380 今、あなたから歴史が

聖書箇所 [イザヤ書51章1ー3節。創世記12章1ー2節]

 イザヤ書51章1節の「あなたがたの切り出された岩」がアブラハム(「掘り出された穴」は彼の妻サラ)であることは明らかです。今回はアブラハムについて学びましょう。私たちがアブラハムについて学ぶことにはどのような意味があるでしょうか。実は、私たちがアブラハムについて学ぶことは私たち自身を学ぶことです。こういう言い方があります。「先祖の性質は子孫の中に存在する」。あなたもきっとうなづかれると思います。子は実に親に似るものです。アブラハムの中にあなたがいます。さて、アブラハムに対する主の(少なくとも聖書という記録に残されている)初めてのご命令は創世記12章1節以下です。初めてであるだけに、記念碑的なおことばです。日本語では「あなたは……」と、冒頭のことばがこのようですが、原語のヘブル語では「出て行きなさい……」です。レフ・レハーです。レフは動詞の命令形で「出て行きなさい」、レは前置詞で「〜へ(に向かって)」、ハーは人称接尾辞で「あなた」です。直訳すると、「あなたへ(に向かって)出て行きなさい」です。よく分からない文章です。そこでいくつかの考えられる可能性を調べて、この記念すべきおことばの意味を訪ねましょう。

あなた自身の為に

 「あなたにとって利益になることだから行きなさい」の意味です。どうしてこのようなことを言えるかと言いますと、動詞の命令形+前置詞+人称接尾辞というセットは、相手の利益になることを言う場合に使うからです。現代ヘブル語でも同様だそうです。神さまのアブラハムに対する配慮には頭が下がりますね。私たちはとかく正しいことだからと、そのまま表現して相手に求めてしまうことがままあるのではないでしょうか。TPOをわきまえるのは愛でしょう。でも、そうは言ってもアブラハムにとって悲しいこと、辛いことであることには違いがないでしょう。いままで慣れ親しんで来た土地から離れます。友人たちからも親類からも。でも目先のことに捕らわれるな、というメッセージです。悲しみの先にある恵みを見よ、と主はおっしゃっておられます。
 
 救世軍の創始者ブース対象は神学校の卒業式で次のように言いました。

 「諸君。諸君を一度地獄に連れて行って、悲しみと苦しみとを見せたい」。

 卒業生たちに福音を伝える熱意が十分にあるとは認められなかったのでしょうか。悲しみや辛さの先に立派な使命を認識してほしかったのです。いま、あなたにも悲しみがありますか。でもその先に神さまはあなたを愛して祝福を用意してくださっていることを覚えてください。

あなたが行け

 これはまったくそのままです。「さあ、出て行きなさい!」。これを実行するとそこには何があるのでしょうか。神さまに近付けます。私たちは神さまに近付きたい欲求を持っているものです。心に神さまを感じたい、力を感じたい、といったように。神さまに近付く方法はたった二つしかありません。「おーい、神さま、こっちへ来てくれ!」と叫ぶのが一つ。お分かりでしょう。偉いお方に対する仕方としては礼儀に欠けます。神さまを呼びつけた段階でもはや相手は神さまではありえません。神さまでなくなっています。意外に少なくない人がこのようなことをするのです。自分は動こうとしません。変わろうとはしません。神さまは人間のしもべではありません。もちろん神さまは人となって私たちの世界に来てくださいました。十字架にまでかかってくださいました。でもこれは神さまのボランティアであって、神さまが自主的になさった行為です。一介の人間が要求できることがらではありません。私たちは自らへりくだって、腰を低くして赴くべきです。出ていくべきです。わがままを強情さを十字架に付けて、出ていくべきです。あなたは神さまと限り無く近くなるでしょう。ヘブル語で捧げものを指す「コルバン」(マルコ7:11)は本来「近付く」意味です。あなたは神さまに近ければ近いほどあなたは力を帯びます。

