391 立って、まん中に出なさい
 ●聖書箇所 [ルカの福音書6章1ー11節]

 ラビ(ユダヤ教の牧師)が会堂で説教をしました。「地上で貧しい者は来世では富む者となるであろう。地上で富む者は来世において貧しくなるであろう」。これを聞いた貧しい商店主はいたく感動しました。そしてラビのもとに進み出て、「今のお話は本当でしょうか?」と尋ねました。「もちろん、本当です。聖書に書いてある」。それでは貧しい私に「100万円貸していただけないでしょうか。来世には富む者となっているのでお返しできると思います」と彼は言いました。そうか、と言ってラビは懐から100万円を取り出し、数え始めました。「ところでこのお金をどのように使う?」と聞かれた商店主は「これでたくさん儲けて、来世では返せると思います」。ラビは「それは良くない。もしこの地上で富む者となったら、来世では貧しくなる。残念だが、これは貸せない」と言って、懐にしまいこんでしまいました。
 
 世界を流浪したユダヤ人のたくましさを表したジョークではありませんか。商店主もたくましいが、ラビも負けてはいません。たくましさとは何でしょうか。それは「私、ここにいます!」という自己主張ではないでしょうか。今回学ぶ箇所は安息日が二つの事件に於いて共通しています。「人の子は、安息日の主です」とは自らを人の中の人としたイエスさまが安息日の正しい意味を教えるという宣言です。当時多くの人が正しい意味を知らずに、精神や霊が不自由の中にいました。イエスさまのおことばである「立って、まん中に出なさい」とは「あなたの人生の主人公はあなたでなければならない」という高い理想を宣言したものです。「もちろん私が私の人生の主人公です。そんなことは当たり前じゃあーないですか」と言われますか。人の目を気にし過ぎる人も少なくありません。もしそうなら主人公であるというのには疑問があります。イエスさまのおこころは「あなたの人生においてあなたがまん中にいるようにしなさい」というものです。どのようにしたらそれが可能か、学んで参りましょう。

生活を楽しむ事は良いことであると考える

 1節をお読み下さい。弟子たちが他人の畑に入って麦を食べていました。それを見たパリサイ人たちが難くせをつけました。それは不当な指摘でした。申命記23章25節にはそれを正当とする根拠が示されています。でも彼らパリサイ人たちは自分流の解釈で安息日にしてはいけない労働に当るとしました。イエスさまは正面切って反論しておられます。4節でダビデを引き合いに出して、その正当性を主張しておられます。「空腹なのだから食べるのは人として当然!」と主張しておられます。
 あなたは生活を楽しんでおられますか。おいしい食事、気分転換のための旅行、和気あいあいとした交わりなどなど。ぜひこれらを楽しんでください。愛の神さまはあなたが大いに楽しむようにと地上の人生をくださいました。私はこのような神さまのおこころを大切に毎日の生活を大いに楽しむように心掛けています。どんなことにも楽しみを見つけつつ取り組むのです。おかげで幸せを感じます。パリサイ人に欠けているものがあります。正論を展開しているようです。でも気をつけてください、正しいことを言う人には。とても大切なことが欠けている場合があります。それは愛。そうです。彼らには愛が、やさしさが欠けています。当時宗教者には清貧のイメージがあったことは間違いがありません。5章33節をお読み下さい。でも果たして清貧であるはずの彼らはそのような生活に満足していたのでしょうか。魅力を感じていたのでしょうか。禁欲的でもいいのです。そこに愛とやさしさが養われるならば。
 父親が二人の息子に遺言してなくなりました。「財産を半分にして仲良く暮らしなさい」。まもなく亡くなり、兄弟はすべてを半分にしました。まもなく収穫の季節がやってきて、それも半分にしました。弟はこう考えていました。「私には三人の子どもがいる。家族がある。でも兄にはない。独りぼっちだ。財産を半分にするのは真の平等とは言えない」。そう考えると夜中に起き出して、収穫したばっかりのものから一部をお兄さんの畑に運びました。お兄さんはお兄さんでこのように考えていました。「私は独り身だ。でも弟は三人も育ち盛りの子どもがいて、経済的に大変だろう」。そして次の日の夜中、起き出して、収穫物を弟の方へ運びました。「おかしいなあー。こんなに多いはずはないんだけれどー」と不審に重いながらも。弟は驚きました。「お兄さんに分けたから、その分減っているはずなのにちっとも減っていない?!」と。3日目の夜中、二人は暗闇の中でばったりと出会い、お互いの気持ちを知って抱き合いました。この場所にソロモンは神殿を建てた、という言いつたえがあります。
 教会もそうです。愛のある所、そこに真の教会はあります。どうか「私は神さまに愛されている」と信じてください。神さまの世界は、そして信仰の世界は信じることから始まります。信じると神さまがあなたを愛してくださっている事実が見えて来ます。

