393 デボラとヤエル
聖書箇所 [士師記4ー5章]

 女預言者として大活躍したデボラ、そして同時に登場するヤエルという女性の話を学びましょう。神と人間のドラマです。時代は士師の時代。士師とはイスラエルの社会において神さまによって立てられたパートタイマーのリーダーと言ったら分かっていただけるでしょうか。デボラはエフデ(4:1)の後任でした。時代は困難を極めていました。カナンの土地に入ったものの異民族がいつもいつも彼らを脅かし、不安定な状況でした。これが数百年も続くのが士師記の時代です。それをたった21章にまとめたのが士師記です。しかし中身は極めて簡単です。イスラエル人が困って神さまに訴えると神さまはやさしい方ですから助けてくださる、助けていただいた後しばらくすると、彼らは神さまを不要とし、再び困難に陥り、また神さまに訴えて助けていただく、というものです。これを幾度もくり返すのが士師記と言えます。このような考えると士師記の一つのテーマはいったい神さまってどんなお方なのだろうか?です。今回はこのテーマに取り組みます。三つのキーワードで話を進めて参りましょう。

沈黙

 4章1ー3節をまずお読みください。20年間も困難が続いていたのです。あなたはいかがでしょうか。もしかすると20日間でも耐えられないかも。まるで神さまが沈黙しているような。このようなときに神さまはデボラを指導者あるいは預言者として立ててくださったのです。彼女についてはこのような言い伝えがあります。ラピドテの妻と紹介されていますが、この名前に根拠があります。ラピッドとは炎。夫は神殿において灯心を作る職人でした。彼女は夫の作業を毎日見ている中でこう思いました。「私も人々の心をを神さまの光で照らし暖かくしたい」。神さまはこのような彼女の心をご覧になって、あなたに使命を与えようと預言者職をくださいました。もしあなたが「神さまは沈黙しておられる」、あるいは「だれも、何の手も打たないじゃあーないか」と思えるとき、それはあなたの出番です。

 次に紹介するのはウェストミンスター教会の地下室にある英国国教会主教の墓に刻まれた碑文です。

 自由に生きていた若い頃、想像すること限り無く、私は世界を変えようと思った。しかし年令が進むに連れて、世界は変わらないことに気づいた。それで目標をもっと身近なものにしたらいいと思い、自分の国を変えて行こうと考えた。でも自分の国も変わらなかった。とうとう老年になって私の願いはもはや果たされないものと分かって来た。自分の国もだめなら、せめて最も身近な家族はどうかと思いいたった。でも悲しいことに、これもうまくは行かなかった。今、私は死の床にいて、そこではじめて分かった。変えなければいけないのは、自分自身だった、と。自分が変われば、家族も変わっただろう。そして家族に励まされ応援されれば、国をよ〈することもできただろう。そしてやがては世界を変えることができただろう。

 今、あなたに見ていただきたいものがあります。これを見ればあなたの心に勇気が、私の出番だ、という勇気が湧いて来るに違いありません。それは微笑み。神さまがあなたに向かって微笑んでいます。イエス・キリストがあなたに向かって微笑んでいらっしゃいます。 
 微笑みは万能薬かも。マザー・テレサがこう言いました。

