396  嵐からなぎに

 ●聖書箇所 [ルカの福音書8章19節ー39節]

 昔々天に於いてサミットが開かれました。集まったのは父、御子、聖霊でした。テーマは種々の人生の嵐に悩む私たち人間たちの世界へ御子を派遣しようというものでした。全員賛成で、こうしてイエスさまが地上においでになりました。イエスさまがどのような嵐を治め、なぎにしてくださるのかこの箇所から3つの出来事を通して考えましょう。

人間関係という嵐[19ー21節]

 人間関係が好調であるというのは幸せの最初の条件です。家庭において、夫婦の間で信頼しあっている、親子の間で世代の断絶もなく、互いの違いを受け入れることができている、などなど。19節においてイエスさまのお母さんと弟たちや妹たちが会おうとして出かけて来ていますが、もうすでに公生涯に入っておられ、期待をかけた群衆がイエスさまを取り囲み、自由には近付けない状況でした。実はここが人間関係の壊れるきっかけになりやすい所です。「私は今こういう気持ちなの……だからこのように私に接して……お願い……」というような気持ちの時はないでしょうか。あまり他者に対して期待が大きすぎると人間関係が壊れやすいのです。「どうして分かってくれないの?なぜ……?」というようなときは気を付けなければなりません。どうしたらいいでしょうか。神さまのお考えに焦点を当てることです。

 イエスさまを信じて、ユーモアとゆとりが生まれた(大石恵子)

 主人といっしょにクリスチヤンになって、5ケ月が過ぎました。……お陰様で、結婚8年目で、とてもいい関係を保っています。といってもケンカもするし、ヒナンももするし、ワガママもでるし、毎日の生活ではいろいろなことが出てきます。そして戦い、悩みます。けれども、以前とはっきり違うところは、何か問題が起きた時、その受け止め方、解決の道筋が違ってきたということです。ついこの間、こんなことがありました。車に乗り込んで、主人は車を庭から車道に出すためバックさせました。ところが、なんと、主人は車を石の門にぶつけてしまいました。門に傷はなかったのですが、車の後ろのライトが割れてしまいました。クリスチヤンになる以前の私なら間違いなく言ったでしょう。「もう、どしたん。また無駄なお金使わなあかんだえ。どこ見て運転しよたん」 そして、それから、自分の気持ちがおさまるまで、プチプチプチプチ文句を言い続け、こんなドジな夫の妻であることを、なさけなく思い続けたでしょう。その時、私はそういう言葉を思い浮かべましたが、それはいけないと思ったので口には出しませんでした。が、黙っている夫に対して、せめて一言わびてほしいと思いました。「どこ見て、運転しよたん?」「おまえの顔にみとれて……」 やられたな、と思いつつ、「納得、納得!」と答えました。私としては、主人に最高の「ゴメンナサイ」を言ってもらったように感じました。と同時に、「わびてほしい」と心の中で思っていた自分のゴウマンを反省しました。主人も変わったなと思いながら、ランプの壊れた中古車に乗って、気分は高級車でした。イエスさまを信じてから、物事の見方や考え方が変わってきました。車を門にぶっつけた小さなできごとは、「おまえの顔にみとれて‥…」という、そんなユーモアと余裕とを主人の心に与えて下さる神様によって、私の心までも、穏やかなものに変えてくれました。イエスきまを信じてから、小さなできごとも、大きなできごとも、自分の力ではどうしようもないできごとも、受け止め方が変わってきました。そのできごとによって、自分が怒ったり、悲しんだり、苦しんだりするのではなく、それらを通して、赦し合い、理解し合い、受け入れ合い、愛し合って生きていくことを学ばせていただく神さまからの機会であることがわかってきました。すべてのできごとの中に、神さきまを認め、神さまのお心にしたがって行きたいと思います。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(ぽぽ1991年10月1日号)

 大石恵子さんは「もう、どしたん。また無駄なお金使わなあかんだえ。どこ見て運転しよたん」 そして、それから、自分の気持ちがおさまるまで、プチプチプチプチ文句を言い続け、こんなドジな夫の妻であることを、なさけなく思い続けたでしょう。その時、私はそういう言葉を思い浮かべましたが、それはいけないと思ったので口には出しませんでした。」とあるように自分の気持ちよりも神さまのお考えに焦点を当てておられます。21節はそれを勧めています。すなわち「神のことばを聞いて行う」こと。

不信仰という嵐[22ー25節]

