387 イエスさまの心のうち

 ●聖書箇所 [ルカの福音書9章1節ー17節]

 題名:結婚(鳥谷部 文 とりやべ あや)
  先生ね 教室に入ってきたら みんなにシィーっていったの それからみんなが静かになったらニヤニヤして「先生結婚することになりました」って言ったんだよ そしてまたニヤニヤしたんだよ先生 うれしそうだった(札幌市・藤の沢小一年(読売新聞2000年1月10日『こどもの詩』より)

 題名:プラス思考で伸ばすほめ方
 先日、小二の娘が算数のテストで二十点をとって帰ってきた。テスト用紙をヒラヒラ振りながら「テスト返してもらったよ、ホラ」と私に見せる。私はめまいを起こしそうになった。毎月高いお金を出してやらせているドリルのことをなどが脳裏をよぎり、あきれた口調で「恥ずかしくないの?」と聞いてしまった。娘は「ぜーんぜん」。あまりにあっけらかんとしているので怒る気にもなれず「次は頑張ろうね」と言っておいた。数日後、三十五点をとった。娘は喜んで「この前より頑張ったよ。次はもうちょっと頑張ってみるわ」。私も「そうね。ちょっとずつでも上がったらいつか百点とれるよね」と励ました。内心穏やかではなかったが、本人も努力しているのだから認めようと思った。その次は四十点。相変わらず本人は「やったー。この前より五点も多い」と脳天気に笑っている。今回のことで、私は娘に物事のとらえ方やしかり方、ほめ方を教えられたような気がする。三十五点を「ひどい点」と見るか、「前より頑張った」と見るかは大違い。努力して伸びてくれるよう、プラス思考でとらえながらうまく導けたらと思う。(大阪府・竹村陽子 日本経済新聞2000年1月14日『ひとこと言わせて
』より)

 いずれも私が読んで感動を覚えたものです。先生と生徒、母親と娘。気持ちの通い合いがすなおに現れているのではないでしょうか。気持ちの通い合い、察する心など日本文化のすぐれた点ではないでしょうか。聖書には「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)という、通常、黄金律と呼ばれる節があります。まず、相手の気持ちを知ることが、親切の要です。これはイエスさまのおことばです。イエスさまはあなたの心を気持ちをご存じです。どんな気持ち?男の子が箱根の山に登りました。そこで見たものはカゴの中に入れられたかわいい小鳥たち。そのカゴには一羽100円とありました。思わず、100円を差し出した彼に売っていたいたおじさんがこう言いました。「ぼく、100円でこの小鳥を一羽空に離してやることができるんだよ」。こうして一羽小鳥は大空高く気持ちよさそうに飛んで行きました。今、あなたはこの小鳥のようではありませんか。解放されたい、自由になりたい。そうでしょう。イエスさまはあなたのそのような気持ちを察しておられます。そんなイエスさまの心のうちを見てみましょう。

あなたの空腹を心配しておられます

 彼1ー4節では悪霊と病気。3ー4節では身の周りの品々。12節以降では宿や食事。いずれも物質に関するものです。空腹にも目に見えない世界に関するもの(たとえば、生きていて空しいとか)もあれば、目に見える世界の属するものもあります。イエスさまはあなたが後者に関して空腹ではないのですか、と心配をしておられます。もちろん前者も重要です。しかし、私たちは霞を食べて生きているわけではありません。住まいは物質、食料品も物質。私たちは物質に囲まれて、はじめて生活が可能です。キリスト教界に誤解があります。精神的なものを、すなわち目に見えないものを祈り求めるのは良いことだが、物質的なものを求めるのは現世利益追求であって信仰には良くない、という考え方があります。これは間違っています。この世界にあるすべてのものは、目に見えるものも見えないものも創造者の手になるものです。どれも本来良いものであるはずです。実際、物質や金銭がなければ私たちは生きて行くことができません。どうかもしあなたが物質や金銭に不足を感じるなら大胆に祈ってください。イエスさまがあなたは物質的に金銭的に十分ですか、と心配をしてくださっているから。」水前寺清子の歌に「365歩のマーチ」があります。「幸せは歩いて来ない。だから歩いて行くんだよ」というのがあります。待ってないで、どうか前向きに求めてください。

人は変われる、と考えておられます

 11節でイエスさまが大集会を開いていらっしゃることが分かります。他にも福音書ではこのような光景が見られます。アメリカ人の伝道者ビリーグラハムはこれを根拠にクルセ−ドと呼ばれる大伝道会をあちらこちらで開く形式を展開しました。さて、大集会を開いたのは良かったのですが、一つの問題が発生しました。辺りが暗くなり、人々は空腹を感じ始めたのです。もちろんコンビニもスーパーもない頃です。さあ、困りました。イエスさまの反応は。

 「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」(13)