 あたたかいほほえみ……妻に夫に子どもに そしてすべての人に 微笑みかけなさい 微笑みは心に愛を育てます

 名作「星の王子さま」で有名なアントワーヌ・ド・サン=テアジュペリは第二次世界大戦中、パイロットとしてナチスとの対戦で死亡していますが、スペイン市民戦争でも戦いました。その経験をもとに、「スマイル』というとても心を惹きつけるストーリーを書いています。スペイン市民戦争の真っただ中、敵の手に落ちた彼は監獄に放り込まれました。看守の侮蔑に満ちた目つきと乱暴な扱い方から、翌日の処刑は疑いないものに思われました。ストーリーは、こんなあらすじでした。僕は、もうすぐ、処刑されることになっていた。神経がキリキリ研ぎすまされ、限界だった。ああ、タバコが吸いたい。ポケットのすみにやっと一本見つけたけれど、指がブルブルふるえて口にもってい〈のもおぼつかなかった。なんてことだ!こんどはマッチが見つからない。鉄格子のすき聞から看守が見えるが、僕をまった〈無視した態度だ。それも無理はない。僕はもう死んだも同然なのだから。「ちょつとすみませんが、マッチはありませんか?」看守は僕をチラッと見ると、「今さら何の用だ」と言いたげに肩をすくめながらやって釆た。看守が僕のタバコに火をつけたその瞬間、目と目が合った。僕は思わず彼にほは笑んでいた。死がそこまできているというのに、敵にほほ笑むとは、僕はどうかしてしまったのだろうか!?神経がものすごく高ぶって、判断がつかなくなっているのかもしれない。それとも、人間とは向かい合った時、無意識にほほ笑むようにできているのだろうか?なぜかわからないまま、僕はただほほ笑んでいた。しかし、あれは錯覚だったのだろうか?目が合ったその瞬間、火花が二人の心と心、魂と魂のあいだを飛び交ったような気がした。看守も、笑みを返すつもりなどさらさらなかっただろうに。あたかも、僕の笑みが鉄格子を越え、看守の口もとをゆるめたかのようだった。彼はタバコに火をつけ終えた後も、その場に立ったまま、笑みを浮かべ、じっと僕を見つめていた。僕もずっとほほ笑んでいた。もう看守と囚人ではなく、対等の人間同士だった。やがて、彼の視線が微妙に変化し始めた。「お前には子どもはいるのか?」「ああ、写真がある。見てくれ」。ブルブル震える手で家族の写真をひっばり出し、看守に見せた。彼も自分の子どもたちの写真を取り出すと、子どもたちへの夢や期待を話してくれた。それにひきかえ、僕はもう二度と家族に合える見込みはない。かわいい子どもたちの成長を見ることもない。僕の目には涙があふれた。看守の目にも涙が浮かんだ。その時だった。突然、看守は何も言わず監獄の鍵をはずすと、こっそり彼を外に出してくれたのだ。そして人目を避けて裏道を使い、街のはずれまで連れて行くと、僕を逃がしてくれた。そして、そのまま何も言わずに帰っていった。わかるだろう? 僕の命を救ったのは、他でもない。このささやかなほは笑みだったんだ。

 ぼ〈の秘密が開きたいかい?ちっとも難しいことじやないんだよ。この世には、目には見えなくて、心でしか見えない、とっても大切なことがあるってことなんだよ。
                       アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ(『心のチキンスープ』1)

 今あなたに体験していただきたい微笑みとは神さまの、そしてイエス・キリストのものです。

奇跡

 しかし具体的に行動を起こすとなると他の人の助けが必要になるでしょう。4章6、7節をお読みください。デボラはカナン王ヤビンに勝てると宣言します。しかしイスラエル軍の総司令官バラクはデボラが戦いに参加することを求めます。これは戦いを知っている者の発言でしょう。敵は900両の戦車を有し、一方イスラエル軍は10000人いるとは言え、農民による即席の軍隊でした。バラクはこんな状態で戦ってどんな結果になるかを経験から予想していました。彼は現実主義者でした。さて、ここで聖書はどんなメッセージを私たちに送っているのかです。聖書では、そしてヘブル人の世界では名前には意味があります。デボラとはみつばち、バラクとは雷。前者はこつこつ働くこと、後者は神さまによる奇跡を表しています。メッセージはこうです。こつこつ働く者を神さまは奇跡をもって祝福して下さる、というものです。5章20ー21節をお読みください。乾季なのに大雨が、キション川は溢れ濁流が敵の軍隊を襲いました。イスラエル人は大勝利をおさめました。ではこつこつとは何を指すのでしょうか。4章14節にそれが示されています。「立ちあがれ!」。それはどんな場合でも、どんな難しい状況でも前向きであれ、積極的であれ!です。そうする者にこそ神さまは奇跡を起こして下さいます。

