372  分かち合う喜び

 ●聖書箇所 [マタイの福音書1章1節ー16節]

 クリスマスおめでとうございます。
 
 アメリカの作家・ルイザ・M・オルこットの「若草物語」に次のような場面が出てきます。

 牧師であるお父さんが人助けをするので、家はいつも貧乏です。そのお父さんも従軍牧師として戦争に行っています。きょうは楽しいクリスマスの朝。ジョーは薄暗いうちから、だれよりも先に目を覚ましました。プレゼントの入ったくつ下がないので、ちょっとがっかりしましたが、まくらの下に手をやると、何かありました。それはお母さんがくださった赤い表紙の聖書でした。「みんな、クリスマスおめでとう。早く起きてごらんなさい。お母さんからのプレゼントよ」メグもベスもエミーも、まくらの下に、それぞれ表紙の色の違った聖書を見つけました。お母さんが気の毒な人を助けるために外出している間に、四人姉妹はお母さんへのプレゼントの入ったカゴを用意しました。玄関の閉まる音が聞こえました。お母さんです。「メリー・クリスマス!お母さま、聖書をどうもありがとう」。「まあよかったこと、喜んでもらえて。朝ごはんの前に聞いてもらいたいことがあるのよ。近くにとても貧しい奥さんが、病気で寝ているの。六人も子供がいて寒さにこごえているの。みんな、朝ごはんをクリスマス・プレゼントに持って行ってあげること?」。一時間近くも、食事をしな いで、お母さんの帰りを待っていたのですから、みんなおなかがぺこぺこにすいていました。じっと考えこみましたが、すぐに口々にこう言いました。「お母さまが帰っていらっしゃるまで朝ごはんを食べないで、待っていてよかったわ」。「わたしも行くわ。何か持って行ってあげる」。その家に着くと、病気の奥さんは言いました。「あっ、天使さまがいらしてくださった」。そして、おな かをすかした六人の子供たちは、大喜びでごちそうを食べました。みんなは、からっぽのおなかをかかえて、家に帰って来ましたが、心の中は幸せでいっぱいでした。

 最近、出版された「家庭で祝うクリスマス」(いのちのことば社刊)の著者・内田みずえさんは、その中で、この「若草物語」のクリスマス風景をエッセーとして紹介しつつ、次のように語っています。

 「豊かで、あり余るほど物があるのに、たった一つでも分けてあげるのに、身がちぎれるくらい辛い思いをする子供がいるということを耳にします。イエス様がおっしゃいました。『受けるよりも与える方が幸いである』幼い時から、分かち合うことの喜びを体験させてあげるのは、親の責任ではないでしょうか。そのためには親が、まずその喜びを味わい知っていることが大切です。(『クリスチャン新聞福音版』より)

 今回は「分かち合う喜び」いう題ですが、まず私たちがすでに受け取っている喜びを確認しましょう。私たちが喜んでいてこそ、周囲の多くのみなさんと、喜びを分かち合うことができます。多くの人が読み飛ばす箇所、灯台元暗し、マタイの福音書の冒頭部分にそれを発見しましょう。

神によって選ばれたこと

 3節にユダとタマル*1が登場します。両者の不倫の子がパレス(とザラ)です。我らが救い主の系図にこのような人たちが登場するのです。なぜ、でしょうか。神さまによって選ばれたとしか言いようがありません。私は以前、まだ子どもが小さかった頃、せっせと近くのファミリーレストランへ安いランチを食べに通って、ディズニーランドの無料入場券を抽籤で手に入れたことがありました。なんと4枚も。ちょうど私の家族は4人でしたから。さすがに神さまはすべてをご存知と感謝しました。抽籤とは自分で選ぶものではありません。選んでもらわなければならないものです。選ばれてとてもうれしい思いをしたことをいまでもあざやかに覚えています。最近『メイクマネー』(文芸春秋社)という本を読みました。著者が金融戦争のまっただ中に飛び込んで、成功すれば20代でも年収数千万円から数億円を手にするという世界です。その中で著者自身も一億円プレーヤーになったのです。この著者の中で彼はこのような意味のことを言っています。「金と平安の関数は、初めは単純な正比例だが、あるところから心を乱す金の魔力が作用するようになり、解析不能なものになってしまいます。……すでに何十億円という資産を持ちながら、なお金を儲けようとするのはなぜか……それは財産を失う恐怖心である……」。なぜ私たちは今生きていられるのでしょうか?神さまに選んでいただいたからです。幼子のようにすなおにありがとうという気持ちが大切です。

