389 収穫の為の条件

 ●聖書箇所 [ルカの福音書10章1ー16節]

 今回は収穫の為の条件を学んで参りましょう。「実りは多い」とイエスさまはおっしゃっておられます(2)。どうか期待してください。期待こそ信仰です。きっとたくさんの収穫を得ることができる、私にたくさんの良いことが起きる、と信じてください。もちろんそのためにあなたは祈っておられるでしょう。でも2節から3節にかけて、「行きなさい」という助言も添えられています。すなわち祈りつつ、働かなければいけない面もあるのです。それを条件と言っていいでしょう。

自分に弱さを認める

 1ー4節を見てみましょう。イエスさまが弟子たちを派遣する場面です。当時は旅行することは現代と違っては危険なものでした。町を出ると盗賊がばっこし、気楽なこととは言えませんでした。ですから盗賊たちからすると「飛んで火に入る夏の虫」なのですが、イエスさまは積極的で「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」の精神です。これはイエスさまによる弟子たちに対するレッスンです。「小羊」(3)、とは謙虚に自分の弱さを認めるべきとのメッセージであり、そこにこそ神さまの力を招く根拠が生まれます。私の知り合いに安海宣教師がおられます。インドネシア宣教に行かれた方です。医者もいない所で病気になると大変です。でもそのような環境ではかえって真剣に、かつ正直に自分の弱さを認めて祈ることができるそうです。むしろいつでも病院に行けると思っていれば、切実さはないのかも知れません。私はうなづいて聞いていました。

平安を持つ

 5ー6節を見ると、出発時にすでに弟子たちは平安を持っているようです。そうでなければ他の人たちに平安をあげることはできないでしょう。平安を与える者は平安を受けます。でも注意してください。中には折角あげようとしたのに跳ね返してくる人もいます(6)。そのような場合は決して無理をしないでください。無理をすると人間関係を壊してしまう場合があります。壊してしまえば、いざその人がその価値に気付き、かつ利用しようとしても受け取りにくいものです。そのときのために人間関係を保っておくべきです。

 ちょうど季節は春、長距離バスに学生たちがにぎやかに乗り込んでいました。その中に一人の壮年の人が乗っていました。休憩所に車が止まるたびに、多くの人が降りて買い物をしたり、飲んだり、食べたりしているのに、彼は降りようともしません。一組の学生がちょっと気になってコーヒーを持って近付きました。それをきっかけに話ができるようになりました。彼は三日前に5年間の刑期を終えて出所したばかりでした。かつて妻に手紙をこう書きました。「私を赦してほしい。そして私を忘れてほしい。いい人がいたら、再婚してください。でも子どもを愛してやってほしい」と。刑務所の中で教誨師から悔い改めることを学び、謝罪しました。彼は平安を得、「これでいい」と心の中でうなづきました。でも彼も人の子、できれば家に帰りたい。それで電報を打ちました。「家の前の停留所にかしの木がある。もし私を受け入れてくれるのなら、その枝に黄色いハンカチを結んでおいてほしい」と。その停留所に少しずつ少しずつ車が近付いている時間を過していたのです。とても自分では見られないと思った彼は学生たちの提案に賛成しました。「ボクたちが代わりに見てあげる」。車は樫の木に近づきます。「あったあーっ!」。いっせいに歓声が沸き起こりました。バスの中に「お帰りなさい。お帰りなさい」の大合唱がありました。「もし受け入れてくれなかったら」という葛藤もあったでしょう。でも平安が勝ちました。

 平安は神さまの力です。どうかイエスさまを心の中心に迎えてください。イエスさまこそ平安(ヨハネ14:27)そのものです。ちなみに心の中からすべての平和は始まることを覚えてください。
 『戦争の研究』(クインシー・ライト)に1480年から1941年の間に起きた大きな戦争の数が載っています。「イギリス78回、フランス71回、スペイン64回、ロシア41回、オーストラリア52回、ドイツ23回、中国11回、日本9回、アメリカ13回」
 なんと多くの戦争が起きるものなのでしょう。特徴は近くに存在する国との間です。地球の裏側の国と戦うことはまずありません。世界どこを見てもお隣さんとは戦いが絶えません。フランスとドイツ、フランスとイギリス、台湾と中国、北朝鮮と韓国、日本と韓国、中国とベトナム、アメリカとメキシコなどなど。そして夫婦、兄弟の間で。最も近い間は自分と自分、すなわち心の中。すべては心の中から出発しています。イエスさまを心のまん中において平安を得てください。そのとく神さまの力をあなたはすでに獲得したのです。

伝えるべきメッセージを持つ

 9ー11節を見てください。弟子たちの持参したメッセージは「神の国は近付いた」です。神の国とは神の秩序、あるいは支配です。喜びと平和、あらゆる問題の解決がそこにはあります。調和の取れた世界です。成人と子どもの違いは何でしょうか。成人とは人々を喜ばせるメッセージを持つ者のことです。私は一流選手のインタビュー記事を読むこと、そしてテレビやラジオで聞くことが好きです。彼らはサッカーとは何か、相撲とは何か、野球とは何かを語ってくれます。残念ながら二流以下は明確かつ魅力的な表現をすることがないので私はがっかりします。私たちは生きています。ならば人生とは何か、について答えを、あるいはメッセージを持っていなければなりません。大人として。
 あなたにとって人生とは何ですか。私はこう考えています。「人生とは回転寿司である」。それは「ベルトコンベアーの前に座る、すなわち期待するすべての人に平等にチャンスは流れて来る」です。あなたはこれに賛成ですか。強制はしていません。ただ聞いただけです。勝利教会にも伝えたいメッセージはあります。「神さまの前にどの人も公正、公平、かつ平等に扱われるべきである」です。勝利教会では「先輩後輩」という関係や表現を禁句にしています。聖書的ではないからです。

