388 創造的破壊

 ●聖書箇所 [ルカの福音書5章17節ー39節]

 はじめに36ー39節をお読み下さい。この時代、パレスチナでは酒瓶は皮袋でした。もし新しい酒を古い皮袋に入れると発酵しガスがたまって、破裂してしまうおそれがありました。柔軟性がないからです。イエスさまのメッセージはこうです。「私はいまでにない新しい恵みを持って来た。そこでそれが無駄にならないために新しい皮袋を用意しなさい」とイエスさまがおっしゃったのです。しかし頭の堅い人たちが少なくなかったようです。それは35節以前をお読みになるとお分かりになるでしょう。ただし彼らばかりを責める訳にも行きません。人間だれしも保守的であるからです。成功体験ということばをお聞きになったことがあると思います。成功することはいいことには違いありませんが、かえって新しい時代や状況に適応できなくさせる面もあります。私は失敗についての本をたびたび読みますが、いろいろと教えられます。
 日本軍の伝統的な戦法の一つは夜襲です。確かに寝込みを襲えば効果的でしょう。でもそれが度重ねれば敵も考えるでしょう。次第に失敗が多くなって来ました。成功体験に酔っていると戦法を変更することが難しいのです。私は初めてパチンコをしたのは17、18歳の頃だったと思います。200円の投資で2000円をあっさりと得たことが印象的です。とてもうれしくなって、また来ようと心に決めました。しかしそうは問屋が卸さないのです。次回は大損をしてしまいました。ここで私は考えました。「もし客が儲かるならパチンコ屋さんがこんなに立派な建物を建てられるはずがない。もう二度とすまい」と。こうして成功体験を乗り越えました。これは簡単な例ですが、以外にかつて成功したことが頭から離れないことが多いのです。そして同じような失敗を繰り返します。
 今回のメッセージの題名は創造的破壊です。つまらない成功体験を破壊しましょう、という提案をしたいのです。古い皮袋を捨てて新しい柔軟性のある皮袋に変えましょう、と提案したいのです。それにしてもイエスさまが用意してくださっている新しい恵みとは、その新しい皮袋に入れるものとは何でしょうか。それが分かれば皮袋も更新しやすいのではないでしょうか。

真の友情

 まず、17ー26節をお読み下さい。パレスチナの家は屋根が平らです。かなり簡単な作りで大きな物を出し入れするにはちょうどよくできていました。ですからここに起きたようなことはごく普通に考えられることです。なんという友情のありがたさ!うるわしさ!
 
 地獄でパーティ−が開かれていました。大きなテーブルを囲んで何人もの人々が向かい合って座っていました。一人一人の前にはごちそうが用意されています。ところがだれもそれを食べることができず、それゆえに険悪なムードが漂っていました。「いったいだれのせいでこんなことになったんだ!?」、というのは、だれもが両手にはナイフとフォークが持つことができましたが、だれもひじを曲げることができず、食べることができなかったからです。同じようなことが天国でも展開されていました。でも雰囲気がとてもいいのです。互いに食べさせあっていたからです。

 箴言27章10節には友情をたたえることばがあります。お読み下さい。友情あるところ神さまによる奇蹟があります。 

 一羽のおうむがあるとき森に遊びに出かけました。森の動物たちに大変手厚くもてなされ、感激して帰って来ました。一年くらいたった頃、森で火事が発生しました。以前大歓迎されたことを覚えていたおうむは恩返しにと、川で全身に水を浴び、上からかけました。何度も何度もしました。神さまはそれを見てこうおっしゃいました。「その程度では消えないよ。でも一生懸命にやっている姿には感心した。私が消そう」。

 イエスさまによって中風患者はいやされました。その根拠を20節では屋根から釣り降ろした「彼らの信仰」であると証言しています。「隣人を愛せよ」を実行した友人たちの信仰と友情にイエスさまが応答してくださったのです。中風の患者はいままでに多くの愛を彼らに与え、それに彼らは答えました。友情とはなんとすばらしいものなのでしょうか。
 友情を育むためには他者への寛容を身につける必要があります。アメリカには根に毒を持つ植物があるそうです。周囲の植物を枯らして行きます。やがて他の種類の植物がみんな枯れると今度は自分がその毒で枯れて行ってしまいます。
 他者に寛容であるためにはまず自分に対して寛容であるべきです。
 17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの『寓話詩』に「鹿の水鏡」があります。一匹の雄しかが澄み切った水面に自らを映し、「なんという立派な角だ!」とほれぼれして呟いて言いました。しかし全身を映して行く中で足の華奢な姿にがっかりするのでした。と突然がさがさと音がしたかと思うと大きなイヌが飛び掛かった来ました。一目散に逃げます。このとき華奢な足が役に立ちました。やがて深い森の中にまで入って行きましたが、今度はあの立派な角が邪魔になって思うように走れません。何を言いたいかもうお分かりでしょう。私たちは決して頭は良くないのです。良くない頭で「あれはいい、これはダメ!」と軽率に判断してはいけません。神さまは本来あなたを立派な作品に仕上げてくださっているのです。確かに故障する場合もあります。でもそれは神さまがご自身直してくださいます。十字架、それは「私はあなたをありのまま受け入れますよ!必要なら修理しますよ!」という神さまからのメッセージです。神さまが受け入れるあなたをなぜあなたが受け入れないのでしょうか。どうか自分に対して寛容であってください。そこに友情の芽があります。

