375 たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても

 ●聖書箇所 [詩篇23篇]

 この詩篇は小鳥のように最も美しい歌を歌いながら地上を高く低く飛んで行く。これはこの世のすべての哲学にも増して悲しみを慰める魅力を持っている。それはあなたの子供たち、わたしの子供たち、そして世の人々の子供たちへと世の終わりまで歌い続けられるであろう。やがてその業をなし終えて神のみもとに飛び帰り、翼をたたみ、この詩が導いた人々の楽しい合唱の中に歌い続けられるであろう。(『聖書ハンドブック』ハーレイ)

 有名な詩ですね、これは。そのまま素直に読んで意味の分かる作品でしょう。表題はダビデ(が作った)神を賛(える)歌。このように読めばいいのです。ダビデが晩年に自分の人生を振り返って、簡単に言えば、神さまは私に対して真実であったと告白した内容です。 
 特に6節の「恵み」はヘブル語ではヘセドと言い、「契約に基づく誠実」を表します。つまり神さまは私の必要を満たしてくださると約束して下さったけれども、その通りだった、と言っています。

 5節の「食事」も「油」も祝福の、そして「杯」は人生の代名詞です。ダビデの経験から三つのことを学ぶ事ができます。

苦しみはあなたという人間を大きくします

 大きい人は魅力です。なぜ?大きい信仰を持つ事ができます。では信仰って何?それは夢を実現する手段。あなたには夢がありますか。きっとあるでしょうね。とってもいいことです。私にもあります。と言うよりも「いつでも、ゆめエーヲ〜♪」の気分です。こういう歌が以前ありましたねえー。
 ダビデは音楽、文学、武芸に達者な人でした。これらは背後に広い世界が広がっているはずです。単に鼓膜に聞こえて来る音やいくつかの文字が世界のすべてではないはずです。たとえば俳句。凝縮された非常に短い単語の中に広く深く高い世界が見えるはずです。ダビデは夢を見る人であったことは明らかです。このような夢を描きつつ、「そうだ!その通りになる!」と心底から信じることができる時、信仰が生まれているのです。信仰が生まれればしめたものです。そうです。夢は現実のものになったも同然です。しかしこういう疑問が時々提出されます。「私の夢はどうして実現しない?」と。それには理由があります。信仰ではなく、単なる欲望や野望だからです。ダビデはこのことでは非常に苦しい思いをしました。忠実な部下ウリヤの妻バテシバを寝取った事件です。はじめは「この程度のことは王ならだれでもやっているー!」と思って、気にも留めなかったのですが、預言者ナタンに指摘されて、罪に気がつき、恐ろしいたましいの苦しみにうめきます。事件の詳細はサムエル記第二11章1節以下をお読みください。彼の苦しむ様子は詩篇51篇に表現されています。特に10ー13節をお読みください。苦しんで苦しんでついに彼は悔い改めます。自分の失敗を認めます。神さまは彼を赦してくださいました。彼は苦しみました。でもこの一件が彼の人物を大きくしたのです。あなたにも苦しみの時がありますか。きっとありますね。神さまは確かに生きておられます。寝ているわけではありません。杖(4)が用意されていることを知ってください。あなたの人生に中にあるのはむち(4)だけではありません。むちとは自己嫌悪感であり、罪責感であり、自虐意識であり、絶望感です。イエス・キリストはこれらのむちを自らに負われました。三日目によみがえられました。あなたもイエス・キリストにあって新しく生きてください。それはできることです。

