394 称賛される信仰

 ●聖書箇所 [ヘブルへの手紙11章1ー12節]

 キリスト教信仰って何でしょうか。神がいる、あるいは天地の造り主なる方がおられる、と信じることでしょうか。これは正しくありません。あるときイエスさまは「それなら悪霊だって知っている」とおっしゃいました。正しい答えは3節にあります。すなわち「目に見えない方(聖書に示される、まことの神)が目に見えるものを生み出してくださる」と信じることです。昔の人はこのような信仰のゆえに称賛されました。ではどのような、目に見える祝福を生み出し、かつあなたには用意されているのでしょうか。

義人とされる自分[4]

 4節をご覧下さい。アベルの名が登場します。彼は創世記4章1ー15節の間に記されている出来事の一方の主役です。カインは彼の兄であって、アダムとエバ夫婦の子どもたちです。神さまへのささげもののことでちょっとした、あるいは大きなことと言ってもいいでしょう、事件が起きました。神さまはカインのささげものではなく、アベルのものを喜ばれました。どうしてなのでしょうか。その差は何でしょうか。次の文章表現で理解できるのではないでしょうか。 カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た(3)。 アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た(4)。
 私たち人間にとって一番大事なものは何でしょうか。それは命。アベルは命を(象徴的に)ささげましたが、カインはそうではなかったのです。羊は人間に代わるものであり、しかも初子で、一番良質のもので、しかも自ら持参したのです。神さまは非常に喜ばれました。そして彼は義人とされました[4]。
 義人の受ける祝福は何でしょうか。申命記5章32、33節で分かるでしょう。噛み砕いて言えば、神さまからのメッセージはこのようになるでしょう。「私はあなたを歓迎します。あなたが地上で生きることをとても喜んでいます。あなたの働きに期待しています。あなたにはできます」。
 タイム誌に失業者の心理についての記事がありました。失業者の心理は学校の落ちこぼれ生徒と同じだと言うのです。成績で差別されるのが学校であれば、実績で評価されるのが職場です。失業したのは落ちこぼれであったからであり、「もうあなたは不必要です!」と宣告されたというわけです。これでは大きな傷を受けると言っても何の間違いもないでしょう。私たちは良い社会を作ろうと考えるならば、互いに必要とする関係を作らなければなりません。教会は利益優先社会ではないので、互いに「あなたは必要です!」と言わなければなりません。しかし最も深いレベルでは私たちの霊魂の造り主である神さまからそのようなおことばをいただかなければなりません。どうかアベルと同じように血をささげてください。血を流してください。でもあなたの血ではいけません。残念ながら罪に汚染されているからです。イエスさまの血を流しましょう。すなわちイエスさまのあがないを信じましょう。ただしこれには難しさが伴います。
 2000年3月12日にローマ・カトリック教会のヨハネ・パウロ2世が「歴史上犯してきた(カトリック)教会の罪を赦してほしい」と謝罪しました。多くの人が感動しました。でもある人々は「ちょっと待てよ」と首を傾げています。彼の言い方に原因があります。彼はこう言ったのです。「教会の息子たち、娘たちが犯した罪を赦してほしい」と。どこかで聞いたせりふではありませんか。「秘書がやったあー」というのと同じ理屈ではありませんか。これは例をあげたのであって、これが罪人の限界だと言いたいのです。聖霊さまにより私たちは真実に悔い改めるをする必要があります。そして義人となりましょう。

祝福としての死(5)

 エノクの名が見えます。創世記5章24節を見ても、彼についてはよく分かりません。情報が不足しています。ただ一つ分かることは、彼は通常の死に方をしたのではないということ。それは死がもはや詛いではないことの一つのあかしです。私は父を10数年前に亡くしました。ちょうど駆け付けて10分後に亡くなりました。娘を連れて行っていたので、こう私は言いました。「ちょうど、今、おじいちゃんは天国に旅立った。いい所に行けて良かったあー」。最高の実物教育でした。最近では(2000年3月)親しい叔父を亡くしました。亡くなる寸前にイエスさまを信じてくれました。何十年もの間、はっきりとキリスト教を拒んでいましたが、不思議なことが起きました。使用前使用後、という言い方がありますが、その顔の表情の変わりようといったら驚くほどでした。天国への旅立ちを文字どおり教えてくれるような、絵に描いたような顔でした。イエスさまのあがないは死を詛いではなく、祝福へと変えてしまいました。死は私たちをより高次の世界へ案内する入り口であることを知ってください。


自己実現している自分(6)

