398 殻(から)を破れ

 ●聖書箇所 [ピリピ人への手紙4章4ー7節]

 トマス・ア・ケンピスが『キリストに倣いて』の中でこう言っています。
 「人に平安の根拠を求めても得られることはない」。

 私たちの平安の根拠はどこにあるのでしょうか。人にないとなればどこに、あるいは何に目を留めたらいいのでしょうか。まず人にはさまざまに限界があることを確認しましょう。殻と呼んでもいいでしょう。ある人は劣等感という殻に悩んでいます。他の人は無能力感に悩んでいます。このような殻を破らなければなりません。制限のない、すなわち殻のない神さまの助言に耳を傾けましょう。

 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト.イエスにあって守ってくれます(7)、

とありますから。でもどこにその助言はあるのでしょうか。どこへ行けば手に入れることができるのでしょうか。

 一隻の船がヨーロッパから南米に向っていました。途中で台風に翻弄され、とうとうアマゾン川の河口に着いたときには飲料水が全く無くなっていました。近くに船を発見したので手信号で「飲料水を譲ってほしい」と合図をしました。すると返事は「バケツを船から降ろせ」でした。なんという不親切、と思いきや、そこはもう川でした。灯台もと暗し。今、あなたの手元に目の前にみことばがあるではありませんか。みことばに聞きましょう。

 「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト.イエスにあって守ってくれます」(7)。

いつも喜びなさい

 喜べない、これは一つの殻です。打ち破らなければなりません。私の好きな人の一人にストレス研究の父と言われるハンス・セリエがいます。ハンガリー人の父親とオーストリア人の母親の間に生まれた人です。彼はこういう逸話を残しています。

 あるとき、彼はなかなか泣き止まないでいたところ、祖母がこう言ったと言うのです。「元気のないときは、さあ、笑ってごらん。ほうら、明るい気分になってきたでしょう」。

 『生命のストレス』の中で彼はこう述べています。「私の言いたいことは、元気なふうを粧っているだけで元気になって来るということである。汚い服を着て風呂にも入らず、無精髭を生やした顔色の悪い人はストレスに耐えられないが、こぎれいな服を着て、風呂にも入り、髭を剃っている人はストレスに強い」。パウロは「喜びなさい」と言いますが、牢屋の中からピリピ教会の人々にこう言っていることを忘れないで下さい。しかも「いつも」です。確かに私たちは喜ぶことはできるでしょう。ただし「いつも」ではありませんね。勝手に選んでいますね。「いつも」と言っていますよ。どのようにしてそれは可能でしょうか。「主にあって」です。ギリシア語では「あって」はエン。「その中に」いることを意味しています。ラテン語で書かれた使徒信条ではその考えを踏襲してイン。これも同じ意味です。まるで温泉に浸かっているように。そうです。「主はいつも私を善意と共に見守っていてくださる」という思いの中にいることです。あなたは「いつも喜んでいる」ことができます。
 あなたには「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト.イエスにあって守ってくれます」が実現します。

あなたがたの寛容をすべての人に知らせなさい

 この文章には二つのポイントが含まれています。「寛容でありなさい」と「それを知らせなさい」です。後者はコミュニケーションの問題です。私たちはとかく一生懸命に話せば相手に伝わると思い込んでいます。でもそれはあまい!事実でもありません。工夫が必要です。コミュニケーションには技術が必要です。自分の伝えたいもの(たとえば福音)が重要なものであればあるほど、その技術を磨くことに熱心でなくてはいけません。多くの場合、人間関係が悪化するのは伝えたい内容が悪いのではなく、コミュニケーションの技術が未熟であるためです。