 「後の者が先になり、先の者が後になる」(マタイ19:30)とある通りです。神さまの前に私たちは互いに自由であるべきです。価値ある伝えるべきメッセージは人々の心を明るくします。社会を希望に満ちたものにします。どうか聖書を学んで価値ある多くのメッセージを発見してください。「与える者は受ける」、「多くを蒔くものは多くを刈り取る」などなど。そして信じてみてください。信じるとは食べること。食べずして料理の品々の前で考え込んでも味は分かりません。一度失敗しても負けずにもう一度やってみてください。そのような柔軟性を養うために礼拝をしてみてください。
 私たち人間は本来保守的です。ノミをコップに入れますと、7ー8秒で飛び出してしまいます。次に同じようにノミをコップに入れて、今度は紙のふたをします。20秒間飛び跳ねますが、それまでです。飛び出せないと分かったら、もう飛びません。紙のふたを取り外しても。これは人間の習性でもあります。一度失敗すると臆病になります。でも礼拝をしてもう一度の精神を学んで下さい。十字架という苦しみの後に復活と言う喜びがある、これがキリスト教の精神です。

自分の道を行く

 周囲に惑わされないようにと言いたいのです。10ー16節をご覧下さい。ソドム、コラジン、ベツサイダ、ツロ、シドン、これらは町の名前ですが、これらに住む人々はそれぞれ自分たちの生き方があり、主張がありました。私たちは彼らの生き方や主張に惑わされるべきでしょうか。彼らの未来は明るいものでしょうか。どうか自分の道を行ってください。自信を持って。というのは収穫は積み重ねですから。
 国際連盟事務長であり、名校長でもあった新戸渡稲造先生(5千札の肖像)は大変な読書家です。家には本が所狭しと置いてありましたが、あるとき一人の学生が一寸意地悪な質問をしました。「先生はこれだけの本を全部お読みになったんですか。覚えていらっしゃるんですか」。そのときは沈黙された先生は後にその学生に向って「君は便所に行くか」と尋ねました。「え!?もちろん」「そうか、そうだろうな」と続けて「食べて、排せつして、また食べて、排せつする。こうしていつか栄養になっている」。あなたはいかがお考えですか。信仰も人生も蓄積ではないでしょうか。小学校で学んだものが基礎になり、中学校での学びがスムーズに運びます。中学校での学びがまた同様に基礎になり、高校での学びが進みます。大切なのは方向です。

 アレキサンダー大王がまだ若かった頃、マケドニヤの王子であった頃、アリストテレスを家庭教師に雇いました。アリストテレスは聞きました。「あなたはやがて父上の後を継いで王となられます。その後はどんなさるおつもりですか。」。アレキサンダーは目を輝かせて「まずギリシアを統一する」「なるほど、それから?」「それから……シリヤ」「なるほど、それから?」「それから……ウーン、小アジア」「なるほど、それから?」「それから……ええと、パレスチナ」「なるほど、それから?」「それから……シメソポタミヤ」「なるほど、それから?」「それから……ペルシヤ」「なるほど、それから?」「それから……インド」。ここまで来て、アレキサンダーはついにこう言いました。「やがて私は疲れて休みたくなるとお考えなのでしょう。そして死んでいくと」

 大切なことを教えてくれる話です。一生懸命に物事をする、努力をする、とても良いことです。でも方向が大事です。方向が正しくかつ一定になっていないと、つまりふらふらばかりしていると徒労に終わります。あなたはどちらを向いて進まれますか。私たちは天に宝を積む、という方向を見るべきです。それを踏まえてどうか自分の道を進んで下さい。それにしても周囲の声に惑わされやすいのが私たちの弱さです。一つの原因は他者に拒絶される経験です(16)。傷付きますね。もう一つは成功して高慢になる場合です。
 古代ローマでは勝利の凱旋将軍を迎えるときに馬のくつわのそばから従者がこう言いました。「将軍、だまされてはいけません。この歓声に慢心すればあなたは破滅です」。利口な親切なやり方ではありませんか。この二つを克服してあなたは自分の道を行かなければなりません。「これこそ私の道だ!」と納得して生きる者は幸せな者です。神さまはあなたの心に聖霊さまを送り、その道を示して下さいます。

 百数十年前にベルギーに生まれたダミアンは23歳からハワイで宣教師として働きを始めました。9年間です。でもいつかこれは私の道ではないと考えるようになりました。あるときモロカイ島に800人もの人がライ病を理由に閉じ込められていることを知ります。警察もなく、無法地帯でした。彼は捨てられた彼らと共に生きることこそ自分の道を理解しました。彼は33歳の時に移り住み、1600人の葬式をし、そのうち彼の手作りのお棺は1000に上りました。お金がなかったからです。捨てられた人間にだれもお金を費いません。やがて彼自身もライ病にかかり、ライ病者の友人として多くの人たちと心通わせ、平安のうちになくなって行きました。誤解しないで下さい。ライ病になることの勧めではありません。彼の道はこのようなものでした。あなたにはあなたの道があります。神さまからおしえていただいたあなたの道は周囲の人々を喜ばせ、あなた自身をも納得させるものです。これこそ最高の収穫ではないでしょうか。