398 天の父が完全なように

聖書箇所 [マタイの福音書5章48節]

 今回はマタイの福音書5章48節を中心に学びましょう。きっと多くの方が、「天の父が完全なのは分かる。でも私という人間が果たして完全であり得るのだろうか?」と思って読まれるのではないでしょうか。「完全な(である)」と訳された語はギリシア語ではテレイオスでこの節には二回使われています。ところで何が完全であることが求められているのかと言えば文脈(特に38ー44節)から判断して敵を愛することであると理解してなんら問題はないでしょう。とするといっそう懐疑的になってしまうかもしれません。単なる励ましのことばかなと。眉唾で聞いておけばいいかなと。でもそんなことをしたら大変です。イエス・キリストは私のことばを行いなさいとおっしゃっています。7章24、26節をお読み下さい。まず完全の意味を、そして私たちは完全であり得るのですから、どのようにしたらそれは可能なのか、学びましょう。

求められている完全は律法においてであることは文脈から明らかでしょう。律法とは神の法律です。人間の作る法律は誤りを含み、地域、時代、状況などによって異なりますし、またそれゆえに改正がなされます。しかし神の法律には誤りはなく、永遠に不変です。ここには私たち人間の希望があります。かつては罪でなかったものが突然罪と判定されても困ります。つまり簡単に基準が変更されても困ります。神の法律にはこのようなことは決してありません。さて完全には二つの要素があります。?愛において完全。5章39ー42節をご覧下さい。そして45節が模範です。なんと父なる神は寛容なお方でしょうか。そしてイエス・キリストが地上に来られた使命は5章17節に明らかです。すなわち律法を完全に満足させること。?欠けがない。宗教的には犠牲の動物に傷がない事を指します。人格に於いては徳において欠けがないことを指します。たとえば19章21節をご覧下さい。愛において徳において完全な人はいかに神さまに近いことでしょう。

続いてどのようにしたら完全を獲得できるのかを学びましょう。

天の父に関して良いイメージをしっかりと心に刻み付ける

 5章45節をお読み下さい。これが天の父の正しいイメージです。まかり間違ってもマタイの福音書25章24、25節のようなイメージを抱いてしまってはいけません。抱いてしまった人は恐ろしさとともに自分の人生を過ごさなければなりません。その恐ろしさとは自分の人生への悪い予感です。「私は天の父から強く強く愛されている」と心にしっかりと刻み付けねばなりません。そうするときに私たちの心にあるトラウマ(傷)が癒されて行きます。完璧な育児をした親など、人間であるかぎりあり得ないので、人間であるならだれでもが幼児期に心に傷を受けています。これが大きかったりしますと、自分自身や自分の人生への否定的な印象や評価を育てて行きます。愛されている意識が大切です。

以下の記事をお読み下さい。

 1997年2月から5月にかけて神戸市で起きた連続殺傷事件……中学三年だった容疑者の少年の弁護団長を務めた野口善國さん(52)が昨年末「それでも少年を罰しますか」(共同通信社)という本を出版しました。その中で「もっとも根本的な問題は、少年が愛されている感情を持てなかったことである」と書いている。「親の愛」ということを何度も述べている。「両親、特に母親は、子どもにとって初めての他人である。この初めての他人が自分を優しく包み、肯定してくれることによって、人間に対する信頼感がわき、自分自身を肯定することができ、自信や勇気が生じるのである」「親から愛された体験こそが、子どもの心にとっては一番の宝なのだ」そして、「重大な問題をかかえている少年らの親は90%以上夫婦仲が悪い」と、どきりするような指摘もある。小学校の男性教諭の体験を聞いた。初めて一年生を受け持った時のことだ。「席に座って勉強しよう」と言っても、何人もが「いやだ」と言う。「外で遊びたい」と言う。そこで先生は思った。「心の中の気持ちを正直に出すこの姿こそが子どもの本当の姿なのだ。これまで子どもに強いてきたことがなんと多かったことか」と。外で遊びたい子には、気持ちが落ち着くまで外で遊ばせるようにした。しかし教室の授業を外で遊ぶよりもっと楽しいものにしようと思った。学校の中を探検しながら、しり取りで一枚一枚の紙に言葉を書き、列車に見立ててレールを伸ばしていく授業もした。三ヶ月もすると、みんな落ち着いて席に座るようになったという。(読売新聞1999年2月24日号)