今、信仰を持っていること

 5節にはラハブ*2が登場します。彼女は売春婦です。これもまた驚きです。それにしても、ヨシュアの派遣した二名の斥候を彼女はなぜかくまったのでしょうか。ヘブルへの手紙11章31節にその答えがあります。信仰です。信仰はすべての人を結び付ける帯です。次の文章は私がとても印象深く受けとめたものです。ご紹介しましょう。

 「主よ、私の目にこの人が、あなたの目に映るのと同じように、かけがえのない存在と映るように助けてください。あなたはこの人のために死に、またあなたは友として交わりを、永遠に続けたいと切望なさるほどに、この人を愛しておられます。あなたの臨在の中で、私が親切でその人の独自性を尊重し、共に人間であることの神秘に畏怖する者となれるように助けてください」(『神との友情』いのちのことば社)

 信仰は私たちの人間関係をとてもすばらしいものに、前向きなものに、積極的なものにしてくれます。また信仰は未来です。希望ある未来を生み出す力です。だから今、信仰を持っていることは大きな喜びです。

神はすべての人に平等かつ公平であること

 5節にはルツ*2も登場します。ルツは異邦人、すなわち外国人。当時は神さまの選びからはもれていると理解されていました。でも神さまはすべての人を平等に公平に取り扱われます。祝福もチャンスもだれにも与えられます。これは私たちには嬉しいことのようで実は逆の面を持っています。というのは私たち罪人は自分だけ特別に待遇してほしいという思いを持っているからです。そして一度受け取った特権は手放したくないとも思います。これには二つの大きな問題をはらんでいます。

 先頃神奈川県警で不祥事が相次いでいますが、その一つは署内でいじめが日常茶飯事化していたことが発覚したことです。逮捕されたいじめの主犯は自分の中にストレスや欲求不満があったことを認めています。それははらすために部下を虐めました。でもそのようなやり方は以前からの署内における伝統であったことも露見しました。いじめる、しかも自分の中のストレスや欲求不満を発散しようとする、これはすなわち他者を自分の欲求を満たすための道具とすることであって、倫理的におおいに問題のあるところです。私たちは道具ではなく、人間です。人格ある誇リある者です。神さまはこのようないじめがあることには我慢がおできになりません。でも私たちは「止めなさい!」と説教されて簡単に止めることができるものなのでしょうか。答えは「ノー」です。そこで神さまはご自分の大切な御子イエス・キリストを私たちにプレゼントしてくださったのです。これがクリスマスです。

 「私の子をいじめなさい!」。私たち人間は人格をいじめて、はじめていやされるのです。いやされて、心は喜びを感じます。ところでこの聖書箇所には、どの人の罪でも、どんな罪でも赦していただけることがあかしされています。というのは、6節にはダビデ*4が登場しますが、姦淫の罪により生まれて来た子は神の怒りに触れ、死にます。彼は激しく悔い改め、神さまは彼を赦します。そのあかしが、不倫の相手バテシバとの子ソロモンへの王位継承です。ソロモンはイスラエル史上最大の版図を獲得しました。大変祝福された王となりました。私たちの真の喜びは自分の罪が赦されたことでなければなりません。

 1972年10月13日、南米ウルグアイの学生ラグビーチームを乗せた飛行機がアンデス山中に墜落しました。生存者が33名いましたが、生還できたのは16名。この差は何を物語るのでしょうか。生存者は人肉を食べて生き延びたのです。映画になりましたが、その中でだれも責められてはいません。生きることにおいて私たちはだれでも罪を犯します。ことばで行為で。でも神さまは罪責感に悩む私たちを知り、罪を赦してくださいます。しかもわけへだてなく、へりくだる者すべての人の罪を。心の広い神さまはあなたにも罪の赦しをくださいます。そしてここに大きな喜びが生まれます。

 受けた喜びをできるだけ多くの方と分かち合いましょう。それが真のクリスマスの喜びです。

*1■ユダ(族) 1.(〈ヘ〉yehudah) (1)族長ヤコブの第4子,母はレア
(創29:35).その名は「賛美」という意味.ユダは早くから兄弟の中で指導力
があった.ユダはドタンでミデヤン人にヨセフを売ろうと兄弟たちを説得してヨ
セフのいのちを救った(創37:26‐28).創38章に記述されている彼の恥ずべき
行為は,彼の記憶に汚点として残った.彼は兄弟たちの間で徐々に指導権を握る
ようになっていった(創43:3,46:28,49:8‐12).ユダは,息子のペレツを
通して,ダビデ(ルツ4:18‐22)とイエス・キリスト(マタ1:3‐16)の先祖に
なった.

