382 神の前へ、もう一歩前進

聖書箇所 [レビ記8章]

 信仰生活や教会生活には人それぞれ温度差があります。私は20歳前後に教会に通い始め、信仰について「少し分かったかなあー」という頃から、教会に入り浸っていました。ただし誤解をしないでください。教会に長くいることが良いこととは必ずしも言えません。なぜなら他の世界との接触時間が減少するからです。要は真の喜びが内側から沸き上がって来て、生きることが充実しているか、です。喜びが重要な要素です。ところでこの喜びを決めるのは何か。

 それは、あなたの神さまとの距離です。あなたの、です。他の人の、ではありません。ちょうど恋人同士のようなものです。いつも近くにいたい、長い時間、ともに過ごしたい。互いに良い影響を暖かい気持ちを育みます。さあ、あなたの神さまにもう一歩前進、もっと近付きましょう。

 レビ記8章は大祭司の行う儀式を説明した箇所です。大祭司はアロン、預言者モーセのお兄さんです。今日イエス・キリスト(大祭司であられ、神さまのおことばそのものであられます)がおられ、完全な形であなたと神さまとの間を仲人してくださっております。ここのところが重要です。私たちはイエス・キリストにあって神さまと直接コンタクトできます。これはプロテスタントの真髄です。カトリック教会にに反抗した宗教改革の当時、プロテスタントの主張はこうでした。「救いは神さまからイエス・キリストを通して人は直接いただける」。救いは教会から受け取るものではない、イエス・キリストから、と聖書の真理を再発見したのが宗教改革でした。大祭司の行う儀式はこの真理を教えようとする、当時のイスラエル人に対する視聴覚教育でした。

水による洗い(6)

 はじめに大祭司も祭司たちも水で全身を洗ってもらいました。ペテロなら「シャンプーはどこにありますか?」などと質問したかも知れません。これは儀式ですから、中身の重要性を教える行為です。つまり聖め、です。「あなたは聖められていますか?」、とお尋ねしてもいいでしょうか。私たちの中には罪があります。ねたみや憎しみなど。これらを正しく処理しておられますか。正しく処理するとは、悔い改めることを指します。悔い改める人には独特の雰囲気が漂います。聖さであり、周囲の人々を変えてしまう迫力があります。逆に「私はいつも義だ!」と主張する者は悪臭を放ちます。残念な話をしなければなりません。

 インド独立運動の指導者であり、無抵抗主義を貫いたマハトマ・ガンジーは若い頃、南アフリカのプレトリアで信仰を求めて、教会に通っていた時期がありました。彼の下した結論はこのようなものでした。「教会とは社交場のような所だ」。

 毛沢東は中国が荒廃している時代に生きていました。政争は限り無く続きそうでした。彼は希望を得ようと教会を尋ねました。しばらく通いました。でも「教会は冷たかった!教会には中国を救う力はない」と結論を下しました。

 彼らはともに二度と教会には戻って来ませんでした。私はこの話を聞いて非常に残念に思いました。私たちは悔い改めることによって聖い神さまにもっともっと近付いて、自分をも、いかなる人をも変える力に預かろうではありませんか。出エジプト記28章15ー21節を見ますと大祭司が着るエポデと呼ばれる、チョッキのようなものの中心には、すなわち胸の部分にあたりますが、12個の宝石が縫い込まれていたことが分かります。これはイスラエル人12部族を表し、大祭司はイスラエル人を代表して神さまの前に出ていました。一つ一つの宝石はイスラエル人一人一人が単なる石ころではなくて大切な光り輝く、かけがえのない、オリジナルな存在であることを印象づけています。今日、イスラエル12部族はすべてのクリスチャンを指しています。あなたはイエス・キリストという大祭司に常に執り成され、聖められています。

着衣(7-9)