人間の親から愛されることも重要、しかし同時に天の父からも愛されている、しかも強力に愛されていることをあなたの心にしっかりと刻みつけてください。

祈る

 なぜ祈ることが必要でしょうか。完全であることが難しいことであるからです。神さまの介入が必要です。もう一回質問。なぜ祈りが必要でしょうか。答え、命令だけでなく、約束であるから。「完全でありなさい」はギリシア語において命令形であることと同時に未来形です。特に後者に注目したいのです。未来形が使われているということは、命令の中身が現実に与えられる、ことを表しています。たとえばマタイの福音書1章21節をご覧下さい。「その名をイエスとつけなさい」とあり、25節でその通りに成就したことが分かります。あなたが「完全でありなさい」という命令を信仰によって受け止めるとき、あなたは現実に完全にされます。 アクセノフの物語をしましょう。

  今から青年ほど前のこと、ロシアのウラジミールという小さな町に、イワン・アクセノフという若い商人が住んでいました。血色のいい陽気な男で、実直に商売をして稼ぐ合間には、好きなギターを弾いて、敢を歌うのが何よりの楽しみでした。ある夏のことです。アクセノフは、例年のように首都の大市に出かけ(ようとし)ました。途中、ニジニという町に近づいた頃、彼は知り合いの商人と出会いました。二人はその夜、一緒の宿をとりました。アクセノフはすぐに休みました。隣部屋の商人も寝たようでした。翌朝、アクセノフは早くに目が覚めました。隣の客も起きているかな?トントン、ドアを叩いてみました。何の応答もありません。「一足先に、涼しい早朝の内に出発しよう」。アクセノフは早朝に出発、一日路を馬車を走らせて次の町に着きました。と、そこへ砂塵を巻き上げ地響きを立てて、三頭立ての馬車が走り込んできました。何事が起こつたのだろう?町中の人々が飛び出して来ました。アクセノフが見ていると、バラバラと飛び降りた屈強な男たちが、アクセノフを見とめるや、やにわに彼の所に走ってきて、取り囲みました。「おい、我々は警察の者だ。お前を調べるぞ!」。「おれを調べる?一体、何を調べると言うのだ?」「黙れ!調べればわかるんだ」と言うや、アクセノフのカバンをガバッと開けました。血がべっとりとついたナイフが飛び出して来ました。アクセノフはぴっくりしました。弁解すればするほど状況は不利になり、アクセノフはやがて裁判所に送られました。彼は、「私は殺さなかった」と必死に叫びましたが、その抗弁も通らず、ついに恐ろしいシベリアに無期懲役ということになりました。「ああ、誰か一人でもいい、自分の真実を信じてくれる者はいないのか!」と呻き叫びました。いよいよシベリアに流刑される前夜、妻が生まれたばかりの乳飲み子をかかえて面会に来ました。面会時間は一〇分間、誰も信じてくれないが、この妻だけは、オレの潔白を信じてくれていると思っていました。しかし次の瞬間、妻の語った一つの言葉が、アクセノフを奈落の底に突き落としました。「あなた、あなたは本当に人を殺したりしたの? ね、私にだけは真実をおっししゃって」。アクセノフは、もう失神して倒れそうになりました。やがて看守にせき立てられ、よろめくように去っていく妻の後ろ姿、その姿を見送りながらアクセノフは、「ああ、最愛の妻でさえ、オレを信じてくれない。」。アクセノフはわめき、泣き続け、冷たい獄の床板の上をはいずりまわっていました。彼の内なる良心は、人生の矛盾、この世の矛盾に対して封肺をぶちまけていました。今日はシベリアに流される日、もう涙も枯れ果てて、彼はただボンヤリ壁坐にもたれて光を見つめていました。と、突然、閃くようにも、囁くようにも、彼に一つの言葉が心の中に追って来るのを覚えました。いわく、「神は何もかもご存じである!」(?ヨハネ3・20)。アクセノフの心の中に怒涛のような光となり、音となり、生命の嵐となって広がっていきました。(それ)からというもの、もう杜誰も恨まなくなり、床の上で毎夜祈るのでした。それから、いつしか26年の長い年月が経ちました。彼はもう60の坂を過ぎていました。しかし彼が人を恨まず、世を呪わず、ただ神に祈る人となりますと、彼の風貌も変わつてきました。彼の姿を見ると、人は神々しい聖者の姿を連想しました。監獄の中にある会堂で讃美敢を歌うときは、大変愉しそうでした。彼が救うその声は、若い時と同様に朗々として、若々しく澄んでいました。……ある日のこと、ドヤドヤと新しく囚人たちが送り込まれてきました。古くからいる何人たちは、彼らを取り巻いてどこから来た、何の罪で送られてきたと、根掘り葉掘り聞くのでした。その新入りの4人の中に、60くらいの、ゴマ塩頭の角張った顔をした男がいました。「おい、お前は何をやってんだ?」。荒くれ男たちがニヤニヤ笑いながら聞きました。「オレはな、実につまらねぇ目に合ったのさ。盗みもしない馬を、みんなで寄ってたかって、オレが盗んだことにされちまつたのさ。それでシベリヤ送りとは、ひでえこった」。「するってぇと、お前さん、無実の罪だつて言いたいわけか?」「まあ、この罪に射しては焦実だ.ただオレはな、もう26年前になるかな、ちょっと悪いことをしてな、当たり前なら、その時ここに送られるはずだつたんだが、うまい具合にのがれた。ところが今度は、盗みもしねぇのに捕まって、こうやって送られてくるなんて、考えてみりゃ、運命って分からねぇものよ」「ところでお前はどこから来た?」「オレか。ウラジミールだよ」。そのとき、隅っこで一人静かに聖書を読んでいたアクセノフは、キッとなりました。ウラジミール?「もう少し聞くが、で、そのあと、アクセノフが無実だつたという噂は、立たなかったのか?」「立つもんかね。証拠の品がカバンから出てきたじゃないか。また朝早く出発しているし、身分不相応の大金を持っていた。これだけ証拠がそろえば、仕方があるめえ。そりやオレがアクセノフのカバンの中にナイフを投げ込んでおいたとしてもだ。そこまでは裁判官にゃあ分かるめえ」。そういってその男はニヤリと笑いました。アクセノフはすべてを聞いたのです。あのときの犯人は、こいつだ!