102.神への接近マニュアル

聖書箇所 [レビ記全体、各段落ごとに表示]

 ゴールデンウイークなどには多くの人々が行楽地へと向かいますね。お金も時間もかかるのに。なぜなのでしょうか。学者によると、人々は非日常空間を求めているからなのだそうです。確かにディズニーランドへ行くと、なるほどと思わせられる光景を目にします。大の大人が真顔でミッキーマウスの帽子をかぶってにこにこしています。もしこの帽子をかぶって通勤したらいったいどんなことが起きるのでしょうか。
 私たちには今までとは違う、新しい世界で、今までとは違う、新しい自分を生きたい欲求が在ります。もっとわくわくする自分、感動する自分を見たいのです。これは神へもっと近付きたい気持ちの現れということができます。パウロは「信仰から信仰へ」(ローマ1:17)と表現しました。ワンランク上の世界へ、です。本来イスラエル人に与えられたレビ記にはこのような私たちの気持ちと欲求に応えたいという神さまの思いが込められています。そして20世紀に生きるあなたにもこの書物は有効です。今回の題は「神への接近マニュアル」。そうです。レビ記はこのような目的を持った書物です。

多少とも痛みが必要[1章2節]

 1章2節をご覧下さい。この文章を原意に忠実に訳しますと、こうです。「もし主にささげものをする時は、あなた(自身)から、家畜の中から、牛か羊(これらは今日金銭に相当します)を・・・」 特に「あなた(自身)から、家畜の中から」とはヘブル人の得意の言い回しで並行法と言い、同じ内容を少し違った言い方で列ねるものです。たとえば詩篇118篇25節などです。したがってこの2つは同じことを表現していると見ることができます。すなわち「家畜の中から」とは「野生ではない、手塩にかけて育てたものの中から」、それは「あなた自身の一部になっているほどのものから」です。つまり多少とも痛みを伴わせる、犠牲を払う必要が求められています。このような話があります。
 ある金持ちが、残された子どもたちが遺産争いをしないようにと遺言を書き、亡くなりました。長男にはどんなに遠くてもよく見える双眼鏡、次男にはどんな遠い所にも瞬時に到達できるじゅうたん、末っ子には食べたらどんな願いもかなうりんご一個。
 長男があるとき双眼鏡を覗いていて1つの事を知りました。ある国の王女が国中の名医も直せないひん死の病の床にあり、王が「私の娘を直した者には嫁としてやろう、次の王に任命しよう」とおふれを出していました。さっそく長男は2人に呼び掛け、空飛ぶじゅうたんに乗って、末っ子のりんごを食べさせ王女の病気は直りました。3人ともそれぞれが私こそ王女と結婚するにふさわしいと主張しましたが、さあ、ここで問題。3人の中でだれが一番犠牲を払ったでしょうか。
 もしあなたが神に接近したいと強い願いがあるなら、きっとそのために多少の犠牲は払うことができるでしょう。そして犠牲を払っているそのときにあなたは新しい自分を経験しています。こういう状況を考えてみてください。
 あなたは会社を終えていつもの自宅最寄りの駅に着きました。バスに乗ります。でもふと気がつきました。「あっ、あの人、今、入院している!」。あなたは途中で下車してお見舞いに出掛けます。いつもより余計疲れて帰宅したあなたはさらにいつもより遅いお風呂に入らなくてはいけません、冷めた食事を食べなければなりません。でもきっとあなたは神さまを経験していらっしゃるに違いありません。熱い心になっているに違いありません。

情熱の火[6章8−13節]