 祭司の服装は制服でした。大祭司のものと違う点はその輝きでした。出エジプト記28章2、5、6節をお読みください。非常にきれいなものでした。それらの色にはそれぞれ意味があり、金は純粋さや完全さ、青はへりくだり、紫は偉大さ、緋は赤で血や犠牲を表します。 
 文章にしてみましょう。大祭司は完全な純粋さをもってへりくだり、それゆえに偉大さは賞賛され、その証として犠牲の最高峰である命、すなわち血を流された、となります。もうお分かりでしょう。イエス・キリストのあがないを表しています。そしてイエス・キリストが私たちの人生の、生き方の模範であるなら、見習わなければなりません。レビ記8章35、36節をお読み下さい。行うことが大切です。しかし私たちには行なえない、正確に言うと十分に神さまの基準を満足させられない。弱さを持っています。でも構わないのです。不足分はイエス・キリストが補ってくださいます。あなたはただできる範囲で正しいことを、あるいは人を愛し、神さまを愛すればいいのです。
 イエス・キリストは黄金律をお教えくださいました。マタイの福音書7章12節をお読み下さい。ただ単に「迷惑をかけないように生きる」ことは価値の低い生き方です。実際、私たちはテレビの映像において「ご迷惑をかけて大変申し訳ありませんでした」と頭を下げる場面をいったい何度見せられたのでしょう。そして一つ分かったことは頭を下げても何一つ変わりがない、こと。いかにつまらない生き方であるかを証明しているでしょう。もっと積極的に人が望むことをしてあげることが大切です。ただし勇気がいるのです。失敗や誤解されることや不足することに、自身を失い、自己嫌悪感に悩むことがあるからです。だからこそイエス・キリストの存在があなたにとって意味があります。勇気をもって正しいことに励みましょう。神さまはあなたを祝福してくださいます。あなたは神さまに向かって一歩前進し、明らかに近付いているのです。あなたは神さまのご臨在を強く強く感じるはずです。

油注ぎ(10-12)

 モーセはアロンの頭に油を注ぎました。油は聖霊を表します(イザヤ61:1)。ところで人間に油を注ぐのは理解できますね。任職の意味もありますが、同時に罪ある人間は聖められる必要があるからです。では祭壇にも注がれるのはどのような意味があるのでしょうか。それは私たち人間を取り囲む環境も罪に汚染されているからです。その証拠に台風やら地震やらがたびたび私たちを苦しめます。自然界も罪に苦しんでいます。私たちは私たちを取り囲む環境の力に負けそうになります。あなたはいかがですか。
 「どうして、私にこんな悪いことが起きるの?」と不思議に感じることはありませんか。理不尽、やりきれなさが残ることが。赦せない思いが思いの中を行ったり来りとか。こんな時に聖霊さまがあなたを助けてくださいます。

 1950年代、南アフリカに5人の男性宣教師が福音宣教に出かけました。目指すは獰猛で知られたアウカインディアン。案の定、全員が殺されてしまいました。彼らの中の一人の妻エリザベス・エリオットは小さな娘と共に夫と同じ道を進みました。一生懸命に福音を伝える彼女にアウカインディアンは心を開き、ついにバプテスマの日を迎えました。その日、川でバプテスマを受けたのは彼女の夫を殺した青年でした。どんなにか辛い葛藤があったことでしょう。でも聖霊の力は不可能を可能にします。聖霊の力はそれを求めるあなたの中に働き、そのときあなたは神さまの中に、あなたの中に神さまはおられます。なんという近さでしょうか。

いけにえの食事(22-24、31-32)

 23節をご覧下さい。耳とはすなおさ、手足は行動を表しています。血を塗ることは、それらにもあがないが必要であるとのメッセージです。もしこのメッセージを尊重するなら、すなわち素直に聞いて信じて実行するなら、その人はおいしい食事にありつける、と教えます。親指は力を意味します。手足の親指は力ある行動を意味します。31節は煮る、と書いておりますので、すきやきみたいな印象を受けます。しかしパンと共に食べるのですから、ラムバーガーと呼んでもいいかも知れません。チキンバーガーでなく、ライスバーガーでなく、チーズバーガーでもありません。ラムとは雄羊のことです。あなたの人生はみことばに対してすなおに従うこと、および行動することを通して祝福されると教えています。 ここまで学んで来て、「なあーんだ、こんなこと、やさしいことだ!」という印象をお持ちでしょうか。その通りです。平凡な提案です。でもここのところが大切です。
 ある教師は生徒たちの反抗にいつも悩まされていました。こう言うからです。「先生、どうしてこんなこと、覚えなくっちゃーいけないの!?」。確かに一理ある言い分ではあります。彼はこういう話をしました。
 羊飼いたちが野宿をしていました。すると突然一条の光が差し、彼らはきっと「あっ、神さまだ!」と思いました。案の定、声が続けて聞こえて来ました。彼らは息をのみ、何か深遠なことが告げられる、と予感したとき、声はこう言いました。「あなた方の周りにある小石をできるだけ多く拾い、袋にしまって持っていなさい。明日の夜、あなたがたは喜び、またがっかりするだろう」。彼らはがっかりしました。ぶつぶつ言いながら拾いました。次の日の夜、彼らは袋を開けてみました。なんとあの小石がダイヤモンドになっていたのです。彼らは喜び、また悲しみました。「あー、もっと多く拾っておけば良かった!」

 あなたの生活に神さまのご臨在を祈ります。もう一歩前進して、神さまを強く感じられるように祈ります。