386  「バベルの塔」からのメッセージ
聖書箇所 [創世記11章1ー9節]

 「バベルの塔」の話は短いものではありますが、大変興味深いものです。一般的な理解としては次のようなものでしょう。

 人々が自らを偉大なものにしようと天にまで塔を建設しようとした。けれども神さまは彼らの動機をご存じで、完成しないように言葉を混乱させた。

 この話は今様の言い方で言えば、規制緩和に反する人間たちの行動と言えるでしょうか。というのは11章4節のことばと1章28節とをご覧下さい。神さまは「人間たちは広がれ!」とおっしゃっているのに、「広がるな!」とバベルの塔を立てようとしたリーダーは言ったからです。さてバベルとはアッカド語で「神の門」の意味ですが、聖書によれば「分裂する」です。今回はここから教訓をいただきましょう

人はルールを通して祝福される

 「バベルの塔」の悲劇はルールを破壊することから出発しました。なぜ悲劇と表現するかというと、このとき以来人々は仲間うちでもコミュニケーションが不可能になったからです。そうなれば互いに疑心暗鬼になり、戦争になるまでさほど時間はかかりません。言葉が通じることは私たちが互いに平和に過ごすためにはどうしても必要なものです。ところで「バベルの塔」において破壊しようとしたルールとは何でしょうか。それは、「神を神とすべし!」です。神を世界で一番偉い方として精一杯接することが求められます。テレビなどで天皇陛下が登場する場面を散見しますが、人々の彼に対する礼儀は正当なものとの印象を受けます。ならば私たちの天地の造り主なる神さまへの礼儀はこれを上回るものでなければならないでしょう。そうであってこそ神さまは私たちに神さまとして現れてくださいます。ちなみに私たち人間は神さまのなさることを(この場合はルールによって社会を治めようとすること)真似しようとするものですが、人間は有限であり、罪もありますから、不当なルールも作ってしまうことがあります。これらに対しては訂正を求める必要があることは明らかです。

 続けましょう。ルールの意味をまず考えましょう。それは私たちの利益を守るためです。もし私が右側通行の国に出かけて、左側を通行したら何が起きるでしょうか。事故を起こすか、警察官に捕まるか、どちらかでしょう。私の目的を達成することは不可能です。行列を作るのも同じ理由です。前に人々が並んでいるのは少し苦痛かも知れませんが、自分の番が来た時には独占的な立場を主張し、実行できます。ルールは遵守する者に利益を保証します。ところで「神を神とすべし!」はルールの中のルールです。しかし目に見えない神さまに従うことなのですから、難しいテーマであることは否めません。だからこれはチャレンジです。信仰の世界です。あなたはこのルールを尊重して生活していらっしゃるでしょうか。もしそうならあなたの神さまは偉大です。無から有を生み出すことのできるお方です。あなたが求めておられ、しかし、簡単には得ることのできないものが与えられます。それは奇跡です。偉大なお方はそのようなことが可能です。

人が大切です

 3節を見て下さい。このときまで建築材料と言えば、石や粘土であったのです。これらの材料は加工も強度も複雑、かつ不自由でした。でもついにレンガとアスファルトが発明されました。これは科学技術の大発展でした。革命的なものでした。ではこれを契機に人々の思いはどのように変化して行ったでしょうか。4節の最初の文章をお読みください。「そのうちに……」。意味深ですね。人々は自らを偉くしようとの強い思いにかられて行きました。科学技術は人間にこのような思いを与える場合があります。

 ノーベル物理学賞を受けた江崎玲於奈博士はこう言っています。「20世紀科学文明は、われわれの生命をも脅かす環境問題を生み出しました」(読売新聞1999年2月20日号)。

 消費する文明が進んだ文明とすれば、その文明はダイオキシンを生み出し、人間を苦しめています。人間の偉さは自ら首を絞める結果を招いています。そうです。人間疎外が起きています。こういう言い伝えがあります。

