399 見事成功!ヨルダン渡河作戦

聖書箇所 [ヨシュア記3ー4章]

 いよいよイスラエル人がヨルダン川を渡ろうとする場面です。彼らの心の中には期待と不安が入り交じります。確かに神さまがくださると約束してくださったのだから、ヨルダン以西の土地を入手できることは間違いがない、ないはずです。でも現実を見ますと、つい彼らは臆病になります。あなたはいかがでしょうか。日々の祝福を、ご自分の人生全体への祝福を信じていらっしゃるでしょうか。しっかりと。でも不安がある?積極的生きようとする者にはきっと宿命なのです。今回は大きな困難に直面した、しかしそれを克服した彼らの成功例から学びましょう。

契約の箱を先頭にする[3章3節]

 契約の箱には何が入っているのでしょうか。十戒です。出エジプト記20章1節からお読み下さい。特に6節。ここには神さまの戒めを守ることの利益が説明されています。そうです。神さまは戒めを守る者を祝福してくださいます。戒めはルールとも云います。私たちの住む世界は神さまのルールによって動いています。手から物を落とせば下に落ちて行きます。重力の法則が働きています。罪を犯した人はいつまでも何かに追いかけられます。何かとは?それは罰。逃げても逃げても追いかけられます。では追い掛けられなくなることは全く不可能なことなのでしょうか。可能です。これにもルールがあります。罪がないと最高裁判所で認められればいいのです。
 父なる神さまはイエスさまのあがないにより、あなたの罪をないものと認めて下さいました。あなたは晴れて自由の身になりました。私たちが祝福されないのは、この世界のルールをお造りになり、今もそれを働かせておられる神さまのルールに従わないからです。逆に従うなら最も効率良く目標に到達できます。困難も乗り越えることができます。
 そのためには契約の箱を全面に押し立てること、すなわち旗色を鮮明にすることです。私は天地の造り主なる神さまを信じて生きて行きます、と。 

 「君は仕事をとるのか、それとも信仰をとるのか。もし信仰をとるというのであれば、揚合によっては止めなければならないようなことが起きるかもしれないよ」本社に呼ばれた三谷康人さんは、そう問いただされた。鐘紡(株)の人事課長。歴史の長いこの大手紡績会社には亡くなった従業員を祭る鐘紡神社が全工場にあった。各工場では毎月一日、課長以上がその社内神社に集まり、従業員の安全を祈願していた。家族主義的な日本の企業ではよくあることだ。人事課長は、その安全祈願祭を司会する責任者である。一九六二年、……洗礼を受けた。とたんに、聖書の十戒の言葉が心に浮かんだ。「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」……受洗から八年。……信仰の目が開かれるとすぐに、それまで当然の職務として携わっていた安全祈願祭が、創造主なる神の意思に反すると気づいた。工場長に以降、祈願祭に欠席することを申し出た。全工場が人事課長を中心に毎月欠かさず励行している安全祈願祭を、大垣工場の人事課長がしなくなったという事件は、すぐに社内に知れ渡った。人事のかなめである人事課長が、その職務の一部を放棄したのである。これは、鐘紡の歴史の中でも前代未聞の出来事であった。そこで、本社から呼び出しを受けた。仕事をとるか、信仰をとるかー迷わず「信仰をとります。と答えたこの時の決断が、その後のサラリーマン人生を大きく変えることになった。……鐘紡(株)筆頭専務、カネボウ薬品(株)社長、会長を勤めた三谷康人氏のあかし『会社でキリスト最優先』(クリスチャン新聞1999年5月2日号)

身を聖める[3章5節]

 この節でヨシュアは身を聖めたら、成功する、と約束しています。不安がいっぱいの人々に対して彼はリーダーとして立派に振る舞っています。それにしても胃の痛くなる役割です。でもこれがリーダーの真実の姿でなくてはいけないでしょう。強力なリーダーが今日求められています。
 ところで「身を聖める」とは?それは動機を聖めること、です。よく自分の考えを押し付ける人がいますが、そのような人は自分の考えや生き方に自信がないのです。内側に、隠された動機があります。他者を利用しようとする思いです。自分の欲求不満解消や目標達成のために目の前の人を利用するのです。

 15世紀にイタリアが生んだレオナルド・ダ・ビンチがある時、最後の晩餐の絵を書くように依頼されました。右に左に6人ずつ弟子たちを描いて行きました。そしてイエスさまを中心に。イエスさまは銀の盃を手にしておられます。彼は友人に批評してもらいました。友人は言いました「これはすばらしい絵だ」。「そうか、どこがいい?」。「何と言っても、イエスさまが手に持っておられる銀の盃がすばらしい!」。これを聞くや、彼は即座に銀の盃を絵の具で消してしまいました。彼にはイエスさま以外に中心は考えられなかったのです。

 イエスさまを心の中心に置けば、いつも私たちは聖められた動機で人に接することができ、目標を掲げることができます。参考になる祈りは「主の祈り」です。この祈りによって私たちの動機は聖められるでしょう。 