 6章8節から13節では祭壇に於て、いけにえを焼く儀式が表現されております。特徴的な表現として、「燃え続け・・・燃え続けさせ・・・消してはならない・・・」とあります。それは明らかに祭壇の上の火に関してです。
 でももう一つの火があります。新改訳聖書で「そこで」と訳されている語は、「その内側で」であり、「彼の内側で」、つまり「祭司の内側で」と訳せます。つまり火はささげる行為と言う形式上のみならず、ささげる者自身の内側に於ても燃えている必要であると教えています。
 あなたの内側は燃えていますか。情熱を持って生きていますか。もしそうであるとき、あなたはかなり神さまに接近しています。ところで情熱の火と言いますが、火の起源は。もちろんすべての良いものは神さまによって創造されたのですから、いつか神さまによって造られたはずです。光と同じエネルギーですから、「光あれ!」(創世記1:3)と言われた、あのときであるかも知れません。でも聖書にははっきりと書いてないので分かりません。
 さて、ちょっと話を戻して「アダムの不安」の話をしましょう。
 神さまは6日間で世界を、そしてその最後の日に最初の人間であるアダムとエバをお造りになりました。アダムにとってはすべてが初体験でしたが、なによりも彼を不安がらせたのが暗闇でした。すべてが見えない。漆黒の闇の中に吸い込まれそうな感じがして恐ろしくなりました。このとき思いやりあふれる神さまは2つの石をプレゼントなさった、それが火打ち石。もちろんこれは伝説。でもこのような話の舞台は安息日の前後です。6日間は働き、次の日は休むという安息日の規定が旧約聖書にはあります。出エジプト記35章3節をご覧下さい。「火を使ってはいけない」とは「働いてはいけない」の意味です。今日日曜日における礼拝の心構えを教えています。日曜日は「あなたが存在する」ことに、それ以外の日(平日)は「あなたが働く」ことに光を当てる日であることを教えています。どうか意味するところを汲んで下さい。
 私たちの世界は何ができるか、どんな能力を持っているかによって人間の価値を測る世界です。これがあなたを疲れさせます。元気をあなたから失わせます。日曜日にあなたが礼拝するとき、あなたは自分の存在そのものに光を当てるべきです。「私は存在するだけで価値がある。存在そのものに価値がある」と知らなければなりません。あなたは神のかたちに造られた(創世記1:26、27)かけがえのない存在です。このことへの理解があなたの中で進むときにあなたの中に情熱の火が燃え上がります。
 「一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」とは1969年7月アポロ11号で月面に第一歩を記したアームストロング船長の有名なことばです。でもわずか20分後にオルドリン飛行士も降り立っています。彼はその後こう言いました。「月面に降り立ったのはあいつだけじゃあーないぜ!」
 もう一つ。2人の科学者が利口さを競っていました。片方が言いました「そんなに言うなら、君の理論を検証してみようじゃあーないか」「さ、落としてみるよ、パンの片面にバターを塗ると必ずバターを塗った方が表になるんだな、えっ」。落としました。ところがバターを塗った面が下になり、ベチャ。「君の理論はいい加減だ!」もう片方が言いました。「やっぱり、君は私よりも愚かだ!君は反対側にバターを塗ったんだよ!」
 なぜこんなことを書いたか分かって下さい。あなたに「私、ここにいます!」とだれがなんと言おうが叫んで欲しいからです。無視されやすい時代にあなたは生きているのではありませんか。あなたは神さまに愛されて今日も生きてください。生きるには多少のたくましさが必要です。

隣人を愛する[19章18節]

 これは旧約と新約聖書を通じて非常に大切な戒めです。ところで多くのクリスチャンに誤解があります。隣人とはだれかです。結論を言いましょう。決して困っている人、通りがかりの人ではありません。隣人とは恩のある人です。つまり「隣人を愛せよ」とは見ず知らずの人を愛せよではなく、恩知らずはいけない、の意味です。詳しくはルカの福音書10章36節の定義をご覧下さい。
 ところでこの、「隣人を愛する」ことが難しい。普段つきあっている、身近にいる人であるだけに、つい甘えもあって、愛する事が難しい。むしろ遠い国のことであれば、「仲良くするのよーっ、平和が一番!」と叫べばそれですむ。でも身近な人となると・・・。そこで聖書の助言。「自分を愛する」ことをそれ以前の課題とするのが利口です。私たちは生まれながらに愛を持っていない、持っていなければ、他者に与えることは不可能です。人は受けたものを与えるものです。
 よく人の欠点ばかりをあげつらう人がいます。なぜかと言うと、そういう教育を受けて来たからです。反対に両親から愛されて育った人は比較的温かい目で人を見ます。人は受けたものを与えます。もう一度私たちは自らを育て直すことが必要です。
 イエスさまはあなたを、そうです、欠点だらけのあなたをそのまま受け入れて下さいました。一番の欠点は罪でしょう。でも十字架があります、思い出してください。さらに欲を言えば、あなたの欠点を承知の上で交際してくれる友人を持つことです。実は教会の信仰の友が相当するはずです。愛される経験の中であなたの中の「隣人を愛する」楽しみは増して行きます。あなたは他者を愛しているとき、最高に神さまに接近しています。


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