■タマル (〈ヘ〉tamar,〈ギ〉Thamar) 「なつめやしの木」という意味.1.ユダの長子エルの妻となったが,エルが死ぬと,弟オナンの妻となった.オナンも死ぬと,オナンの弟シェラが成人するまで実家に帰って寡婦の生活をしていた.しかしシェラが成人しても父ユダが結婚させようとしなかったので,遊女を装ってしゅうとユダと結ばれ,ペレツとゼラフというふたごを産んだ(創38章).彼女の名はユダの系図に載せられ(ルツ4:12,?歴2:4),新約聖書冒頭のイエス・キリストの系図の中にもその名が見られる(マタ1:3).

*2■ラハブ (〈ヘ〉rahab,〈ギ〉Rhachab,Rhaab)「広い」という意味.エリコの遊女(ヨシ2:1).彼女は城壁の中に家を持ち,エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい,彼らを窓からつり降ろし,無事に任務を遂行するのを助けた.その時ラハブは,イスラエルがエリコに侵入する時,自分のいのちを助けるとの約束を得た(ヨシ2章).そして,ヨシュアは,その約束を守り,ラハブ一族を助けた(ヨシ6:17,22‐25).ラハブがどのような経歴を持つ人物かは知られていないが,すでにイスラエルの神を主と呼び,そのみわざについて知っており,2人の斥候の前で立派な信仰告白をしている(ヨシ2:11).ヨシ2:1では遊女と呼ばれているが,亜麻の栽培をして生計を立てていたと思われる(ヨシ2:6).新約聖書は,彼女を,信仰の人また義と認められた者と呼んでいる(ヘブ11:31,ヤコ2:25).イエス・キリストの系図の中では,ルツの夫ボアズの母として紹介されている(マタ1:5).

*3■ルツ (〈ヘ〉rut,〈ギ〉Rhouth) モアブの女.ルツ記の主人公.ルツは,士師時代(前1390―1044年頃)にあったききんのためにベツレヘムから逃れてきたエリメレク,ナオミ夫妻の子マフロンと結婚したが(ルツ4:10),義父エリメレクと夫に先立たれてしまった.そのため,故郷に帰るというナオミに従ってベツレヘムに行く決心をした.その時,モアブに残って再婚することを勧めるナオミに対し,ルツは真の神に対する信仰を告白し,ナオミに従ってベツレヘムへ行った.ベツレヘムでのルツは,落ち穂を拾って,ナオミを助けていたが,ある日エリメレクの親族の一人であるボアズと知り合い,ボアズから親切にもてなされた.ルツは,ナオミの勧めでボアズに求婚した当時の習慣では,子のない寡婦は夫の地を相続することができなかった(民27:8‐11).そこで,それを買い戻した者は寡婦を養う義務が生じ,その女が若い場合は彼女をめとり,子を生み,その子に土地を与える義務があった(創38:8‐9).ボアズは,マフロンの一番近い親族を探し,買い戻しの意志のないことを確かめたうえで,ルツをめとった(ルツ4章).ルツはエッサイの父であるオベデを産んだ.そしてエッサイからダビデが生れた.ルツは異邦人でありながら,その信仰によってイスラエルの民の中に加えられ,救い主イエス・キリストの祖先の一人となった(マタ1:5).

*4■ダビデ (〈ヘ〉dawid, dawid,〈ギ〉Dauid) イスラエル王国2代目の王.前1010年から970年頃までの40年間統治した.その記録は?サム16章以降,サムエル記第二,?列2章までに詳しい.「ダビデ」という名称は,新約聖書の中に58回登場する.これはダビデ王自身を指す場合も少なくないが,「ダビデの子」としてイエスを指すことも多い.それは,イエスが「肉によればダビデの子孫として生まれ」(ロマ1:3.参照マタ1:1),ダビデに与えられた約束の成就者である(?サム7:8‐17)という事実に由来する.主イエス御自身,自らを「わたしはダビデの根,また子孫,輝く明けの明星である」と宣言された(黙22:16).ダビデは,ペリシテ人(?サム5:25),モアブ人(?サム8:2),エドム人(?サム8:14)など周辺の近隣諸部族を次々に征服し,王国の勢力を拡張していった.このように王国が繁栄を誇り,ダビデの全盛時代とも言うべき時に,バテ・シェバ事件が起る.部下が戦いに出ている間,ダビデは安逸をむさぼり,ヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯した.そのうえ,その罪を覆い隠すため,夫ウリヤを戦いの最前線に送り込み,戦死させてしまったのである(?サム11章).この時ダビデは預言者ナタンからきびしい叱責を受けるが,その時の苦悩は詩51篇に赤裸々に告白されている.ダビデの信仰が完全無欠であったというわけではない.多くの弱さと罪を露呈させながらも,絶えず砕かれた心を持って悔い改め,神の赦しと恵みを味わい続けたのである。