 塔が大分高くできあがってきました。そんなとき一人の作業員が手を滑らし、レンガを落としてしまいました。作業長は彼をこっぴどく叱りつけました。「この、高価なものをいいかげんに扱いやがって!」。作業長には人間よりもレンガが大切でした。
 私たちの現代の世界にもあるようなことではないでしょうか。人間よりも、レンガが大事、塔が大事、プログラムが大事、組織が大事などなど。いったい人間はどこへ行ってしまったのでしょうか。この世界で主役は誰なのでしょうか。私たちはもう一度この質問を真剣に考え正しく答えを出さなければなりません。人間こそが大事と。
 神さまは一人一人をかけがえのない存在として造ってくださいました。かけがえのなさとは互いに違うことを意味しています。違いの重要な部分は性格と意見に現れるでしょう。私たちは互いに性格を受け入れるべきです。短気な人もいれば、のんびりした人もいます。これらはそれぞれ個性です。どちらが正しいとか、優れているとかいったものではありません。また意見も100人いれば、少なくとも100の意見があって当たり前です。違っていて当たり前です。目の前の人の、自分のものとは違った意見を尊重すべきです。少なくとも正しい意見であるとするなら、それは一種の理想であり、それは他者を利するものでしょう。もしろ応援をすべき、仲間を獲得して成功するように祈るべきでしょう。そうして私たちの住む社会は改善され向上します。一人一人が大切にされてこそ、その社会は良い社会です。なぜなら社会は一人一人が集合したものだからです。人を大切にしない社会は自らの首を絞めているのです。やがて滅びるのです。

豊かな想像力を活用してほしい

 6節の最後の文章をお読み下さい。神さまは「バベルの塔」の建設を一定期間黙認しておられます。なぜでしょうか。
 良くないことを人々はしているのですから、そのような人々を一気に滅ぼすことも選択肢の一つではなかったのでしょうか。神さまの寛容さがここに現れています。私たちはきっと経験があるのです。ある種のことは実体験してみなければ理解できないことを。たとえばお寿司の味など。いくら口をすっぱくして説明しても、隔靴掻痒ではないでしょうか。食べてみれば簡単に分かることです。神さまは体で、彼らに理解してほしいとお考えでした。滅ぼすことは神さまにはいとも簡単なことです。でもそれでは人を育てることはできません。そして人が成長するには想像力が不可欠です。
 創世記2章7節には、人はinspireされ、生きるものとなった、とあります。名詞形はinspirationインスピレーションです。あなたにはこれが必要です。聖霊さまはあなたに働くインスピレーションに乗ります。あるいは聖霊さまのお働きはインスピレーションそのものと言ってもいいでしょう。創世記1章2節には世界が当時混沌としていたと分かります。そのとき「神の霊が動いていました」。この表現は「スタンバイしていた」の意味です。「さあ、今からあなたのためにすばらしいことを起こしますよー」との信号です。そういうことを予感させ、予想させるのが想像力です。「きっと良いことが起きる!」と信じられるならば、実際に良いことが起きます、とはイエス・キリストの信仰です(マルコ9:23)。
 どうか一度の失敗の結果をを最終的な結論としないでください。一度でだめなら二度やればいいのです。二度目がだめなら三度目に挑戦すればいいのです。ペテロとユダの違いがどこにあるのでしょうか。前者は三度も失敗しましたが、諦めなかった、後者は一度の失敗を人生の結論としてしまいました。私たちにはそれぞれ幼いときに身に付けた心のクセがあります。ある人たちは困難な場面に遭遇すると、「だから、私って、ダメ!」と即座に反応します。思考は停止していて、反射的にそう言います。これが心のクセです。でも直すことができます。客観的に自分を見るようにして、前向きな見方をしようと決心することです。あなたは柔軟性のある人間でしょうか。
 カメレオンは葉っぱの上では何色?木の幹の上では何色?それぞれ緑、茶です。あなたはあなたの置かれた状況の中で自分を客観的に見るようにしておられますか。
 社会心理学者マーク・スナイダーがセルフモニタリング理論を提唱しています。自己監視理論です。自分をモニターできる人を高モニター人間と称し、高く評価しています。どうかあなた自身を柔軟にして豊かな想像力を活用して下さい。あなたは夢のある生活を楽しめるでしょう。進化論の親分である、ダーウィンは晩年には病床で聖書を読みふける毎日でした。彼はこう言いました。「私はとりとめのない話を世間にしてしまった。人々はそれを材料に一つの宗教を作ってしまった」。その宗教のイデオロギーは偶然です。だから偶然教と呼んでもいいでしょう。偶然には何の希望もありません。「たまたま、思いがけず、あなたは人間になってしまいました。あなたの仲間には人間になれずに相変わらず猿のままで暮らしているものもいますよ!」。このようなことを言われてあなたはどのようにお感じになるでしょうか。生きる意味も、使命も、目的もないのが進化論と言う偶然教です。でも彼は悔い改めました。もっと明るい、希望のある世界を心の世界に広げました。神さまがいっぱい恵みをくださる世界、愛に溢れる世界、平安で満ちた天国の世界です。