381 神に思い直していただく方法

聖書箇所 [各段落ごとに表示]

 ユダヤ人の間にカパロットと呼ばれる習慣があります。一月(と言っても、太陽歴では9ー10月)10日の贖罪日に先立ってなされるもので、鶏を頭上でぶんぶん振り回すものです。贖罪日はヨム・キプールと言いますが、キプールもカパロットも同一の語源を持ち、その意味は「覆う」です。鶏は神殿時代の犠牲を意味し、従って「神さま、私の罪を覆って、それを見ないようにしてください」、すなわち「祝福ある人生の歩みを与えてください」という、人々による叫びと言うことができます。今日、イエス・キリストという本物の犠牲による贖罪こそ大切なことであると私たちは理解できます。ところでみなさんの中には私の人生の運命はあまり良いものではないなと思っている方もいらっしゃるかも知れません。そのような方々は、私たちの人生のすべてが神さまの御手の中で生起するとするなら、もっと祝福を受けるために「ぜひ神さまには私の人生を考え直していただかなければならない」とお思いになるでしょう。今回は神さまに思い直していただく方法をご紹介しましょう。

施し[箴言10章2節]

 「正義」と訳されている語は「施し」とか「与えること」とかに訳すことができます。神さまはあなたに良いものをいくつも与えてくださっていますので、それらの一部を他の人たちと分かち合いましょう。

 インドにサンダー・シングという有名なクリスチャンがいました。彼には次のような逸話が残っています。ある雪の日、彼は友人とともに道を急いでいました。しかしますます雪が深く、寒さも増して来て、不安感が二人を襲っていました。ふと前方に何かが見えるではありませんか。近付くと人が一人倒れているではありませんか。抱き上げるとまだ息があります。彼は助けたいと思いましたが、友人は「自分が助かるかどうかというときに、他人のことまで考えられない!」と言い、さっさと先に行ってしまいました。しばらく行くと、また人が雪の中に倒れていました。先の友人でした。サンダー・シングを助けたのは彼が助けた人の体温でした。与える者は与えられるものです。与える者は心も豊かになります。

 アメリカにドナルド・カーチス牧師がいます。彼がある日曜日にした説教を一人の女性が聞き、大変感動し、後日次のような手紙を彼に書きました。「先生、あの説教には大変励まされました。大変僭越かとは思いましたが、先生の説教を出版されてはいかがでしょうか。もしよろしければ使者に先生のお宅へテープを取りに行かせ、タイプに打ってお返しいたします。いかがでしょうか」。先生はこれは願ったりとばかりに、二つ返事で早速このやり取りを始めました。なんと言っても感心したのは、何千字にも及ぶ原稿の中で一字たりとも誤りがなかったことです。こうして一年が過ぎました。先生が一度会いたいものだと思っていた頃、次のような手紙が届けられました。「先生、一度、自宅へご招待したいと願っております。ご都合はいかがでしょうか」。さっそく先生は会いに出かけました。玄関にはいつもの使者が迎え、奥の部屋に案内されました。そこには車椅子にすわった女性がいました。生まれつきの病気で痙攣製麻痺と言うのだそうです。両足にそれぞれ両手が縛り付けられ、足の指でタイプを打つ様子を先生はそのとき初めて見ました。先生がお礼をしたいと考えているとき、彼女はこう応答しました。「お礼など要りません。私にはこれをさせていただけるだけで大変感謝です。とっても心が平安になるのです。私の方が感謝をしたいのです」

 与える材料もさまざまでしょう。時間、才能、金銭、体力など。もしあなたの中に与えたいという気持ちがあれば、どうか素直な気持ちでそれをなさってください。神さまはあなたに対する取り扱いを変えてくださるでしょう。そしてあなたはそれを感じることができるでしょう。

叫び[詩篇107章28節]

 これはお祈りのことです。あなたはどのくらい熱心に祈り求めなさるでしょうか。叫ぶような求め方をなさるでしょうか。あなたのその熱意に神さまのお心は動かされます。私は勝利教会を路傍伝道によって始めました。生まれて初めてしたときは非常に恥ずかしかった、という記憶が残っています。もともと人前で話すことが苦手でしたので、よけい苦痛がありました。でも私の中に沸き上がるものがあり、それを私ははっきりと感じていました。結局大きな声で叫ぶことをする中で、私も立ち止まってくださった方々も変身して行きました。

