105.第二の救い主

聖書箇所 [マタイの福音書26章67、68節、ヘブル人への手紙4章15、16節]

 あなたはご自分の人生について真面目にお考えになっていらっしゃる方であると思います。ところで救い主イエス・キリストの人生は世界とあなたを罪から、そして罪から派生するあらゆる災いから救うための人生です。したがって栄光の人生と言うことができます。
 ところが、と言うべきか当然と言うべきか、ご苦労の多い人生でもありました。マタイの福音書の26章67節、27章2、3、26、28、29、30、31、35、37節など痛ましいかぎりです。ぶん殴られ、唾を吐きかけられ、びんたされ、まったくみじめなお姿です。もしかするとあなたはご自分の人生を思い、実は私もそうなんだと共鳴されるところがあるかも知れません。イエス・キリストがお受けになった仕打ちを分類し整理したあとで、このような人生である場合に、いったいどう生きたらいいのかをご一緒に考えましょう。

まず分類してみましょう

1 人格侮辱

 マタイの福音書5章22節をお読みください。ゲヘナとは地獄のことです。
 さて決して人に向かって「ばか」などのことばを使用してはいけません。それは人格を侮辱することです。あなたにはきっとこのような経験が一度はおありでしょう。思い出してください。いかにあなたの心が傷つけられたか。その他にも、いやみを言われる、悪口を言いふらされる、足を引っぱられるなどなど。
 ある人たちは◯◯の名前を引っぱり出して来て、「◯◯さんはこんなにも立派に出来ているのに、あなたはどうしてこの程度なの?」と比較をして責めたりします。
 特に戦後の日本では間違った平等主義が広まってしまいました。すなわち「人間の能力は平等だ」というもの。決してそんなことはありません。少なくとも聖書ではそうは教えてはいません。人それぞれに違った能力(賜物、あるいはタレント)が与えられており、さらにその能力にもレベル差があります。これらの組み合わせがその人の個性となります。
 たった一種類の基準で目の前の人を測るようなやり方はまったく人を侮辱したやり方です。なぜその基準を採用したのか、その根拠を示すべきです。その根拠が妥当でない場合は受け入れる必要は私たちにはまったくありません。

2 自分が大切にしているものに対する侮辱

 マルコの福音書15章29ー31節をお読みください。イエス・キリストは「救い主」というご自分の使命がけなされる経験をしておられます。「なんだ、つまらない仕事だなー、つまらない奉仕だなあー」と他者に向かって言うことはまったく失礼なことです。人は言われるときひどく傷つけられます。ある人たちは自分に向けても同様のことをします。良くないことです。自分の大切にしているものに対して尊敬や誇りを持つべきです。

3 身体への圧迫

 現代の日本においてはこのようなことはほとんど考えられないことでしょう(?)。もしかすると今もどこかで起きているかも知れません。ご存じのとおりイエス・キリストは槍で刺し抜かれました。傷口から血が流れ落ち、土の上は真っ赤に染まりました。

4 信頼していた者による裏切り

 一番弟子ペテロと会計係ユダにイエス・キリストは裏切られました。どのようなお気持であったでしょうか。あなたにはこのような経験がおありでしょうか。やりきれなさ、まさかという思い・・・。

ではこのように苦労多い人生をどう生きたら?

 私の好きな実存主義心理学者ビクター・フランクルはこう言います。「幸福を追い続けてばかりいると、幸福は逃げる」、「幸福を意識する、そのとき幸福そのものが消える」。
 ではどうすればいいのか。「幸福を追い続けるのではなくて、ただ、今、なすべきことをせよ。そうすれば結果として幸福は手にはいる」。
 ヘブル人への手紙4章15節をご覧ください。あなたはきっと慰められるでしょう。人間には2種類あると言われます。幸福な人と不幸な人、感謝する人と不平を言う人、平安な人とぶつぶつばかり言う人。後者の特徴はどんな説明を聞いても、「でもー、・・・」。私はあなたがそのような反応をしない方であると信じます。「でもー、・・・」と言うとき、神さまがあなたを愛してせっかく親切にあなたの目の前に置いてくださったすべてのチャンスを逃します。