それを知り、それを思うと、彼の体中の全血液が逆流して、全身がワナワナと震えてきたのです以来、あの祈り深かったアクセノフ、聖者と言われた彼でしたが、どうしても祈れなくなってしまいました。「あいつだ、あいつだ」そう思うと、今までの汁い信仰もガタガタと崩れ去っていくのを感じました。もう祈れなくなつてしまつた。一体これはどうしたことだろうか。畜生、何もかもあの男のためだ!いや、そんなことは思ってはいけない。思い直して祈ろうとします。しかし、いらいらと燃え上がってくる憤怒は、抑えるすべもありませんでした。さて、二潰間ほど経った夜中でした.アクセノフは漢範囚ですから、どこを歩いてもよい.彼はその夜、どうしても眠れないで、♯の中を歩いていました。すると、ある一箇所で土が掘られているのを発見しました。「はてな?」と、突然、アクセノフの腕をガッとつかんだ者がいました.「オレだ。マカールだ。わかってるだろうな。おいッ、黙っていたら今にお前も逃がしてやる。だが、バラしたら生かしちゃおかねぇぞ」。マカールは脱獄の準備をしていたのです。暗闇の中でマカールの頻が純くゆがんで笑いました。「おぼえがあるさ。しかし、オレが自白でもしない 醍り、今さらどうにもなるめえ。えっ、アクセノフ!とにかく今夜のことは黙っているのが身のためだぞ」マカールは夜霧に消えていきました。翌日になって、けたたましく非常召集がかかりました。脱獄の穴が発見されたからです。全囚人が並ばされ、一人一人「お前か?」と言って、厳しい尋問を受けました。しかし皆が「知らない」と青います.女後にアクセノフ、この人は曳獄など到底する人ではないとは患うものの、看守長は念のため尋ねました。「アクセノフさん、あんたは知ってなさるか?」黙って答えません。「知っていなさるのか?」「ハイ、知っています」。「なにッ、知っている?誰だッ」。アクセノフはマカールの方をチラツと見ました。一言、「マカール」と言えば、彼はその場で銃殺されます。そうすれば自分が手をかけずとも、今復讐できるのです。なにを躊躇する必要があるでしよう。「アクセノフ、言え!」。26年の死の恨みを今こそ晴らせるというのに、アクセノフは悩みました。沈黙が続きました。やがて彼は重々しく言いました。「申し上げられません」。「なんだとッ」。「なぜって、私もわからない。神様が言うな、とおっしやる」。「神様が?」「そうです。神様がそう言われる。しかし、あなたが無理にでも私に言わせたいのなら、仕方がない。私をその者の代わりに殺して下さい」。そう言って一歩、前に出ました。その凛として巨木のような神々しい姿に、看守長はたじたじとなって、「ア、アクセノフさん、あんたを撃つわけにはゆかん。あんた一人のお陰で、この荒くれ者たちが、どんなに静かに納まつていることか。よろしい。あんたがそうまで言うのなら、犯人はあなたにまかせるとして、今度だけは何事もなかつたことにしよう」。その夜、アクセノフは昼間のことを思い出して、なかなか眠れませんでした。マカール、オレの運命を狂わしたマカール!昼間、彼をかばつてやった。しかし、オレは心の底から本当に彼を赦しているのだろうか。看守長が、オレを銃殺するはずがないことを見越した上でかばつたのではなかったか。オレの本当の心は、マカールが憎い。彼を殺したい。そうだ、心の中ではとうにマカールを殺している。それなのになぜ、私は彼をかばつたのか?アクセノフの心は、歯ぎしりしたいくらい、千々に乱れました。彼はうなされて、ベッドの上で一晩中、寝返りをうつのでした。&夜がふけた頃、ベッドの傍らにそっと一人の男の影が立ちました。「マカールか?これ以上わしに、何の用で来た?」部屋をすっぽりと包む時間は、呼吸の一つ一つが聞き分けられるほどでした。と、突然、枯れ木がくずおれるように、ベッドにマカールが倒れてきて、むせぴながら叫びました。「アクセノフさん、赦して下さい。わたしを赦して下さい」「何を赦せ、と言うんだ?マカール」「オレは、あの商人を殺した。そして金を奪った。それだけじやない。オレはあんたも殺して、金を奪おうとして、あんたの部屋にも忍び込んだのです。しかし、そのとき外で騒がしい音が起こつた。それで驚いて逃げだしたんです。逃げ出す時に、あんたのカバンの中にナイフを放り込んだのです。アクセノフさん、あんたを殺そうとしたオレを、そして26年間恐ろしいシベリアに閉じこめたこのオレをこの悪い奴を、あんたはかばって『代わりに自分を殺してくれ』と言われた。アクセノフさん、この極悪なオレも、今日という今日は、本当に目が覚めました。オレは決心しました。26年前の真犯人がオレだったことを裁判所に届けます」。「届ける?」「はい、届けたら、あんたの無実が証明され、赦免状が来るはずです。せめて、アクセノフさん、どうかオレの罪を赦して下さ い」「マカールさん、あんたは『今日という今日、本当に目が覚めた』と言われたけれども、今日、目が覚めたのは、わしだ。わしはあんたをかばった。けれども腹の中では煮えくり返るような気持ちだったのだ。落ち着かなかった。眠れなかつた。悪いのは、わしだ。あんたは自白するという。もし自白したら必ず死刑になる。それなのに、あんたは偉い。わしは目が党めた。わしは26年間、聖者ヅラをして来たけれども、本当は真犯人を心の中で憎んでいたのだ。マカールさん、神様の日から見れば、あんたよりわしの方が百倍も悪い人間かも知れぬてーーああ、もうあんたの心だけで、わしは十分だ。もう自白などせんでほしい」。しかし翌朝、マカールは、アクセノフに黙って看守長を訪ねました。自白などせんでほしいと言われて いたマカールでしたが、彼は看守長に一切を自白しました。そのとき、鬼のような看守長も、「そうだったか.いや、そうだったろう。あのアクセノフさんが、人殺しをするはずがない。そうだったのか。とにかくマカール、お前の自白は、上司に報告しなければなるまい」。やがて、一ケ月あまり経った時、イワン・アクセノフの焦実を征明する赦免状が届きました。今こそアクセノフは、晴れて流刑の地から故郷に帰ることができる身となりました。しかし看守長がそれを伝達しようとした時、アクセノフは、あの日以来一ケ月寝ついたままでしたが、その夜明けを待たず、魂は天国に帰って静かな休みに入りました。(『レムナント』1998年9月号)