罪人の動機を見抜く

 6節をお読み下さい。イエスさまは会堂管理者に招聘されて説教しておられます。そこに手の萎えた人がいました。ここで律法学者たちやパリサイ人たちの態度に注目しましょう。あら探しです。じいーっと観察しています。あらを探し出すために。なんといういやらしさ。でもイエスさまは堂々といやしのわざを進められます。安息日にいやしをすることは禁じられている労働をすることだというのが彼らの理屈です。
 ここには大きな問題が一つ潜んでいます。規則は何のためにあるのかです。それは私たち人間の幸せの為にあります。人間の権利を守るためにあります。右手の萎えた人はいやされたいでしょう。きっとそうに違いありません。でもパリサイ人たちはそれは良くないことだと言うのです。なんという冷たさ!私たちはお店や、いろいろな場面で列を作ります。それは並ぶことによって自分の前に割り込む者を排除できるのです。人の話を5分聞く者は自分の口を5分開くことができます。権利がこうして発生します。十戒も同様です。これ以上前進したら危険ですと教えてくれるものです。規則は人をさばくためのものではありません。でもさばくために使う場合が少なくありません。なぜ?それは心が傷付いているからです。パリサイ人は傷付いていました。いろいろな規則で人々を縛っていました。多くの人の心が愛のイエスさまの方になびいて行きました。自業自得とはいえ、それが彼らの心を傷つけたことは間違いがありません。傷を受けた人は人を攻撃し、復讐に走ります。対象となる人も、他人でもある場合もあれば、自分である場合もあります。いずれにしてもいじめと言えるでしょう。次に紹介するのは一つの例です。

 私は今度の大戦で、ビルマ作戦に一歩兵兵士として従軍し、敗戦後二年間、英軍の捕虜としで強制労働に服した。……指揮者の一人に、若い英人中尉がいた。この男はけっして悪人ではない。それどころか立派な人間だったと思う。しかし彼は、なぜかわからぬが、日本軍に対し深刻な憎悪感を持っていたらしい。その彼が、ふとした何かの拍子に、私たちに対しつぎのような意味の言葉をもらした。「ジャップは、死ぬことを、とくに天皇のために死ぬことをなんとも思っていない。おれたちは、ジャツプの英軍捕虜への残虐行為と大量殺害に復讐する。戦犯の処刑はその一つだ。だが、信念を持っている人間は殺されても平気だし、信念を変えようとも思わない。そういう人間に肉体的苦痛を与えても、なんの復讐にもならない。だからおれたちは、ジャツプの精神を破壊してから殺すのだ。」この最後の言葉が何を意味するのか、私たちにははっきりわからなかった。私には、イギリス人の言葉は半分もわからないし、聞き間違えたのだと思って、あまり深くは考えず、聞きのがしていた。だが、半年ほどたってのち、私は突然、あることに思い当った。私はだれからか、つぎのような話を聞いた記憶がある。……それは、英軍から「日本人戦犯に恩赦を与えるべく努力中である」ということを告げられ、戦犯たちが死刑囚をもふくめて、大変感激しているという話であった。最初は、英国王が戦犯の刑の軽減刑を考慮中と伝えられながら、駄目になったととり消されたのであるが、二回目は英現地軍司令部が減刑ならびに私たち一般捕虜の早期帰還を善意をもって推進していると伝えられていたのである。だが、結局こういう恩赦はなんら実行されず、何百人かの死刑囚が、全部刑を執行されたのである。第一、英本国でも、ビルマ英軍内部でも、戦争裁判や戦犯処刑がはたして正当かどうかという疑問が出されたり、戦犯者の減刑運動などが行なわれたことはなかった。そのような事実の片鱗さえも認められなかったのだ。ではなぜ死刑囚に、そのような話が英軍筋から伝えられたのだろうか。ここで、あの中尉の謎のような言葉が問題を解く鍵となる。恩赦のニュースは慰めではなかったのだ。計画的な、もっとも残酷ないじめだったのだ。なぜ、イギリス人たちは復讐をしたのか。それは当時極東(東の端っこ)の小さな島国に過ぎない(と彼らは考えていたであろう)、しかも黄色人種である日本人に負けたということから来るに違いない。世界の海を征服した、誇り高いアングロサクソン人としては大きくプライドが傷つけられたことであった。