 さて、寛容について。浅野順一はこう言います。

 「聖書の説く真実とは、決して一人自分の聖さや正しさを守る独善的なものではない。それは他者を受け入れ、他を包む包容力なのである。必然的にそれは愛と結びつく。どんな不真実なものとでも一緒に歩いて行ける豊かで、大きく、深いものである。自己の真実を守り続けつつ、他の不真実を頭から斥けないで、なおもそれを包んでいく度量を持つものである。少しばかりの他者の不真実によって、裏切られたり、傷つけられたり、することに気を病まぬ柔和と寛容と忍耐保ち続ける所に真実が宿るのである」(『真実ー預言者エレミヤ』)
 私たちは果たして寛容なのでしょうか。確かにある種の人々には寛容でしょう。自分の好きな人には。でもすべての好きな人に寛容かというとそうでもない。あまりにも近い人にはかえって厳しい視線を注ぐものです。でもパウロは「すべての人に」と言っています。あなたは「すべての人」に寛容でしょうか。「すべての人」に寛容であれば、その「すべての人」に「主は近い」、すなわち再臨は近い、世界の終わりは近いという情報を伝えることが可能です。人は心を開かない限り、何も聞きません。
 どのようにして私たちは寛容であり得るのでしょうか。それは聖霊さまのお働きをあなたが歓迎すること。心に聖霊さまが語ることに敏感であってください。すなおに応じればそのときにはあなたには寛容の力が発動するでしょう。ガラテヤ人への手紙5章22、23節をお読み下さい。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

何も思い煩わないでいなさい

 いろいろと思い煩っているならば決して平安ではありませんね。実際に生活の中に思い煩いの材料には事欠きません。「あれは、どうしよう、あーあ、なぜ?一体、いつまでこんなふうに……」。
 ここで一つのことを覚えてください。思い煩いはチャンスのとき。なぜなら思い煩うときは無秩序の時であるから。無秩序の時こそ、神さまの出番の時です。創世記のはじめの部分をお読み下さい。まったくの無秩序の世界がそこにはあります。カオスです。混沌としています。そこに神さまのおことばとともに、たとえば「光あれ!」とともに秩序が生まれます。
 アブラハムは「子どもがほしい」という叫びを内に持っていました。でも心の中には「もう年だし……」という無秩序があるだけでした。でも与えられました。
 ワイツゼッカー元西ドイツ大統領は有名な演説の中で「過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目である」と言いました。聖書を私たちが学ぶのは過去から学ぶ事がその意味の一つです。多くの信仰の偉人が無秩序と戦って来ました。そして勝利を収めてきました。それには彼らのやり方がありました。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」、

 すなわち神さまに向って祈ること。祈って下さい。私たちは惰性に流されてはいけません。「慣性の法則」があります。それによれば一定の速度である軌道上を走り続ける物体は、止めようとしても急には止まれず、さらに進もうとします。このようなことは人間の歩みにもあります。何をやってもうまく行く、事が運ぶ、というようなことがありませんか。逆に何をやってもうまくいかない、ということもあるでしょう。精神的あるいは霊的「惰性の法則」もあります。この法則に乗っている人はこういうのが口癖です。「どうせ……、きっと失敗する、できない、やったことがない」などなど。この悪循環を止めなければなりません。そのために祈りましょう。神さまにあなたの気持ちを知っていただくためにも祈りましょう。

 一人の青年が失恋して牧師のもとを尋ねました。先生はこう言いました。「君の前には三つの選択肢がある。第1に、彼女が再び君を好きになってくれること。第2に、君の中から彼女に関する記憶が消えること。第3に、君が彼女を好きでなくなること。この中のどれでもいいですから、みこころのままになるように祈りなさい」「先生、みこころじゃあー困るんです!」「いいから、みこころを求めなさい!」しぶしぶ言われた通りに祈りました。数日たって、すっきりした顔で青年は顔を見せました。「先生、お祈りしたら、彼女からもう一度交際したいって、言って来たんです。でももう私には彼女に興味がありません」。すっかり解放された顔が印象的でした。神さまはすべての不必要な殻からあなたを解放して、平安な世界へと導いてくださいます。

 「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト.イエスにあって守ってくれます」(7)。