395 貧しい者は幸い

 ●聖書箇所 [ルカの福音書6章20節ー26節]

 今回の副題は「逆転の発想」としておきましょう。なぜなら通常の考え方とは反対だから。しかしこれこそが信仰です。ちなみにこの説教は「平地の説教」とか、「平場の説教」とか呼ばれています(17)。「山上の説教」とは内容的にほとんど同じです。さて、信仰の世界がここにあると言いましたが、似たようなことはイエス・キリストによってたびたび語られています。

 「後の者が先になり、先の者が後になる」(マタイ19:30)、
 「からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:20)などなど。

 あなたは「私は遅れている」と考えてはいませんか。「私の信仰は小さい」と考えてはいませんか。もしほんとうにそのようにお考えならば、あなたは幸いです。23節に注目しましょう。「天において、報いは大きい」と言うのですが、「天」とは何でしょうか。それは神さまのいらっしゃるところ。あなたは神さまから真の報いを受け取ることができる、とこの節は言っています。ということはどういうことかと言いますと、真の幸いとみかけの幸いとがあるというわけです。この違いについて少し考えてみましょう。
 あなたはアイスクリームをお好きでしょうか。喉が乾いているときには特に美味しく感じられるものですね。さて食べてみました。おいしいですねえ。でもどんなに時間をかけても5分くらいで食べ終わるでしょう。すなわち幸いな時間がこれで終わりです。これがみかけの幸いです。真の幸いはいつまでもその幸いが継続します。どのようにして?それは決してアイスクリームに焦点を当てないからです。「このアイスクリームをくださったのは、神さま!」という意識が強いのです。だから「私はいつもいつも神さまに愛されている!」と考えているので、アイスクリームを食べ終わっても幸いな時間は終わりません。このように考えることができるように今回の説教は訓練の為に備えられました。学んで参りましょう。

貧しい者は幸い[20、24節]

 貧しい者は幸い、なんと不思議な言い方!だれだってお金がないよりはあった方がいいに決まっています。でも貧しい者が幸いです。なぜ?貧しくなったのには理由があります。人に与えたからです。具体例を考えましょう。
 有名な「良いサマリヤ人」(ルカ10:25-37)の話を思い出してください。テーマは「隣人を愛せよ」です。結論を言いましょう。隣人とはサマリヤ人です。つまり「サマリヤ人を愛せよ」と言われています。なぜ、サマリヤ人は祝福されなければいけない?与えたからです。33から35節をお読み下さい。彼は散財したので少なくともその部分は貧しくなりました。神さまの世界の法則では与えた者は受けるのです。これで貧しい者は幸いなのがお分かりになったでしょうか。
 いま私たちはこのように祈るべきでしょう。「どうか貧しくなれるようにこの私を助けてください。時間、お金、タレントを他の人のために使えるような者にしてください。
 
 バレンタインという神さまを愛する人がいました。いつもいつも「私は神さまを一番に愛して生きて生きたい」と考えていました。あるとき、ひらめいて修道院に入りました。一日人々のために祈れるし、聖書も読める。畑で作ったものを人々に分けることもできる。充実した日々が始まりました。しかしまもなくゆううつな気分が襲うようになりました。同僚にとても絵の上手な人がいて、さらに彫刻の上手な人もいて、彼はがっかりしました。「私にはあのような立派なことはできない!」。神さまに訴えました。「私には何にもできません」。神さまからいただいた答えはこうでした。「あなたができることをしなさい」。彼が始めたことは紙に愛の言葉を書くことでした。これがなんと実に多くの人を喜ばせました。国中に評判になりました。しかし彼の名声を喜ばない者がいました。王様でした。理由をつけて彼を牢屋にぶち込みました。牢屋の中で祈っていると明かり取りの窓に一羽のハトが羽を休めるために止まりました。見るとくちばしに葉っぱをくわえています。その葉っぱはハートの形をしていました。彼はその葉っぱに羽ペンで愛の言葉を書きました。ハトはそれを人々に届けました。これがバレンタインの日のいわれです。
 チョコレートを配るのがバレンタインの日ではありません。あなたに与えられた時間、お金、そしてタレントを他者のために使ってください。あなたはいつも幸いを感じるでしょう。

飢えている者は幸い[21、25節]

