100.カオスからコスモスへ

聖書箇所 [創世記1−3章]

 今回は神さまによる天地創造の意味を学びましょう。
 単刀直入に言いましょう。カオスからコスモスへ、です。カオスとは「土地は形がなく、何もなかった」(2)状態、すなわち混沌であり無秩序の状態です。コスモスとは宇宙などと訳されますが、本来は秩序の意味です。
 あなたに今、秩序がありますか。日常の生活や人生の中に。もしないなら、神さまの出番があります。あなたのカオスは解消され、美しいコスモスがあなたの中に生まれます。
 今回はあなたの中に生まれるコスモスがどのようなものであるかを学びましょう。

歴史

 天地創造の順序が創世記の冒頭に記録されています。
 第1日目に光が(1:3-5)、第2日目に大空が(6-8)、第3日目に地と海、および草、植物、果樹が造られました(9-13)。第4日目に太陽、月、星が(14-16)、第5日目に魚と鳥が(20-23)、第6日目に野の獣、家畜、はうもの、そして人間が造られました(24-31)。非常に整然としています。決して偶然や思いつきなどではないことがわかります。
 この場面で秩序をもう一つ指摘すれば、第1日目と第3日目が、第2日目と第4日目が、第3日目と第5日目がそれぞれ対応していることです。このように神さまの優秀な頭脳によって立派にデザインされた設計図面に従って世界の歴史は出発しました。これはあなたの人生においても同様であることを教えています。神さまはあなたに使命を、神さまと力を合わせてこの地上でなすべきテーマを用意しておられます。

 アグネスはユーゴスラビアの商家に生まれました。1910年のことです。
 12歳のとき彼女はユーゴスラビアからインドへ多くの人々が宣教師として派遣されていることを知ります。「なぜなんだろう・・・?」と首をかしげている彼女に神父は答えました。「そこにはおおぜいの貧しい人たちが私たちを待っているからですよ!私たちの使命はキリストのいのちをこのような人たちに上げることです」。
 18歳のとき彼女はバプテスマを受け、テレサという名前をもらいます。翌年インドで高校の教師になりますが、「おおぜいの貧しい人たちが私たちを待っているからですよ!」ということばが彼女の心を捕らえて離しません。
 38歳のとき、医療看護の研修を受けたテレサは一人カルカッタのスラム街に入り、子どもや病人の面倒を見ることを始めます。
 あるときテレサは行き倒れのおばあさんを病院に連れて行こうとしました。しかし「どうせ死ぬ。私みたいのはカルカッタには何百人もいるンだ。」と言われ、これを契機にテレサは「死を待つ人の家」を始めます。行き倒れの人々を、ただ死を待つだけの人々の体をていねいに拭いてあげ、粗末ではあるけれども清潔な服を着せてやり、ベッドに寝かせる。そして彼女は「あなたは神さまに愛されている、とっても大切な人!」と手を握り、話しかけました。テレサを見て、仏教徒は「あなたの宗教は本物だ」と言い、ヒンズー教の僧侶は「私が30年間仕えて来た女神カリーがここにいる!」と言います。

 だれもがマザーテレサである必要はありません。いまあなたの使命は育児であるかもしれません。会社におけるその仕事であるかもしれません。イエスさまと波長を合わせるときにあなたはそれを知るようになり、そのときあなたの中にコスモスがあります。あなたの自分史はすばらしいものになるでしょう。