 この箇所ではダニエル書を思い出します。シャデラク、メシャク、アベデネゴという3人の青年の立派なあかしは私たちを励ましてくれます。3章11ー17節をお読み下さい。彼らは信仰を曲げずに、すなわちバビロン王ネブカデネザルの脅迫にも負けないで、かえって出世と成功を勝ち取りました。どうか覚えて下さい。単に肉体の命が助かっただけでは祝福としては不足です。毎日心臓が動いて、食べては寝て、寝ては食べて、では命の活動としては、人間の生き方としては明らかに不足しています。自己実現、すなわち賜物を最大限に活用し、いきいきとした生きざまがなければなりません。キリスト教信仰者はこの点において及第点を取らなければなりません。イエスさまはどのようにしてイエスさまでいらっしゃるのでしょうか。難しい質問でしょうか。イエスさまは地上に生を受けて、漁師をなさっていたら、それで良かったと言えるのでしょうか。大工をお続けになったら良かったのでしょうか。いいえ。彼は賜物を活用すべきであったし、実際にそうなさいました。だから彼は救い主であられるのです。彼の賜物は「罪がない」です。あなたの賜物は何でしょうか。ご自分の賜物を認識して、すなわち自己実現に励んでください。そして立派な自分史を刻んで下さい。納得の行く人生を歩んで下さい。

不道徳からの救い(7)

 ノアの時代に不道徳は頂点に達していました。愛の神さまは警告を発せられましたが、ノアだけが耳を傾けました。今日も不道徳が蔓延しています。特に親の立場にある者は子育てに苦心します。できるだけ良いものを、できるきれいなものを、できるだけ聖められたものを、できるだけ価値高いものを見聞きさせるべきですし、自分たちもそうすべきです。情操教育とはこれです。私たちは目でじいーっと見、耳でじっくりと聞いている場合、対象からの影響を強く受けます。染まります。気をつけなければなりません。
 さて、最高の道徳と言えば、それは愛。愛とは?相手を責めない、裁かずにそのまま受け入れること。相手の欠点の後始末をすること。そして?すべてを変えるもの。
 椎名麟三の小説に「マグダラのマリヤ」があります。ヨハネの福音書8章1ー11節の物語を題材にしています。このマリヤの後日物語というふうに話は書かれています。彼女はこうつぶやきます。「いままでは私が愛そうとしてもだれも受け入れてくれなかったけれども、今は違う」。
 私たちは二重に傷つけられます。「愛してもらえない」、そして「愛しても、それを受け入れてもらえない」。マリヤは愛されていない、と考えていましたが、この傷が癒された途端に、つまり「私は愛されている」と分かった途端に愛せるようになりました。彼女の愛を受け入れてくれる世界と出会っています。両方とも一度に解決できました。癒されました。なんとすばらしい福音、神の力でしょうか。イエスさまをあなたが心に受け入れるとき、あなたの中に愛があります。イエスさまは愛そのもであるから。
 ある人はコリント人への手紙第一13章(愛の章)を一日に3度読むそうです。一度目は「私には愛がない」ことを確認するために。二度目は「この愛が私に向けられている」ことを確認するために。3度目は「私の中に愛がある」ことを確認するために。しかし愛は使わなければ、その力を発揮することはできません。紙幣と同じです。一万円札を床の間に飾っておいても、何も手に入れることはもできません。使ってみてはじめてその力が理解できます。どうかあなたも使ってみてください。だんだん上手になります。愛が自分の中に信じて、祈りつつ、聖霊さまに導かれてトライしてください。あなたは愛の達人になれるでしょう。

新しい可能性の世界(8-12)

 アブラハムは未だ見ぬ地に出立しました。75歳で子どもが与えられる預言をもらいました。あなたは同様な事例を告げられた場合に信じられますか。難しいと思っても構いません。すべての人に起きることではないからです。これらはアブラハム個人に起きた事柄です。あなたはアブラハムではありません。あなたはあなた。ただし一つの大切なことを学ぶことができます。信じると夢が叶うという世界の存在です。アブラハムはそれを経験しました。あなたにも同様の事を経験できるはずです。どうかあなたの夢を口に出して下さい。理想を語ることを忘れないで下さい。「3年後、5年後に私はこういう者になりたい」とか。
 アリストテレスがおもしろいことを言っています。武勇で知られたスパルタは戦争をしている間は強かったが、平和になるとまもなく滅んでしまった。その理由はレジャーの過ごし方を知らなかったから。レジャーとはだれからも拘束されない、自分で自由に使える時間です。ですからその人の人生観がそこには表現されます。あなたには最高のレジャーの過ごし方をしてほしいと思ってこの話を紹介しました。最高のレジャーの過ごし方は礼拝をすることです。礼拝で夢を描くことです。神さまはあなたを愛してすばらしい直感、想像力を与えて下さっています。これらを駆使するのが称賛される信仰です。