397 ふれあう喜び

聖書箇所 [マタイの福音書20章20ー28節]

 私は以前小鳥を飼っていたことがあります。観察しているとおおむね二つの事しかしていないと思いました。えさを食べることと、ふんをすること。同じ「生きる」という言い方をするのに随分と私たち人間とは違うものだなあと思いました。違いの根拠は何でしょうか。それは神さまが「いのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)のは人間だからです。そしてこれが今回のテーマである、ふれあいの原点です。私たち人間はふれあいなくして「生きる」ことができません。そのふれあいは三種類ありますので順に学んで参りましょう。

母なるもの

 母性のことです。あなたには母性とのふれあいが必要です。母性の特徴は何でしょうか。あたたかさ、温もり、といったところでしょうか。このような雰囲気を持った人の周りにはまるで蟻が砂糖に群がるように集まります。いかに人々はこのようなものを求めているかが証明されているでしょう。ハーロウの実験をご存じでしょうか。針金で作った二体の代理母を生まれて間もないアカゲザルの前に用意します。哺乳瓶を取り付け、その点不自由はありません。代理母の一方は毛布で覆います。どちらを小猿は好むでしょうか、という実験です。たびたび彼は毛皮に包まれた方にしがみついていました。これはたかが猿の話ではないかという意見もあります。アメリカの精神分析学者エリクソンは「基本的信頼」に注目しました。母体の中にいる時期と生後8ヶ月を足した1年半の間に母親から基本的信頼を学ぶと良いと言います。彼はこう表現しています。

 「生まれて3ヶ月位の赤ん坊が安らかに眠り、安心しておっぱいを飲み、くつろいで便通をし、お母さんに抱かれて天使のようなほほ笑みを浮かべる、そのような状況が現出してきている時にその母子間には、基本的信頼が現出しているのだ」。……フロム・ライヒマンという女性の精神科医が、「精神病を作る母親」という問題を研究しています。どういうタイプの母親が、精神病患者を子どもに持つようになるかというと、一言で言えばそれは不安になりやすい母親である。(『心の病気と福音』赤星進)。

母なるものとのふれあいがあなたに平安を与え、あなたに次のようなことを思わせるのです。「私はここにいていいのだ、私の居場所はここなんだ、一つのアイディアがある、失敗しそう、でもきっと私の周りのみんなはあたたかく私を受け入れてくれるだろう」。私はこのような母性を提供する務めが教会にはあるだろう、なければならないと考えています。ところで人間の提供する母性には限界があります。被造物としての能力の限界と罪を内に持っている(教会と言いますが、実態は罪人たちの集まりです)ことから来る限界です。それが端的に現れたのが20節と21節に見られる母の姿です。抜け駆けであり、談合の提案です。真の母性とのふれあいはどこにあるのでしょうか。自分の欠点(最悪のものは罪です)を自ら認識しつつ、イエスさまにそのまま受け入れられていることを知ることです。これが神さまから来る母性です。

父なるもの

 これは父性です。父性の特徴は何でしょうか。次は筑波大学教授杉原一昭の書いたものです。

 ヨチヨチ歩きの一歳6ヶ月の子が、おもちゃにつまずき「ドテン」と転んだ。周りの大人たちが「あっ!」「大丈夫?」と叫んだとき、その母親は唇に手をやり、何も言わないようにと合図した。その理由は、子供は周りの大きな声にびっくりして泣くようになるし、第一、転んだのは注意が足りなかったからだ、ということであった。そういえば「子供が転んだり、頭にこぶをこしらえたり、鼻血を出したり、指を切ったりしても、私はあわてて子供のそばにかけよるようなことはしないで、そっとしておく」とルソーは「エミール」の中で強調していた。転んだとき、周りの大人が大きな声で反応すれば子供の痛みは倍加される。さらに「この時期においてこそ、人は勇気を持つことを最初に学びとり、すこしばかりの苦しみを恐れずに耐え忍んで、やがてはもっと大きな苦しみに耐えることを学びとる」(エミール岩波文庫)のである。

 ここに母性と父性の特徴の差が表現されているのではないでしょうか。子供が痛みを覚えているときに、母性は一緒に痛みを感じ、すぐにその場に駆け付ける、父性は「その痛みから学び取れ」と一歩引く。こう言いますと女性たちから反論が来そうです。分かっています。その反論は正しいのです。一般論を言っただけです。男女二人の関係を単に二人の関係と見るのではなく、4人と考えた方がいいとはよく言われます。男性の中に女性性(ユングはこれをアニマと呼びました)がありますし、女性の中に男性性(同様にアミムス)があるからです。要は中に含まれている分量の差です。さて父性は結局のところ、何を私たちに提供するのでしょうか。それは人生に祝福をもたらすルールや法則ややり方などです。ここに父性とのふれあいの大切さがあります。どんなことにも成功するためのやり方があります。ただがむしゃらにやっていればいいというわけではありません。ただ単に努力すれば報われるわけではありません。聖書において父性が表された、最高の印象的な場面は十戒の授与でしょう。出エジプト記20章附近をご覧下さい。なんという迫力! 「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(20:3)。今の時代、お父さんたちにはこう言ってほしいものです。「この家は私が取り仕切る」と。イエスさまも父に従われました。ゆえに高く高く上げられました(23、ピリピ2:5-11)。

 

人なるもの

 人とのふれあいが豊かな人ほど豊かな人生をおくることができるでしょう。このことは反対に考えてみればすぐに分かります。人とのふれあいがゼロの人はもはや生きてはいません。赤ちゃんはお母さんとのふれあいで生まれて来、両親とのふれあいがあって、その命を存続することが出来ます。さて人とのふれあいのポイントは何でしょうか。それは自分と他者との違いを承認していること。ふれあいとは違いとのふれあいです。人間関係の悪い人はこのことを理解するのが不得手です。「私はこう考えているのだから、相手も同様に考えているだろう」と、なかば自動的にそう判断しています。そしてそれにふさわしい行動を期待し、裏切られま怒り出します。このことをくり返すので人間関係に大変疲れますし、容易に悪化します。前提に誤りがあります。「同じように考える、行動するはず」という思い込みが問題です。甘えが強すぎます。この誤った前提をまず捨てなければなりません。世界に一人といえども同じ人はいません。異なった性格、考え、行動で一人一人の個性は作られています。これが人と正しくふれあうためのポイントです。では具体的にはどのようにふれあうことができるでしょうか。ひとつアイディアをご紹介しましょう。それは出会ったときに「こんにちは」、あるいは「おはよう」のあとに、一言添えることです。「こんにちは」も「おはよう」も人によって違いがあるわけではありません。違いはそのあとです。イエスさまがこれが得意でした。マタイの福音書28章9、10節をご覧下さい。そして人の子(イエスさまのこと)が来たのは仕えるためではなく、仕えるためです」(28)というおことばを思い出してください。ここに人とのふれあいの現場があります。ちょっとして思いやりの心のなせるわざです。