信仰生活

 「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。……』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(1:26、27)。
 神さまはあなたの親、あなたは神さまの子どもであり、親子関係にあることが分かります。親子とは実によく似ています。親子にはふたつの自然な関係があるでしょう。一緒に生活することと会話をすること。あなたは会話をしていますか?あなたは一緒にいますか?誰と?もちろん、あなたの神さまとです。今、私はあなたの信仰生活の状況についてお尋ねしています。良好な信仰生活が営まれているときにあなたの心に慰めが、励ましが、平安が、いやしが、そして希望が常にあります。これこそコスモスです。あなたの中にコスモスがあるときにあなたの周囲にもコスモスは広がって行きます。石を投げた後に、ちょうど波紋が広がるように。そうでないときには夫婦喧嘩があり、他の人との間に憎み合いと殺し合いがあります。「あなたはどこにいるのか?」(3:8)とは信仰生活を放棄してしまったアダムとエバとへの警告でした。
 心理学の実験にこのようなものがあります。まず「みなさん、私はあの人が嫌い、と思う人の名前を30秒間にできるだけ多く書き出してください」と課題を与えます。1人しか思い付かない人あり、10人もの名前書く人あり、と様々ですが、この調査で分かることは一番多く嫌いな人の名前を書き出した人が一番みなから嫌われている人であったということです。
 ある壮年の方がストレッチャーに乗せられ手術室に向かっていました。とても不安でたまらないので、同行している手術医の手を握り、こう言いました。「先生、私、不安なのです。私にとって今日が生まれてはじめての手術なのです」。彼はこう答えました。「そんなこと言わないでください。私だって不安です。今回が私にとってはじめての手術なのですから」
 互いに嫌いという感情や不安を持って生活しているとき、互いに伝染しあい、そこにはコスモスは存在しにくいと言えるでしょう。このコスモスは生まれながらの人間には入手不可能です。ここに神さまの出番があります。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(3:21)。動物を殺し、すなわち血を流さなければ、皮を得ることはできません。これはイエスさまのあがないを預言した聖句です。あなたが心にあがない主イエスさまを受け入れるとき、すなわちイエスさまの血を流すとき、罪の排除を実現するとき、コスモスがあなたの中に生まれ、そして宿ります。

生活のルール

 生活のルールとは何でしょうか。それは「人こそ大切!」というものです。「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。・・・」(1:28-29)。
 人間は万物の霊長であって。世界に人間ほど大切に取り扱われなければならないものはないと教えています。その具体的なやり方はこうです。「その後、神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう』」(2:18)。両者の関係を新約聖書はもっと明確に述べています。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」(エペソ5:21-33)。
 人同士、互いに愛し、従うこと。これこそ互いに人を大切に取り扱う具体的な方法です。もしあなたが人から悪意を持って取り扱われたらこう言ってください。「私を大切に取り扱ってください!」。あなたにはそのように言う権利があります。その権利はあなたのものです。でもこのことも忘れないでください。あなたの隣にいる人も前にいる人もあなたが持っているのと同様の権利があることを。
 『小説現代』(1997年8月号)誌上でショートショートコンテストの第一席に選ばれたのが木村巌作『仲間外れ』。なかなか含蓄のあるこの作品にはトランプの王様が4人登場します。
  ひげがないのはだれか?剣を持たないのはだれか?一人だけ右を向いているのはだれか?どの設問にも、一人だけ仲間外れがいます。すべての条件を満たした王様が一人だけいて、この王様だけは仲間外れにしようがない、と思ったとたん、「あなただけ、一度も仲間外れにならなかったじゃない」と、それが仲間外れの条件になります。

 何をお話したいかと言いますと、私たち人間は罪深い存在であって、他者には「ルールを守れよ!」と言いつつ、自分は守ることが得意ではない性質を持っていることを、です。

人の生きる道

 他の被造物は比較的簡単に造られています。でも人間はそうではありません。準備万端整ってから、用意周到におもむろに人間のデビューがあります。そうです。人間とは手間ひまかけられてしかるべき存在です。
 私たちは互いにつき合うときに手間ひまをかけましょう。そして期待しましょう。もっと大きくなる、もっと成長する、もっと豊かになると。ではその目標は?「神のかたち」(1:26、27)です。私たちの「神のかたち」は今傷ついています。「かたち」とは何でしょうか。それは義と聖(エペソ4:24)です。
 私たちは愛さなければならないと分かっていて愛することに失敗します。それと同じように聖くあろうと決意していてもそうできないことがあります。また人を赦(許)すことが正義であると分かっていてもできなかったりします。こうして自己嫌悪感に陥ります。これはカオスの状態です。でもカオスであると認めることによって、それをあなたの成長のためのスタート台とすることができます。あなたが「神のかたち」を回復したいとお思いになるときあなたの中にコスモスはスタートするのです。

 ドイツの大統領だったリヒャルト・フォン・ワイツゼッカーによる有名な演説があります。これはドイツ敗戦4十周年にあたってなされたものです。この中で、彼はナチス時代にドイツ人全体の罪を明確に認めてこう言っています。一部を紹介しましょう。
 「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかも過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。・・・(中略)・・・心に刻むというのは、歴史における神のみ業を目のあたりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となることへの信仰、和解への信仰を生み出すのであります。」(「荒れ野の40年』岩波ブックレットNo.55、永井清彦訳)


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