 これは極めて形而上学的テーマです。形而上学とは形而(物)の上にあるもの(目に見えない世界)を考えるもの、形而下学は(目に見える)物を考えるものです。満腹していると形而上学に思いが行きにくいのです。形而上学とは具体的に、「愛とは何か」とかこういったものです。これは人としてのあかしになるものです。どんなに猿が優秀でもこのようなことは考えません。「神のかたち」(創世記1:26、27)、すなわち人格(義と聖で構成される。エペソ4:24)を持っていないからです。
 愛って何でしょう?有島武郎だったと思いますが、「アイ ラブ ユー」を「あなたのためなら死んでもいいわ」と訳しました。さすがに文学者ですね。そして聖書的です。イエス・キリストの愛は本物の愛であり、命をすてる愛です。その現場が十字架でした。
 「神に喜ばれるとは?」というテーマはどうでしょうか。きっとあなたはお考えになったことがおありと思います。ノア以前にエノクという人がいました。特別に神さまに取り扱われ、死を見ないで神さまのもとへ行った人です。では彼にはどんな業績があったのでしょうか。創世記5章21ー24節をお読み下さい。業績は記されていません。ただ「神とともに歩んだ」とそれだけです。
 私たちにはきっとあるとき、「そうだ、神さまとともに生きて行こう、行きたい」という思いに迫られる場面や時があるのです。もしかすると今かも。あなたは今何か感じてはいませんか。こういうことを感じるときというのが飢え乾いているときです。足りない、得られない、成功しない、苦しいときです。試練にはこのような意味において感謝をささげるべきです。「なぜ、この私にこの試練があるのでしょうか?」、「この試練の意味は何でしょうか?」と。中には「私には試練はないの」という方もいらっしゃるかも知れません。そのような」方には一つの提案があります。断食をしてみてください。霊的に敏感になります。霊の世界に触れます。そのとき真の幸いを知ります。

泣いている者は幸い[21、25節]

 これも通常とは反対の言い方ですね。泣いている人にはすばらしい一つの才能が、あるいは徳があります。それは正直さ、誠実さ。現実を正面切って見ています。決してごまかさない。まっすぐに見るべきものを見ています。しかしそれゆえに悲しくなって泣きます。なぜ?自分の罪に気がつくから。私たちは人が喜んでいると心底から喜べない、かえって悲しくなってしまう、人が悲しんでいるといっしょに悲しめないばかりか、かえって心の中で密かに喜んでいたりする。こう書いて来ますと、なんといういやらしさと感じますが、これは罪人の現実です。だから私たちは泣きます。笑っているのはこのようなものを見ないように見ないようにと目をそむけているからです。でもいつかそのことを刈り取らなければならない。だから哀れ(25)のです。イエス・キリストの血の意味をもう一度覚えてください。せっけんでは決して罪を聖めることはできません。

 バンコックにある赤十字病院の庭には水のない池があります。キングコブラが飼われています。係の者が一週間に一度毒を抜き取ります。危険な作業です。その毒を馬に注射します。すると馬はまるで気違いのように暴れまくります。しばらくして馬の体力の方が勝ってそれは治まります。その頃、また毒を注射します。またまた大暴れ。何度も繰り返しているうちに馬は毒に耐えられるようになります。こうして血清ができます。馬は死にますが、何千、何万人のいのちが助かります。イエス・キリストは多くの人の、そしてあなたの罪という毒をその身に引き受けられました。私たちが、そしてあなたが生きるためにです。

憎まれている者は幸い[22、26節]

 なぜ人は憎むのでしょうか。私たちが聖く生きようとするからです。憎まないで自分も聖さに挑戦したらいいのにとお考えですか。そうもいかないのです。それは難しいことだからです。似たようなことを私は20代の頃に経験しました。夜学に通っていました。私は会社をひけてから、すなわち午後5時以降の時間の使い方が自分の将来を決めるだろうと考えていました。同僚が「飲みに行こう」と誘いました。でもいつも私は断わったのです。こうして憎まれました。いわく「強調性がない。付き合いが悪い」などなど。でも私はおかまいなし。これと丁度似ています。あなたが聖く生きるとき、生きようとしているとき憎まれます。反対に好かれるのはこの世と調子を合せているからです(ローマ12:2)。今回の段落からずれますが、31ー34節はイエス・キリストからあなたへの挑戦ではないでしょうか。もっとハイレベルで生きてみませんか。

 一人の詩人が窓から外を眺めていました。一羽の鳥がやって来て巣を作り始めたのを見ました。やがて卵を産み、ひなが孵りました。でもその間ずうーっと気になっていたことがありました。巣の位置が低かったのです。案の定、母鳥がえさを探しに出かけているときに野良猫がとびあがってひなを持って行ってしまいました。詩人はこういう題の詩を書きました「小鳥よ。あなたの巣は低すぎた」。あなたは現状に甘んじてはいませんか。もっともっと聖い生活をして行きましょう。聖霊さまに力をいただいてください。私たちには自らを聖める力は残念ながら持ち合わせてはいいませんから。最後にこれらのイエス・キリストのおことばを信じてください。あなたには真の幸いがあるでしょう。

 お医者さんのお話です。お嫁さんが結核にかかったお舅さんを連れて来ていました。一緒に住んでもいるのでお嫁さんは気になって、自分のレントゲン写真を撮ってもらいました。出来上がったネガを見て、お医者さんが言いました。「かげが見えますねえー」。彼女は驚いて、そのまま寝込んでしまいました。熱が出て、体に悪寒が走りました。まもなくお医者さんから電話があって、「あれはお舅さんの写真でした」と言いました。彼女は再び元気になりました。信じるようになります。どうかイエス・キリストのおことばを信じてください。あなたに幸いがいつもあります。