのです。まるで存在しないかのように振る舞います。でも事実は事実です。この闇が平和を平安を蝕んでいます。私たち罪人にとって平和くらい扱いにくいものはありません。

 ある雑誌にこんな漫画がありました。「酒場で二人の紳士が殴り合い、床に倒れています。介抱し乍らボーイさんがこう言っているのです。『だから平和についてだけは話題にしないでってお願いしてあったのに。まったくうー』死刑廃止論者と死刑存続論者が議論をしていました。激しくなり、ついに死刑廃止論者は叫びました。「死刑存続論者をみんな死刑にしてしまえば問題は解決する!」

 大戦を重ねて来た人類はユネスコ憲章でこう結論を出しました。「戦争は心の中で始まるのであるから、人間の心の中に平和の砦を築くこと、これこそが世界平和実現の第一歩である」。でも私たちは不安、葛藤、不信といった闇を持っていて、それを解決できないのです。でもこういう事実を見なければなりません。目を背けてはいけません。私たちは内にある罪を悔い改めなければなりません。良い礼拝は悔い改めを実にスムーズに導いてくれます。なぜこう言うのかと言いますと、私たちは悔い改めることが苦手であるからです。とすれば悔い改めることは人間のわざではなく、神さまのわざであると言わなくてはなりません。そうです。良い礼拝とは聖霊さまが活発に働く礼拝です。聖霊さまがあなたを無理なく悔い改めへと導いて平和を抱くあなたへと変身させてくれます。

喜び

 喜びも魅力的なものですね。イエスさまの中に真の喜びがあります。彼女はそれを見抜きました。いつの時代も本物はそれなりの光を放っています。私たちには本物と偽物とを見分ける直感というタレントが与えられています。彼女は「確かに、このお方には本物の喜びがある」と直感しました。彼女は希望を持ちました。私たち人間は土の器です。土、それはヘブル語でアダマー。これからアダムが造られました。初めの意味は男も女も含まれています。アダムはエド(水)+ダム(血)です。イエスさまは脇腹を刺されて水と血が流れたと記録されていますが、これは人間としては完全に破壊された意です。最高の厳しい刑罰をお受けになったのです。さて血は命ですね。しかし血で生きているだけでは人間としても物足りない。エドは水と言いましたが、湿り気です。湿り気をラテン語ではフモールと言います。これは英語になってユーモア。つまり人間はユーモアがあって初めて人間足り得るというわけです。ユーモアは喜び。あなたは喜んでいますか。真の喜びを生む泉があるとイエスさまはおっしゃっています。14節です。聖霊さまのことをおっしゃっています。聖霊さまはあなたを悔い改めに導いて、すなわち聖めてくださり、ゆえに喜びがあなたの中に絶えないようにしてくださいます。

天国[20-21]

 14節で永遠のいのちへの言及があります。新しい霊の身体と共に永遠のいのちで生きて行く世界を天国と言います。ここが私たちすべての人間の行くべき世界です。決して物では満足できない私たちの向う世界です。どうか、すなおに信じて期待してください。牧師が言うからではなく!

 新しい町に赴任した牧師が道に迷いました。通りがかりのご婦人に尋ねると教えてくれました。そこでお礼にと「あなたに天国へ行く道をお教えしたいのですがいかがでしょうか」と言ったところ、彼女は「地上で迷っている人に天国を案内できるんですか?」。

 何に権威があるのか、それは聖書です。天国に行って来た人の報告があるので、それを紹介しましょう。

 私にわかったことはいくつかの天を通って飛んでいるということだけでした。……今日までも見たことのない大きな門の外に上陸しました。……その門はとても幅広く、とても高く……一つの堅い真珠でできていました。……私が振り向くと、全き栄光のうちにおられるイエス様がそこに立っておられました!私はすぐにイエス様だとわかりました。私はひざを曲げ、顛に涙が流れ出ました。それは止めようとしても止まらなかったことでしよう。イエス様が話される時はいつでも、まるで愛によって撃ち出された信仰の矢が……打ち込まれ、内側で爆発するようなものです。それから彼は話されました。「私はあなたを大いに愛しているゆえあなたを天国に案内したいのです」。イエス様はその巨大な門を通って私を案内してくださいました。……初めに私が見たのは、一つの道で、それは金の道でした。後で天国を通って歩いた時、道はすべて文字通り純金でできているように見えました。私たちが歩いて行くうちに、天国の雰囲気がすばらしいのは、それが御霊の実でエネルギーを与えられているからだと気付きました。……私が見かけた人はみな、完全な状態であり、人生の最盛期にいるように見えました。みな三十代の人のように見えました。たぶん、それで聖書は、私たちが彼のようになる(第一ヨハネ3:2)、と言っているのでしょう。三十代はイエス様が復活して天に帰られた時の歳でした。……恐れは天国では見られませんでした。(ロバーツ・リアドン『私は天国を見た!』エターナルライフミニストリーズ)