複雑

 さて、もう一人の女性ヤエルがここで登場します。敵の軍隊は敗北しましたが、総司令官シセラを倒さなければ最終的な勝利にはなりません。ここでイスラエル人とは親戚関係にあったケニ人ヤエルの働きが光ります。シセラは従来のケニ人の友好的な態度が外交上の国益上のものであることに気付きませんでした。油断がありました。ヤエルはシセラを自分のテントに招き入れ、殺していまいます。その間の事情は4章17ー21節を書いてあります。ここで問題なのは彼女の行為です。女性が男性を自分のテントに招き入れることにはたった一つの意味しかありません。性的関係です。たとえ結果が良いものであったとしても罪であることには変わりがありません。シセラは疲れて水を求めました。水を飲めば再び軍隊を立て直して戦いに臨むでしょう。彼女はミルクを飲ませました。ミルクは体を重くし、そして彼は眠ってしまいました。そのすきを彼女はつきました。イスラエル人は彼女のこのような働きによって祝福されました。でも彼女は罪を犯したのです。複雑な話です。私たちは良心の中に律法をいただいていますから、罪を犯せば罰が与えられると知っています。ところがここの話はそうではないのです。でもこの複雑さが私たちにとっては希望なのです。なぜなら罪を犯さない人はいないからです。罪を犯してもなお祝福しよう、と言うのがイエス・キリストを私たちの世界に送ってくださった神さまのおこころです。でも周囲から見るとこのような態度はまどろっこしいものと写るでしょう。私たちは間違ったことをしている人に向かってこのように言いたいでしょう。「それはまちがっている。すぐに直しなさい」。人に猶予を与えることができないのが私たちではないでしょうか。でもまどろっこしさこそが愛です。

 『七面鳥になった男』という話をご存じでしょうか。
 ボクは七面鳥だ。そう思い込んでいる王子がいた。侍女が服を着せてもすぐ脱いでしまい、食堂の椅子にも座ろうとしない。毎日テーブルの下に裸でうずくまって、パンくずをかき集めて食べている。心配した王様は、国中の医師を招いて治療に当たらせてみたが、だれも治せる者はいなかった。ある日、一人のユダヤの賢者が王宮を訪れた。「私が王子さまを治しましょう」と言う。王様はワラにもすがる思いで、すべてを賢者にまかせることにした。賢者はまず裸になった。それからテーブルの下にもぐると、王子のかたわらに座った。王子「そこで何をしてるの……?」。賢者「わたしはね、七面鳥なんだよ−」。王子「エッ、ポクも七面鳥だよ!」テーブルの下で数日がすぎる頃、二人は互いにわかり合える間柄になっていた。 ある日、賢者は数枚のシャツを床に投げ出すと、まじめな顔で王子に尋ねて言った「七面鳥には、シャツが着られないと思うかい?もちろん着られるさ。シャツを看たって、七面鳥は七面鳥なんだろう−?」二、三日たつと、賢者は数枚のズボンを床に投げ出して言った。「ズボンをはいたら七面鳥じやなくなる−そんなことつてあると思うかい?」こうして二人は、シャツやズボンから上着まで、きちんとした身なりになっていった。それから賢者は、テーブルのごちそうを床に取り下ろして王子に見せた。「これ食べたって君は七面鳥なんだろう?そう思わないかい?」二人はごちそうを腹一杯食べた。最後に賢者は王子に言った。「七面鳥はいつもテーブルの下に座るなんて、いったいだれが決めたんだい?七面鳥が椅子に座ったっていいんだろ−」そうして二人は、きちんと椅子に靡かけたのだった。(『ユダヤ生きるヒント』三笠書房)

 いかがでしょうか。愛とはなんとまどろっこしいものなのでしょうか。さあ、今回のテーマが何であったかを思い出してください。神さまはあなたを愛しておられます。神は愛です。あなたが罪を犯しても、失敗をしてもなおあなたを愛して、祝福して下さいます。救い主イエス・キリストがおられるおかげです。