 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:9、10)

 これをアッシジの聖フランシスコはこう祈りました。
 「主よ。私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、私が求めますように。私たちは、与えるから受け、赦すから赦され、自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから」

敵は追い払われると信じる[3章9、10節]

 イスラエル人の前には強力な敵がいます。彼らが恐れをなしたのは無理からぬことでした。ヨルダン川の向こうには、たとえ無事に渡ることができたとしても、戦車を持った民がいました。一方イスラエル人は山地で戦う、ゲリラ的な装備でしかありません。大人と子どもの差がそこにはありました。
 私たちも困難を前に不安に陥ることがあります。敵はとてつもなく大きく見えます。もう勝ち目は無いと私たちは思います。実は敵は内にあり、です。劣等感、自己嫌悪感、無力感、無能感など。これは霊的な戦いです。あなたの心は敵であるサタンの攻撃を受けています。信仰が消えかかっているようです。ここで神さまの力を使わなければなりません。
 こういう質問もあります。なぜサタンなんかいるのか。なぜ神さまは彼の存在を働きを許しておられるのか。最後の日には良い麦と悪い麦とが分別されます。羊と山羊も同様です。それぞれ天国と地獄へとというふうに運命が定めれております。しかし地上においてはともに生きています。羊飼いは自分の羊の健康を守るために数十頭につき一頭の山羊を入れておくそうです。すると山羊たちが羊たちを散らし、擦り寄るのを防ぐことができるので、毛を刈るまで羊は健康が保たれ、毛の質も悪くならないというのです。私たちはときどきサタンを利用して目を覚ました方がいいのでしょう。敵は追い払われる、という信仰を育てるためのいくつかの知恵があります。
 1)恵まれる礼拝をする。
 2)明るく、元気になる讃美歌を歌ったり、聞いたりする。
 3)励まされる交わりに参加する。

あかしをする[3章12節]

 さあ、ついに奇跡が起きました。ヨルダン川の底が見え、そこをイスラエル人は渡ることができました。出エジプトの時に紅海において同じようなことが起きました。次のような報告があります。 

 紅海の海面が割れて水が引き、ユダヤ人がエジプトから脱出できたとする、旧約聖書の記述が、実際にも起こり得ることを研究者らが複雑なコンピューター計算を行うことにより裏づけ、米国気象学会誌発表した。フロリダ州立大の海洋学者とロードアイランド大の気象学者の共同研究の成果で、海洋と大気の相互作用を考慮した結果数値計算により、毎時72キロ(毎秒20メートル)の北東の強烈な風が約10時間にわたって吹き続けると、紅海北部(スエズ湾)の海面が3メートルほど露出するという。また、ここで急に風向きが変わると、旧約聖書が描いたように、海水が追跡者を襲うように戻ってくると指摘している。(読売新聞1992年3月16日号)

 たった一言、主は奇跡をなさった、と言えば済むことでもあります。いずれにしても不思議なことが起きたものです。あなたの人生にも不思議なことが主によって起こされます。そのためにはあかしをしてください。各部族一人ずつで12人が「私たちは主の戦いに参加します」と立ち上がりました。その後に奇跡が起きました。あかしをするとなぜ不思議なことが起きるのでしょうか。それはあなたの中の小さなからし種(マタイ17:20)ほどの信仰が膨らむからです。膨らむ保証があるから、からし種ほどの小ささでも私たちの信仰には何の問題もありません。有名な歴史家のトインビーがこういうことを言っています。文明の衰退は不可抗ではない。つまり避け得る。創造的(想像的)な少数者が新たなアイディアを言い出し、周囲が感化され、その輪が大きくなっていく場合にあり得る。この見解は聖書的です。もしあなたが主からアイディアをいただいて、勇気を持って告白するなら、すなわちあかしをするなら、良い結果が生じるのです。今、あなたが素敵なアイディアをいただくために必要なのは、あなたがイエスさまの愛を個人的に知ることです。あなたの為に十字架で死んで下さったイエスさまの愛を。

 フィリップケラーが書いた「羊飼いが見た詩篇23篇」という詩を紹介しましょう。

 羊はひっくり返ると、自分では起きあがることができない。そのままにしておくと、猛獣の餌食になってしまう。私の毎日は羊が倒れていないかを見ることだ。重い肥えた長い毛の羊は一番倒れやすい。寝返りをうっているうちに戻れなくなる。あわててあがくが、もっと体が回転してしまう。さらに横になっている間にガスがお腹にたまる。それが膨張すると血の巡りが悪くなる。暑い日なら2、3時開で死んでしまう。私は倒れた羊を見うけるとやさしく起こす。手足をさすり、血の巡りを良くして立たせる。毛が多い羊は、泥やふんやゴミをとり、毛を刈る。羊は私がいないと生きていけないのだ。

 イエスさまはあなたの羊飼いです。やさしいやさしいあなたの羊飼いです。あなたに語りかけてくださいます。いろいろなことを教えてくださいます。

神さまの豊かな祝福があなたにありますように。