373 いつも幸せ

 ●聖書箇所 [申命記12章28節]

 申命記にはモーセの三つの説教が収録されています。今回はそのうちの二つ目から、その一部を学びましょう。中心聖句は12章28節です。聴衆は新しい土地、すなわちカナン、あるいはパレスチナと呼ばれている土地にこれから入って行こうとしているイスラエル人です。もしあなたがたが永久の幸せを得たいのなら、こうしなさいとモーセは勧めています。あなたにも新しい世界へと進みたい気持ちがありませんか。さらに一歩、大きく、前へ。そしてそこではいつも幸せであってほしいものです。モーセの勧めに耳を傾けましょう。

真実の礼拝をささげなさい

 真実の礼拝をささげているかどうかは、礼拝者自身、あるいは参加者自身が分かるものです。「いやー今日の礼拝は良かったー!」と感動していれば、真実の礼拝を味わっているのです。12章5節や7節を見れば、その証となるべきものがなんであるか、分かります。それは心の中に喜びがあり、楽しんでいるという思いがあります。12章2ー27節は旧約聖書時代の礼拝規定です。現代とは内容に違いがありますが、本質に於いては同じです。それは今、説明したように礼拝には喜びと楽しめることとがなければならないというもの。

 あなたは賛美するときに喜び楽しんでいますか。
 あなたはお祈りをするときに、聞くときに喜び楽しんでいますか。
 あなたは献金をするときに喜び楽しんでいますか。
 あなたは説教を聞くときに喜び楽しんでいますか。

 この喜びと楽しめることとがあなたの力となります。ではどのようにして真実の礼拝をささげることができるのでしょうか。それは気付きと動きのコンビネーション。聞きなれない言い方かも知れません。石川光男(国際キリスト教大学)は『共創思考』の中で人生を変える二つの能力として「気付きの能力」と「動きの能力」をあげています。どんなに多くの知識を持っていても「気付きの能力」に欠けているならば成長しないと言います。
 トーマス・マンは『ヨセフとその兄弟たち』の中でヨセフが兄たちからねたみや怒りをかったのは、そしてさまざまにひどい目にあわされたのは、自分だけがお父さんから特別に愛されたことについて、お兄さんたちがどんな気持ちでいたか気付くことがなかったからだと述べています。真実の礼拝においては私たちは、「そうか、そういうことだったのか」と気付くことができるのです。こうして動きが生まれます。同氏は「気付きの能力」は「動きの能力」を使って育てるのだとも言います。さて聖書の場面に戻りましょう。12章5節、6節、11節には「そこへいかなければならない」、「そこに携えて行きなさい」、「持って行かなければならない」。これらは「動き」です。これを誘発するのが27節における「気付き」の部分です。血を見て奉納者(礼拝者)は「これは私の罪のせいで流される血だ!」と気付かなければならないのです。気付いたものが動くことができるし、動く者こそ真実に礼拝をささげた、と言えます。

聖い食べ物のみを食べなさい

 14章3節以降に汚れた生き物についての記述があります。私は個人的にはイスラエル人でなかったことに感謝します。豚カツもお寿司も好きですから。ところでこの規定については研究が不十分で真相についてはまだよく分かりません。しかし衛生律法であって、これを遵守したイスラエル人は周囲の民族に比べて非常に衛生状態が良好であったことは確かです。一つだけ具体的に指摘すれば豚にはサルモネラ菌がいて、生のままで食べれば危険です。少なくともこの規定は一つの重要なことを教えています。悪は外からやって来た、ということ。創世記3章の堕落物語を思い出してください。神さまに創造された人間にはなんら問題点はなかったのです。立派な作品でした。したがって問題は外からやって来たのです。しかしアダムとエバの堕落以降は内側から外を汚すのです。

 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:18-23)

 ではどんな汚れが私たちの中にはあるのでしょうか。どんな汚れた食べ物が胃の中にはあるのでしょうか。それは自分への否定的な思い。横浜寿町(通称ドヤ街と呼ばれる所)にある寿福祉センター職員の村田由夫さんは『良くしようとするのはやめた方がいい』の中でアルコール依存症の人たちとのかかわり合いの中で、彼らが一向に良くならない中で徒労感や疲労感に苦しみ、自己変革を迫られたと告白をしています。「良くしよう」と思うのは、「良い自分」がいて、それゆえ「良くない人」を「良い自分」の崇高な努力で変えようとするのだが、マイナスにしか働かなかったというのです。そのような考え方を「究極の病気」であり、「先生病」だと言うのです。しかしこのような印象を持つのは私だけでしょうか。すなわち私たちの周囲は「私を変えよう、変えよう」としている人たちばっかり。きっと私だけの印象ではないのではないでしょうか。私たちはそういう圧力に常にさらされているのです。そして変われない私たちは劣等感や嫌悪感や屈辱感を心の中に生み出し、自ら苦しむのです。雑誌『タイム』のある号に失業者の心理についてのエッセイが載っていました。内容は次のようなものでした。「失業者はいままで務めていた会社から『あなたは不必要です』と言われた人たちである。ゆえに『私は不要な、不用な人間なんだ』という意識に苦しんでいる」。これらが先に述べた汚れた食べ物です。
 聖い食べ物とは次のようなものです。「私は神さまに愛されている、私はかけがえのない存在だ、私はオリジナルな存在であって、コピーではない。私は神さまの手になる立派な作品だ」。どうか悔い改めてください。あなたの中に汚れたものがあるならそれを捨ててください。あなたは「いつも幸せ!」と言えるでしょう。

宗教的な義務を果たしなさい

 宗教的な義務って何でしょうか。決して難しくはありません。人を喜ばせることです。なぜ人を?マタイの福音書25章31節以下をお読み下さい。

 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

 特に45節は重要です。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』。

 人への行動はイエス・キリストへの行動です。したがってその報いは大きいのです。

 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒の働き20:35)

 フランスにエンマウスというピエール神父が1950年代に始めた共同体があります。絶望した人たち、孤独な人たち、ホームレスなどを収容しています。彼らはそこで仕事をしますが、それによって得た金銭や製品を同じような境遇にある人たちのために用いるのです。するとがぜん顔つきが変わって来ます。与える者は受ける、それは本当です。

 14章22節にはこれを実践するための原資としての十一献金の規定が示されています。具体的には27節で当時の公務員であったレビ人への給料支払い、29節では孤児、未亡人、外国人ら社会的弱者への福祉です。十一献金はあなたの心はどこにありますかのテストです。
 あなたの宝のあるところに、あなたの心もある(マタイ6:21)からです。どうか神さまを一番にしてください。私たちは朝起きたときにまず最優先にだれに挨拶をすべきでしょうか。讃美歌第二編26番にこのような歌があります。題名は『ちいさななごに』

 1 小さなかごに花を入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ちあふれ、暗い胸も晴れるでしょう。愛のわざは小さくても神の御手が働いて、悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう。

 2 「おはよう」との挨拶も、心込めて交わすなら、その一日お互いに、喜ばしく過すでしょう。愛のわざは小さくても神の御手が働いて、悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう。


 私たちは確かに人に向って挨拶をするのですが、あまりにも人を見過ぎてもいけません。人の向こうに神さまを見るべきです。その神さまに丁寧に挨拶をまず、すべきです。こうしてあなたは、いつも幸せ、です。