 あなたはここにイエスさまからのチャレンジを感じますか。それとも「イエスさまがお話しなのに、霊的な話をしているのに、なんという不信仰!」とお考えですか。イエスさまの反応は14ー17節にありますね。奇蹟を起こされました。きっと女性や子どもたちを入れて2万人近くはいたでしょうね。満腹にしてくれました。なんという思いやりのあるお方。ところでこの奇蹟には二つの解釈が可能です。?単純に奇蹟が起きた。イエスさまは神さまであって何でも可能だから。?人々が隠し持っていた食料を供出した。もし後者が事実ならこれも奇蹟!なぜなら人の心を変えることくらい難しいものはないから。エゴイズムの克服くらい難物はないのです。

 イギリスのある神学校では入学者をハイキングに連れ出します。指導者はわざと道に迷います。やがて学生たちは本性を現し出します。それまでのすました顔つきが疲れと空腹とで変化して行きます。そこには裸になったエゴがありました。やがて訓練だったと学生たちは知るのですが、互いにきまずい雰囲気が流れます。こうして改めてイエスさまの十字架の意味を考えるのです。最近読んだ本を紹介しましょう。
 『モラル・ハラスメント』(紀ノ国屋書店)です。表紙やカバーにはこういうことが書いてあります。「人を傷つけずにはいられない 言葉や態度によって 人の心を傷つけていく「精神的な暴力」がはびこっている 「言い人」こそが狙われる!」この本は13カ国でベストセラーになっているとあります。いわゆるいじめの問題を分析したものです。もう少し内容を紹介しましょうか。

 被害者はどうして被害者であるのか?それは加害者によって被害者に選ばれるからだ被害者は身代わりの犠牲者であり、すべての責任を押し付けられる運命を負っている。加害者は被害者に精神的な暴力をふるうことによって、自分が抑うつ状態になるのを防ぎ、……被害者はそのためにいるのだ。(229) 加害者の攻撃の特徴は、相手の欠点や精神的に弱いところなど、もろい部分を攻めることにある。……こうして加害者の攻撃は、被害者の弱点や子供の頃に受けてもう忘れられた心的外傷(トラウマ)に向かう。(231) モラル・ハラスメントの被害者は素直な性格で……。(242)虐める人は自分の中にある欲求不満を解消するために、獲物を食いちぎる。だれが獲物になるかは虐める人が決定する、とこのようにこの本の著者は言っています。つまりは虐める本人にとっては虐められる人はもはや人格を持った人間ではなく、物でしかないのです。物、それは掃除機であったり、お靴であったり、ペンチや金づちのようなものです。故障したり壊れたりすれば捨てて構わないものです。なんという罪深さ!これが罪の正体です。罪とはエゴイズムです。私たちにはこのエゴイズムがあるのです。そういう私たちでは「変われます」とイエスさまはお考えです。 
 
私の手足となってくれる人が欲しい

 先のポイントはエゴイズムを克服できる、というものでした。これはうれしい知らせですね。まさに福音!ところで私たちは心身共に隅々まで克服できるでしょうか。こういうみことばありますね。

 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイの福音書5:29、30)

 これはヘブル人の言い方で「全体が天国に行けなければならない」の意味です。では一部が正しくなかったり、聖くなかったりするのはどのようにして克服できるのでしょうか。私たちは物事を始めるときはその動機において純粋なのです、きっと。人に親切にします。感謝されます。「あー、やってあげて良かった!」とうれしくなります。でも次に金銭や物でお返しがあったりすると、心が乱れる、ということはないでしょうか。動機に不純さが生じているのではないでしょうか。これを解決してくれる、ウルトラCが、イエスさまの手足になることです。イエスさまのお考えをただひたすら行っていればいい、という大変楽なやり方です。お返しがあってもイエスさまへ素通り。自分は受け取らないのです。

 『ジキル博士とハイド氏』は19世紀のイギリス社会を背景に生まれました。ちょうどビクトリア朝であって、高いモラルが説かれていた時代でした。でもそうすると必ず陰で悪いことが蔓延るものです。肉の欲望を何の遠慮もなしに行いたいと思う人も多かったでしょう。この小説の中で注目したいのは初めのうちは悪と善を使い分けていたのですが、次第に悪の力をコントロールできなくなるようになっていったことです。そうです。私たち人間には自らをコントロールできない弱さが現にあるのです。だからこそ、自分以外の他者の存在がクローズアップされます。でもだれがあなたを助けてくれるのでしょうか。

 ではだれが、の質問に答えて

 福音書の中のイエスさまに出会ってください。イエスさまに出会ってあなたは大きな影響を受けるでしょう。イエスさまの持つ聖さの中にあなたは浸されるでしょう。あなたの中を流れる血は聖いものとなるでしょう。

 コカコーラの社長がかつてこう言いました。「私の体内を流れているのは血ではない。コカコーラだ!」。

 あなたはこう言うことができるでしょう。

 「私の体内を流れているのは罪に汚れた血ではない。イエスさまの聖い血だ」。

 こう叫ぶあなたは晴れて自由です。先の小鳥のように。イエスさまは「自由になりたい!」とというあなたの気持ちを汲んで、それを実現してくださるお方です