 信仰こそ力です。どうか覚えてください。どなたも食べるときも「きっとおいしいに違いない」と信じて食べるでしょう。そして実際に食べて力が出て来ますね。乗り物に乗る時も同様です。「これに乗ればあのディズニーランドに行けるんだ」と信じてわくわくする人は乗るでしょう。結婚だってそうです。「きっと不幸になる」と信じて結婚する人はいません。
 「結婚三年目に第一の危機がある。次に五年目が危ない。そして七年目が危ない、後は毎日が危ない」と言われます。本当でしょうか。でも少なくとも初めは期待をもって結婚するのではないでしょうか。誓約の文句はこうでした。「あなたはこの姉妹と結婚し、神の定めにしたがって夫婦になろうとしています。あなたはその健やかなときも、病むときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの限り、堅く節操を守ることを約束しますか。」 このとき、「さあ、どうでしょうね……場合によりますねえー」と言う人は結婚相手を信じてはいませんね。つまり信頼関係は確立していませんね。信仰とは信頼です。信頼があるところ、力が生じます。どんなに苦しいときにも立ち向かうことができるのです。

 最近(2000。3。2)私は叔父を亡くしました。前々日、神学校の授業の為に那須チャペルに向っている途中、車の中で携帯電話で危篤の知らせを受けました。とりあえず授業を終わらせてから夜中に高速道路を入院先の静岡県境まで車を走らせました。朝から付き添い、お昼頃に別の叔父が駆けつけ、四人で病室を出て相談をしました。病室を出たのは叔父の意識ははっきりしていて私たちの話が聞かれてしまうからです。病室の外の叔父が切り出しました。「困った。このままでは天国にいけない。」深刻そうな顔をし、他の人もうなずきました。だれもが何十年とキリスト教を頑強に否定してきた叔父を知っていたからです。ミッションスクールを出て、知識は豊富でした。でも受け入れることを堅く拒んで来ました。私は牧師として針のむしろに座る思いでした。しかし一致した信仰が四人にはありました。「祈ろう!」の一言で熱心に祈りました。そして意を決して、私と妻とは病室に入り、枕元へ進みました。結論を言いましょう。なんとそこで洗礼を受けたのです。非常にハッキリとした意識のもと、明確に信仰を告白しました。私自身大変驚きました。「この叔父が……」と。四人の涙は止まりませんでした。翌日入棺式、前夜式、そして次の日に葬式と大忙しでしたが、私は反省と喜びが交差していました。まるで25節のことばが私に向けてのものではないかと思ったからです。近くにイエスさまがいらっしゃるのに、「いったい助けは来るのだろうか」という自分の態度であったからです。信仰、それは幼子のように持つべきです。素朴にすなおに、そうしてこそ信仰の力はまるまる発揮される、すなわち神さまは働いてくださるのです。
 
悪霊という嵐[26ー39節]

 悪霊はサタンの子分です。無数にいます、サタンは一人ですが。ここには悪霊に憑かれた人のことが報告されています。悪霊に憑かれると人は自分のものでありながら、心も体も自分ではコントロールできなくなります。しかし今回学びたいのは憑かれた場合のことではなくて影響を受けた場合のことです。というのは現実に私たちが経験するのはこちらの方であるからです。悪霊の影響を受けると気持ちが暗くなり、否定的になり、さばきたい思いや人を傷つけたい思いにかられます。悪霊になぜ憑かれるか、あるいは影響を受けやすくなるか、というと答えは、一つには心の中に傷があるから、と言ったらいいでしょう。心の中の傷とはちょうど板から突き出た釘のようなもので、それに、たとえて言えば、古い布切れ、これが悪霊ですが、がひっかかっていると想像してみてください。「悪霊よ、出ていけ!」と叫んでもなかなか出て行かないのはこの理由です。北風の原理です。ではどうしたらいいのでしょうか。傷を癒すことです。それには聖霊さまのお働きに期待できます。聖霊さまは油に例えられます。傷口に塗る軟こうのようなものです。塗られているうちに癒されて来ます。不思議なことです。そのためには悔い改めを忘れないようにしましょう。聖い所に聖霊さまは来てくださるし、働いてくださいます。

 ヘレン・ケラーと言えば三重苦の人で有名ですが、あるとき、一人の婦人にこう話し掛けられました。「○○先生は名医ですよ。私の目はあの先生に直していただいたんです。あなたも訪ねてみてはいかが?」。でも彼女はこう答えました。「いいえ、私の目も、耳も、そして口ももうダメなんです。でも神さまは私の内側に心の目、耳、そして口をとても上等に造ってくださいました。おかげで私は神さまを心の目で見られます。心の耳でそのお声を聞くことができます。そして心の口で話かけることができます。私たちは謙虚でなければいけないでしょう。私は何でも知っているとか、私はいつも正しい、と言ってはいけません。へりくだりの心は癒される心です。悪霊はそのような人には近付かないでしょう。こうしてすべての嵐はなぎに変わります。