では、次に、「今、あなたのすべきこと」を次に見てみましょう。

1 人を赦す

 あなたを責めた人を、裁いた人を赦すことです。しかし肉の、すなわち生まれながらの人間にはそのような力はありませんので、聖霊の神さまの助けをいただかねばなりません。そのための環境作りを提案しましょう。それは人の心を知ることです。まずあなたはあなたを責め裁いている人の目を見るべきです。目は心の窓です。目からあなたは彼の心の状態を知ることができます。
 どんな状態でしょうか。彼は怒っています。精神分析の創始者であるフロイトはこう言っています。「怒り、それは『私は愛されていない』という確信から来る。『助けてほしい』と思っていたのに、助けてくれなかったという確信から来る」。
 もしあなたがこのような実情を彼の中に発見することができるなら、あなたがすべきことはただ一つ。赦すことです。「父よ。・・・彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)。自分の行っていることを自分で理解しないで行っている、とするなら彼は哀れみの対象ではありませんか。「可哀相に!」とあなたは同情すべきでしょう。こうしてあなたは聖霊さまの働きやすい人格をいただき、あなたは赦すことができます。

2 ペースを変える

 中国に「孟母三遷の教え」があります。少しでも環境の良いところで大切な我が子を育てたいという母の、そして親の心です。でも場所を変えればいいというものでもありません。しっかりとした方針は堅持しなければなりません。とすればこれはペースを変えるべしという教えではないでしょうか。
 マタイの福音書13章53節−58節をお読みください。イエス・キリストはどのような人々をも平等に愛する気持ちとともに郷里へ向かわれました。奇蹟をプレゼントしたいとお考えでした。これは彼の普段のペースでした。でも人々の反応は冷たいものでしたので彼は方向を変えられました。すなわちペースを変えられました。
 あなたも旅行や趣味やスポーツなどで気分転換をしてみてはいかがですか。相性の悪い関係というものもあります。そのような場合に無理をして近くにいない方がいいでしょう。離れていた方が利口です。関係を良くするために消費されるエネルギー(しかもこれがなんと膨大な量であるか)を他の方面に向けてはいかがでしょうか。嫁姑の関係も、聖書によれば同居することから起きます。離れていれば仲良くできるものです。創世記2章24節を参照してください。

3 断食し、祈る

 弟子たちが「私たちにはどうして悪霊を追い出すことができないのでしょうか」と質問をしました。マルコの福音書9章29節をお読みください。満腹のときに人は霊的に鈍くなるものです。どうか断食をしてみてください。あなたは新しい世界を見るでしょう。経験するでしょう。あなたの中には神さまの力がみなぎるでしょう。

4 仲間作り

 イエス・キリストの最初のお仕事は仲間作りのためのリクルート作戦でした。以来常にそばに置いて使命を同じくしようと寝食をともにされました。残念なことに彼らはイエス・キリストの人生において一番たいへんな時期に頼りにはなりませんでしたが(マタイ26:36−46)、彼が神の子であるという特殊事情を考えれば仕方のないことかも知れません。あまりにもレベルが違いすぎました。でも私たちは互いに同じ罪を持った、弱い存在であり、きっと助けあうことができるでしょう。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15) 悲しみは半分に喜びは倍になるでしょう。さあ、最後は決定的な提案です。

5 第2の救い主になる

 あなたは人生の意味をお尋ねになるでしょうか。「私が生きる意味は?」再びフランクルに登場してもらいましょう。彼はこう言います。「人生の意味は何か?」と人は問う。しかし人生が人に問うている。それに人は答えなければならない(『医師による魂の癒し』)。
 フランクルが言う「人生からの問い」とは「与えられているなすべきことをせよ、満たすべき意味を発見し実現せよ」という要請です。実際にはあなたがしてくれるのを待っている人の期待に応えることとして現れます。そして彼はこのような実例をあげます。苛酷な収容所という環境の中で、一人の科学者は大事な子どもが父親である自分の帰りを待っている、そしてもう一人は未完成の論文が完成を待っている、これらが彼らの自殺を思い留まらせた。
 ところであなたの目の前にある、なすべきこととは何でしょうか。きっと人それぞれにいろいろなことを言うことができるでしょう。どれも立派なことに違いないと私は考えます。しかし最も大切なこととして聖書の提案、すなわち福音を伝えること、十字架と復活を内容とする福音を伝えること、と言いたいのです。だれかがあなたによって福音を伝えてもらうことを待ち望んでいます。そしてもしあなたが福音をその人に伝えるならイエス・キリストに次いで、その人にとってあなたは第二の救い主になります。もう一度言います。あなたが口を開くことをだれかが待っています。


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