あなた自身で行け

 たった一人で決断せよ、の意味です。もちろん神さまの前で。創世記22章2節に一人子イサクをささげる試練に会っている場面のアブラハムがいます。ここにも「行きなさい」レフ・レハーがあります。こんな重要な場面でもアブラハムはイサクにも連れの者たちにもこの旅行についていっさい知らせていません。アブラハムにとっては彼一人の問題であったからです。大人と子どもの違いは何でしょうか。大人は自分一人で決断できますが、子どもはそうはできません。これが違いです。
 クリスチャンにも大人と子どもがいます。神さまはこうおっしゃっておられます、「アブラハム、大人として、自分自身で責任をもって決断をするんですよ」。もしあなたが同じように振る舞いなさるならあなたは内側に全能の神さまを体験なさるでしょう。私の中に「全能の神さまがおられる」と。そのとき、周囲が変わります。なぜならあなたが変わったから。

 小学校で二つのグループをそれぞれ、二人の先生が担当しました。一つは知能指数が大変高い、もう一つは平均もしくはそれ以下とそれぞれ説明されました。数カ月後、結果が出ました。あなたには予想がおできになると思います。前者は優れた成績を残し、後者はそうではありませんでした。種明かしをしましょう。二つ共にまったく知能指数は同じでした。先生の見方がただ一つ違っていました。

 大学でねずみを使った実験がなされました。天才的、平均、劣るという三つのねずみのグループが用意され、それぞれ担当の学生たちが迷路を通過できることを競い、そのために訓練と練習の時間がありました。天才的なねずみを担当した学生グループは先生からはじめに次のように言われました。「あなたがたのねずみは次々に走破すると思うので、ごほうびのチーズをたくさん用意しておいた方がいいですよ」。さあ、実験が始まりました。どんな結果だったでしょうか。もちろん、と言った方がいいでしょうか。天才ねずみが一番良い成績でした。でもあなたにお尋ねします。天才ねずみなんていると思いますか。そうです。全部、同じねずねでした。違いは学生たちの思い、心、考えです。もしあなたが、「私の中には全能の神さまがおられる」と確信を持っておられるなら、世界は違って見えるでしょうし、実際に変わって行くのです。どうか、信仰的な体験を大切にしてください。「私は愛されている」という思いを大切にしてください。日常の中に神さまは現れてくださっています。

あなた自身の中を行け

 あなたの中の宝石を発見せよ、の意味です。神さまの手になるすばらしい作品として、あなたの中にはいくつものすばらしいものが与えられております。信じますか。アブラハムはいくつもの試練を経験しますが、一つの興味深い点は、試練を経た後に、「信仰の父」とか、「義人」とか呼ばれていることです。試練以前はただの人です。試練が彼の中の宝石を輝かせました。磨いてくれました。

 人を英語ではpersonと言いますが、ラテン語に起源があります。personaです。perは「〜を貫いて」、sonaは「鳴る」。つまり人はその中において鳴るものです。あるいは輝くものです。ベートーベンは30歳で耳が聞こえなくなりました。でもこう言ったそうです。「体の耳は使えなくても、心の耳は使える」。「月光」など優れた作品の多くは耳が聞こえなくなってからのものです。
 試練に感謝しましょう。あなたは輝きます。結局、アブラハム伝から何を学ぶことができるでしょうか。アブラハムの登場以前と以降とでは神さまの人へ関わり方に違いがあります。以前が厳しいものがありますが、以降はアブラハムの顔に免じて穏やかなのです。アブラハムから歴史が始まっています。アブラハムの中にあなたがいるなら、あなたから歴史が始まります。あなたに、今、すばらしいことがおきます。どうか、そのためのきっかけを逃さないようにしてください。神さまは今も生きて働いていらっしゃいます。

 中学校の先生が2、3人の生徒が騒ぐためにクラスが荒れて荒れて困惑していました。ついに一つのアイディアを思いつきました。近くに小学校があって、低学年の一つのクラスに彼ら中学生を読み書きの助手として送り込む、というものでした。事情を理解してくれた小学校の担任は受け入れてくれました。しぶしぶでしたが、中学生たちは小学校へ出かけて行くようになりました。ある日、浮かない顔をして中学生の一人が教室に入って来ました。「どうした、顔色が悪いぞ。何だったら、今日、小学校へ行くのは休んでもいいぞう!」と先生が言うと、とんでもないといった顔をして、こう言いました。「おれを待ってる子たちがいるんだ。休めるわけがないだろ!」。そしていそいそと出かけて行きました。彼らの服装もことばづかいも態度も変わって行きました。新しい歴史が始まったのです。