 私たちは決して人のプライドを傷つけるべきではありません。つまり人々の前で辱めることをすべきではありません。それは罪であり、復讐される可能性が大です。律法学者たちやパリサイ人たちは人のあら探しをすべきではありませんでした。イエスさまを見つめるべきでした。そうしたら彼らは自分自身の傷をいやされたはずです。でもそうしなかったので、したがって心はいやされないので、分別を失ってしまったのです(11)。赦し、赦される世界に私たちは生きるべきです。なぜなら罪人は悪い動機とともに生きているからです。悪い動機とともに生きるとき私たちは自分の人生の主役にはなれません。どうかイエスさまを見上げ、じいーっと見つめるようにしてください。そしていやしを経験してください。あなたはあなたの人生の主人公です。

立って、まん中に出る

 これはイエスさまのおことばです。みんなが見ている中でイエスさまはいやしをなさいました。いやされたい、恵まれたいと思っている人に横やりを入れることにイエスさまははっきりとノーとおっしゃったのです。私はこのイエスさまのお考えから学びました。人が何かに取り組もうとするときに、だれがそれを邪魔できるのでしょうか。もし聖霊の導きであるなら、神さまに敵対しているのです。そんな罪は犯してはいけません。私たちは人の足を引っ張ってはいけません。アイディアを壊してはいけません。だれに壊す資格があるのでしょうか。いったいだれに他者の権利を侵害することが許されるのでしょうか。どうか自分の土俵で生きてください。
 二つのことを言うことができます。一つは私はイエスさまの十字架で罪赦され、正しい道を歩んでいると信じること。自分は正しい、ではなくて神さまが整えてくださった正しい道の上を私は歩いている、と信じることです。人生の歩みの中で誤解される場合もあるでしょう。でも必ずあなたは自分の歩みの正しさを証明できるでしょう。自信を持って生きていきたいものです。もう一つは自分の賜物を認識して生きることです。あなたは何が得意ですか。それを中心に人生を組み立ててください。大脳生理学によると人間の脳細胞の数は140億個です。でも使われているのはその3%である4億2000万個。なんともったいない。あなたの中にはまだまだ未開発の能力が隠されています。埋蔵量は多いのです。いろいろなものにチャレンジしてみてください。
 「大草原の小さな家」で有名なマイケル・ランドン。彼は中学生の頃、ぶ男、ぐ男とからかわれることが常でした。あるとき上級生が槍投げを練習しているところに出くわしました。コーチが冗談で「お前も投げてみろ!」と言いました。投げて見るとなんと練習中の上級生たちのだれよりも遠くまで投げてしまったのです。「もしかすると、これは私の賜物かな!」と神さまに知らされた感じがしたと彼は言っています。これが忘れられず、オリンピック候補にもなりながら肩を壊して出場できませんでしたが、落ち込むことはありませんでした。ある日友人が芝居の台本の読み合わせを手伝ってほしいと言って来ました。やってみると意外におもしろい。ここでかつての神さまに触れられた瞬間を思い出しました。「これから、これは私の生きる道かな!?」と思い、ついにはスターになりました。どうかいろいろなことにチャレンジしてみてください。そこにあなたがあなたの人生の主役になるためのの秘訣があります。この右手の萎えた人のように端っこにいないで立って、まん中に出てください。だって、あなたの人生なんだから。