 私はアクセノフの中に完全を見ました。あなたはどのような感想をお持ちになったでしょうか。

キリストとともに歩む

5章17節、そして7章12節などに律法という言葉が登場します。いずれも私たちの持っている旧約聖書を指します。律法と預言者と諸々、律法と預言者、律法、といずれの呼び方も正解ですが、一言で律法と言ったりします。でも旧約聖書のすべてが律法の条文を記した部分であるわけではありません。さらに律法はヘブル語ではトーラーと言いますが、ヤーラーという動詞に起源があり、その意味は教える、投げるです。そしてもう一つ。テレイオスの名詞形テロスはゴールの意味があります。つまり「律法において完全」とは生き方自体において完全を問うことであることが分かります。つまり正しいゴールに到着するような生き方をしていれば、それは完全な生き方ということができます。あなたは正しいゴールを目指して生きていらっしゃるでしょうか。正しいゴールとは天国です。ちょうどその歩みはマラソンのようです。途中、咽が乾けば、足がつることもあります。完走は難しいかなと弱気になることもあるでしょう。はてはライバルがつぶれればいいなあーとさえ思うかも知れません。でも完走すればテレイオスな走りです。私たちの人生に於いて、不信仰の時もあれば、大きな失敗をするときもあります。しかしキリストが伴奏して下さるとき、安全です。すべての罪を、失敗を、問題をそのつど解決して下さるからです。