信仰

 16節で「よく」という表現がありますが、「よく祈る」と評価されるのはすばらしいことです。良い習慣で人々からも認められたいものですね。イエスさまは「よく祈って」大切な出会いに準備をされました。その出会いとはパリサイ人や律法学者たちとのものでした。
 彼らは当時律法主義に凝り固まっていました。そして人々をも縛っていました。例えば十戒。「安息日を聖とせよ。働いてはならない」(出エジプト記20:8-11)という律法を盾にさまざまな細かい規定を作り上げました。この場合仕事とは何かが問題になりました。そこで仕事を39種類に分けました。その一つは荷物を移動することです。では何が荷物なのか。彼らが考え出した答えは「ほしいちじく一個の重さ、一口のミルク、税金関係の書類、手紙2通分のインクなどなど」でした。病気を治療することも仕事をしたとみなされました。
 こうして見ると規則が大切なのか、人間が大切なのか分からなくなります。こういうのを律法主義といいます。規則主義です。人々はこのようなものにがんじがらめにされていました。これが信仰の真のあり方、姿でしょうか。そうではないはずです。真の信仰はあなたを解放します。 

 主よ、あなたの平和のうつわとならせてください。
 憎しみのあるところには愛の種子を蒔き、
 まちがいのあるところにはゆるしを、
 うたがいあるところには信仰を、
 のぞみの無いところには希望を、
 暗いところには光を、
 悲しみあるところには喜びをもたらす者とならせてください。
 いつくしみ深き父よ、
 慰められることを求めるよりは人々を慰める者に、
 理解されるよりも理解する者に、
 愛されることよりも愛することのできる者に、ならせてください。
 与えることによって真に受けるのであり、
 ゆるすことによって、ゆるされ、
 主にあって死ぬことを通してこそ、
 永遠に生きることができることを信じます。

 これはフランシスコ会の創立者フランシス(イタリヤ人、12ー13世紀)の詩です。心と精神とが解放された人の詩です。解放されていない人はこう言うでしょう。「人を慰めるよりもまず私を慰めて!人を理解するよりもまず私を理解して!人を愛するよりもまず私を愛して!」どうかイエスさまとの出会いの中で罪の赦しを得てください(20)。解放されます。解放された人には真の信仰が生まれます

 
人を愛する力

 愛はただやさしいだけのものではありません。にこにこしているだけのものではありません。躾もあれば、厳しさもあります。愛には力があるからです。27節以降をお読みください。取税人マタイ(レビ)の召命の話です。
 取税人とは当時は遊女、特殊な皮膚病者、罪人(律法学者における律法に無知な人)とともに軽蔑された人でした。アンタッチャブルです。だれも近付かない彼らにイエスさまは積極的に近付いて行かれました。彼は二重の意味で傷付いていました。病気の痛みと疎外の痛みです。両方を理解してくださるのがわれらがイエスさまです。あなたをも理解して下さいます。マタイが真実に癒されたことは29節以下ではっきりと分かります。アンタッチャブルまで招いて大盤振る舞いをしています。こうして彼は変えられました。新しい人に変えられました。新しい皮袋に変えられました。なんといっても人が変えられることくらい難しいことはありません。どうかイエスさまとの出会いを感動とともに楽しんで下さい。あなたも大きく変えられる自分を愉しんでください。もしあなたがいまままで話した恵みに関心がおありなら、いまあなたの中に聖霊さまの働きがすでに起きています。皮袋は新しくなりつつあります。感謝してください。
 古い皮袋の性質は30、33節で明らかです。他者の幸せを喜べない、他者が喜んでいるときに水をかけるのです。なんと悲しい性質でしょうか。でも新しい皮袋にされたあなたは、古い袋を破壊されたあなたは今や創造的な精神と共に他者の幸せを喜びます。そこには当然、新しい祝福の創造があります。こうして一緒に私たちは希望の未来に向って進むことができるのです。