敵は友としてあなたに祝福を運ぶ

 5節は敵がやって来ても神さまは守ってくださる、とも読めますが、敵がいるからこそ神さまの下さる恵みは輝きをいっそう増す、とも読めます。たとえば空腹時に食べるものは何でもおいしいように。それでも確かに敵が来れば苦しいことは事実でしょう。私は以前営業をしていました。花の営業です。いろいろなことを学ばせてもらいました。足を踏まれたら、「ごめんなさい!」と謝らなければなりません。なぜ?さあ、なぜでしょう。理由を言いましょう。相手の方が足を置こうとしたら、私が不粋にも自分の足をその場所に無断で置いてしまったからです。お分かりでしょうか。それとも納得が行きませんか。正直に言いましょうね。私ははじめ納得が行きませんでした。「どうして、なぜ、被害者が謝らなければならない!?」と。でもだんだん分かって来ました。雨が降れば、「喜びなさい」と教えられました。なぜ?ライバルが少ないから。土砂降りの雨のときは「もっと喜びなさい」と教わりました。なぜ?ライバルがもっと来ないから。上から下までびっしょりの姿を見て、何も感じない人はいないでしょう。こうして注文は取れます。私はこれらのことを宝物にしています。するといじわるな人はどうなのでしょう。雨と同じです。箴言27章17節を見て下さい。鉄と鉄が触れれば火花が散ります。火は聖めてくれます。私たちは磨かれます。私も確かにいじわるをされた経験はあります。でもその人は私を磨いてくれた、という意味において敵ではなく、友です。私に祝福を運んでくれた友です。ダビデは先王サウルからねたまれ、いのちをつけ狙われました。何度も槍を投げ付けられました。そうして彼は磨かれ、強くされて行きました。そうです。あなたにいじわるする敵は敵ではなくて、友です。お分かりでしょうか。理性的にはお分かりですね。でもー感情が素直にうなづきません。そうなんです。これが私たち人間の弱さです。でもこれを克服できるようにしましょう。それは理念を持つことです。詩篇23篇は内容的に1ー5と6節の二つの部分に分割することができます。さあ、質問します。それぞれ何をその内容としているのでしょうか。後半は前半を擁しての決意表明、そして前半はダビデの理念です。私たちの勝利教会にもあります。少し紹介しましょう。

 勝利教会の理念……1、2、3個人を尊重→会員ひとりひとりの尊厳を、すなわち個人の人格とその持つ賜物・能力を尊重します。神は人をご自身のかたちに創造されたからであり、ひとりひとりの持つ賜物・能力は神にその起源と所有権とがあるからです。具体的には教会およぴ指導者は自ら成長しようとする会員がその賜物・能力を最大限に発揮できるよう……工夫します。……4愛を追求→私たちは勝利教会が優れたキリスト教会として神から、他の教会から、そして歴史と社会とから高く評価されることを望みます。そのためには私たちのあらゆる行動と職務が本物の愛から生じるものでなければなりません。……5、6。

 あなたの家庭人としての理念は何ですか?職業人としての理念は何ですか?私は総理大臣が所信表明をするたびにどんな理念を、つまり「私はこのような新しい日本にして行きます。変えて行きます」というものを話してくれるのを期待しています。ただし残念ながら、いつも期待外れですが……。もし自分で納得の行く理念があるなら、すべての敵が友であると認識ができます。いかがでしょうか。23篇はダビデの理念です。それが1ー5節で表現されています。

地上の人生は天上の人生の助走です

 天上の人生こそ愉しみにしなければいけないものです。そこには何があるのでしょうか。それは本物の愛。

 ぼくの秘密を知りたい?ちっとも難しいことじゃあないんだ。この世には目には見えなくても、心で見える大切なことがあるってこと!(アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ)

 目には見えなくても、心で見える大切なことって何でしょうか?それは愛。

 人類が空間、風、水、地の力を自由に使いこなせるようになった時、今度は愛の力を神のために使う日がやって来る。そしてその日こそ、第二の火の発見日となるだろう。人類の新しい歴史が始まるのだ。(テイヤール・ド・シャルダン)

 エヴェレストの頂上を目指し、ついに帰らなかったイギリスのマロリーが「なぜ山に登るのか」と聞かれた「そこに山があるからだ」と答えたのは有名な話ですが、南極探検で有名な村山隊長は「そこ南極点があるからだ」とは言いませんでした。彼はこう答えました。「私たちは人間であるからだ」。そうです。私たちは人間であることのあかしとして愛するのです。机と椅子が愛しあったとは聞きません。人格にのみ愛は存在します。愛は人間であることのあかしです。愛を私たちは実現しようとして生きています。家庭において、友人たちの間において。ただしこの地上においてはそれは完璧さに達する事はありません。ゆえに私たちは天国に期待します。天国では愛が完全な姿で私たちの前に表れます。その中を私たちは行きます。この希望が日々の地上の生活を元気なものにしてくれます。やがてイエス・キリストは空中に表れて、そのときキリストにあってすでに死んでいた者は生き返らされ、生きている者は新しく変えられ、天国へと案内されます。愛することに努力を重ねて来た私たちはそこで感激の涙を流すのです。どうか天国人として選ばれたことを信じてください。そのあかしはあなたがイエス・キリストを救い主と信じることができたことです。天国目指してあなたは人を愛し、自分を大切にし、神を愛するのです。すべてのことが報われます。ダビデはこう言います。

 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6)