 もっとも変えることの難しいのが自分自身であるとはよく言ったものですが、私はこの経験を感謝しました。あなたも叫んでみませんか。大きな声で訴えてみませんか。神さまの耳は遠くない、という言い方もありますが、それを口実にしない方が賢明です。叫ぶ必要があるのは神さまの方ではなくて、私たちの方ですから。大きな課題であればあるほど、あなたは叫ぶべきでしょう。ポール・ツールニエはこういます。「冒険本能は、安全本能よりも勝って人間の本能ではないだろうか。それにしても多くの信者がこの冒険本能を持たないのはなぜなのだろう。彼らはただ教えられたこと以外を想像することもせず、観察するように言われたこと以外理解しようとしない」。大胆に求めましょう。

改名[創世記15章5、15節]

 聖書の考えでは名前はその人の本質を表します。アブラムは「父は崇められる」、サライは「私の王女」(これはかつて流行った『(マイ)ダーリン』のようなイメージ?)の意味です。それぞれアブラハム「多くの国民の父」、サラ「王女」へと改名するように求められました。いずれも大出世です。神さまは彼らをスケール大きく捉えてくださいました。すなわち改名はその人の本質を変えることです。私たちの本質って何でしょうか。孤独になると経験することが多いのではないかと思いますが、精神的なバランスを崩して否定的になったり、被害妄想的になったり。生まれながらの私たちは罪の汚染により、「すべては良かった」(創世記1:31)はずなのに……。いったいどうした?と言いたいところです。思いを変える必要があります。積極的なものに、肯定的なものに。

 ロンティボーピアノコンクール(1998年)で第二位に選ばれた梯剛之さんがNHKテレビで演奏したのを私は聞きました。彼は全盲です。でも彼が奏でる音楽の美しさに私は倒されました。なんと、美しい!人間の中には美しいものがあります。当然です。だって「神の作品」(エペソ2:10)ですもの。「神の作品」であるあなたはいつも前向き、常に積極的、であるはず。
 少年たちが野球をしていました。それを見つけた人がベンチに座っている、明らかに守備側のチームと一員と思える少年に聞きました。「何対何?」「0対14」。ところがちっともがっかりしていません。彼は不思議に思って「負けてるんだろ!?」と確認しました。すると「まだ、僕たち、一回も攻撃してないんだ」とにこにこしながら言いました。このような思いを私たちの本質にしたいものです。

行いを改めること[ヨナ書3章10節]

 21月10日の贖罪日までに人々は何をするのでしょうか。ただ鶏をぶんぶん頭上で振り回せばいいわけではありません。お詫びに出向きます。ただ口先だけで「ごめんなさい」と言うのではいけません。行いが伴わなければなりません。一万円借りていれば、忘れていてすみません、と言うだけでは済みません。実際に返さなければなりません。ある人たちは周囲の人々が行動してくれることをひたすら待つ習性が身についてしまっています。期待通りに行動してもらいたいのです。でも永遠に期待通りには行動してはくれないでしょう。永遠にがっかりするだけです。自ら行動すること、出向いて行くこと、いままでとは違った思いになることが大切です。そうであってこそ神さまは思い直してくださいます。

 もうあなたにはお分かりでしょう。思い直すべきは神さまでなく、あなたです。あなたが思い直してください。あなたの人生は変わります。
 息子さんを亡くし女性が毎月霊園に高額なお花代を送り続けていました。彼女は入院していました。霊園の管理人はある日、立派な車がやって来たのを目にし、もしかするとあの方かも、と直感しました。その通りでした。見ると運転して来た人に抱きかかえられるようにして車から降りて来ました。顔は死人のように見えました。聞くと「あと、数カ月の命」とお医者さんに言われたので、最後にもう一度息子さんのお墓を見ようとやって来たとのこと。立派なお花で飾ろうとする彼女を見て、管理人は思わず言いました。「私は教会の奉仕活動の一環としてお見舞いに来てもらえない人々や刑務所に入っている方々へお花を届けています。彼らはとっても喜んでくれます。なぜなら彼らは生きているからです。でもお墓には生きている者はいません。生きている人のためにお金をお費いになったらいかがですか」。彼女は一瞬、驚いた顔をしてその場に立ちすくみました。何時間もそこにしました。さすがに管理人も言い過ぎたかなーと後悔しました。やがて車の中に彼女は消え、何ケ月かが経過しました。車が霊園に入って来ました。彼女が自分で車を運転して来ましたが、彼はまったく気がつきませんでした。まったくの別人に見えたからです。彼女は言いました「私はあなたのことばをあれからずうーと考えました。そしてあなたと同じことをしてみたんです。なんと、多くの人に喜ばれました。ありがとうございました。私は、今、うれしくてうれしくてたまらないのです。お医者さんはなぜ、私が回復したのか分からないとおっしゃっています。でもとにかく、私は「ほぉら、こんなに、ぴんぴんしているんです」実に血色のいい顔でした。