111.デバリーム

聖書箇所 [申命記全体]

 デバリーム、聞きなれない語ですね。日本語では「ことば」(1:1)と訳され、この書物のヘブル語名です。だれのことばであるかは同節でお分かりでしょう。モーセです。そして40年間率いてきた同胞イスラエル人たちへの別れのことばです。
 死期が迫っていました。使命の終了が迫っていました。この立派な辞世の書物を開くとき、彼は「ことばの人」と誰もが思うに違いありません。
 しかし聖書をよく知っている皆さんは「私はことばの人ではありません」(出エジプト記4:10)というモーセによる神さまへのかつての弁明を思い出されることでしょう。そうです。40年の歳月は彼を「ことばの人」に変えていました。でもこれは口がうまい、という程度のものではありません。彼は行動の人です。40年間、行動、行動で生きて来ました。行動の実績のある人です。そういう人が話したことば、重みのあることば、それがデバリームです。聞くに値することばです。一言で何を言っているのでしょうか。「あなたは命を選びなさい」(30:19、20)です。
 ユダヤ人精神分析家エ−リッヒ・フロムはこの部分をこう解釈しました。「私たち人間は自殺でもしない限り、生死を選択することはできない。したがってこれは原理、原則、価値を言っている」。その通りです。肉体年令が若くても老いた人がいます。柔軟性が欠け、顔には笑顔がありません。夢もありません。口を開けば否定的なことばっかり。死んでいます。真の命を持つ者は愛することに、そして愛されることに喜びを感じています。希望と夢は常にあり、考え方や生き方は前向きです。「あなたは命を選びなさい」とは高品質の人生を選びなさい、です。その具体的なことについてモーセの言うことに耳を傾けましょう。

家族を大切に[30章19節]

 家族を無視した生き方は間違った生き方です。19節では祝福が及ぶ範囲は「あなた」ではなく、「あなたの子孫」とあり、家庭を想定しています。
 21章18−21節にわがままな子どもの話があります。恐ろしいことに町の長老に渡して石打の刑に処しなさい、と言っています。なんという驚くべきことが言われているのでしょう。
 あなたはこのようなことが実際に行われたとお思いですか。このような素朴な質問に答えるためには文脈を無視するわけにはいきません。「神はいない」と聖書は確かに言ってはいますが、その直後に「愚か者は・・・と言っている」(詩篇14:1)とあります。文脈ですから、あまり離れ過ぎてもいけません。21章10節から14節をまず見てみると、戦争で捕虜にした女性たちの中から気に入った者を娶った結果作られた家庭、しかも気に入らなくなったら離婚。15節では夫が2人の妻を持ち、偏愛をしている家庭。このような家庭からいったいどのような子どもが育って行くのでしょうか。
 この箇所を解釈するカギは18節から20節にかけて父母が幾度となく登場していることであり、必ず父がはじめに言及されていることです。これは子どもに対する教育権は父親にあるからです。父親は権威を持って家庭を治め、子どもを従わせなければなりません。こうして幸福な家庭は築かれて行きます。
 人は時間、空間、人間(ジンカンと読む)という3つの間で生きると言われます。人間の中で生きて人間は人間になります。しかしそれで人間として十分であるかと言いますと、全く不十分です。幸せな家庭が必要です。幸せな家庭の中で育てられて人間は幸せになります。
 若乃花が横綱に昇進して(1998年初夏)インタビューにこう答えていました。「一番大切なものですか? うーん、ほんとうは仕事、と言わなければならないのでしょうが、家庭ですね!」。そうです。その通りです。家庭こそ大事です。私たちは家族との時間を惜しんではいけません。教会生活においても会議や委員会などは交わりの次でなければなりません。家族にとって重要なのは一家団欒の時なのです。

正しくあれ![16章18節]

 「さばきつかさ」は裁判官や判事であり、「つかさ」は行政官です。前者は社会で起きる事柄を正しく裁き、後者がそれを実現します。後者については警察官が一番身近で分かりやすいでしょうか。強制力、特に武力で正義を実現します。したがって両者ともに存在しないと社会の秩序は乱れます。
 しかし「あなたのために」、あるいは「あなた自身のために」という、日本語の聖書に欠けた句があります。まずあなた自身を裁きなさい、自分自身を正しなさい、という神さまのメッセージです。世の中には人の欠点をあげつらってばかりの人がいます。何か事があると人を責めます。
 隣の住人が怒鳴り込んで来ました。「雪が私の家の庭に落ちて来る!」。でも同じことを自分がしていることにその人は気付いていませんでした。しかも木の枝をその都度折っていたことを、さらにそれが何年間も続いていたことを。これこそ罪人の弱さです。
 逆のケースもあります。すなわち自分を責めてばかりいる人もいます。「私はダメな人間だ!私には何の取り柄もない!」一日中、年がら年中自分を責めています。なんというバランスの悪さでしょうか。私たちは振り子のように振れますが、それも振幅が大きいのです。バランスが重要です。
 レビ記19章18節をご覧ください。「あなたの隣人を愛せよ」の「を」を「自分を」と、「レ」という一つの前置詞で括っています。と言うことは「自分を愛する」ことは聖書のメッセージではないという主張は間違いである事が分かります(ちなみに「神を愛する」場合の前置詞は「エット」です)。ここにバランスを保つことの秘訣が隠されています。つまり自分の中に愛を溜め、その分だけ人を愛せるというわけです。
 さらに申命記16章20節をご覧ください。「正義を、ただ正義を追い求めなさい」とあります。これは今述べたようにバランス感覚を磨きなさい、のメッセージです。教会には聖餐式というものがあります。イエスさまの死を記念して、イエスさまのおからだと血をそれぞれ象徴しているパンとぶどう液(またはぶどう酒)をいただくものです。この儀式にあずかる時には罪の悔い改めをします。この段階では私たちを劣等感やら罪責感やらで苦しめるだけです。しかし同時に心の耳で「あなたの罪は赦された!」(マルコ2:5)という宣言を聞くとき、あなたの中にバランスが回復されます。何事にもバランス感覚が大切です。

強く、雄々しくあれ![31章6−7節]

 モーセが荒野を40年間かけてイスラエル人の集団(300万人と言われる)を導いて来た結果得た一つの結論は、強く雄々しくなければならない、というものでした。その強さの条件は自制心とことばです。モーセは本来、今のことばで言うとキレル人でした。でももうそうではありません、ことばの人でした、しかも行動に裏打ちされたことばの人になりました。自分の力をまさにことばによって自制できるものになっていました。
 今日イスラエル国防軍に入隊した新兵には2つのものが与えられます。一つは銃で、もう一つは聖書(もちろん彼らの場合は旧約聖書、もっともこの呼び名はキリスト教徒の側から。彼らはタナックと呼びます)です。銃は力、そして聖書は正しい方向への道しるべです。今私たちは信仰という力を大いに活用し、力強く、かつ聖書によって正しく適切な方向へと進む人生を生きるべきです。

 今日モーセはいません。そしてこう言われています。「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった」(34:10)。今あなたを導く偉大なリーダーはイエス・キリストです。イエス・キリストにあってしっかりと信仰を持ち、真の高品質の人生を送られるよう祈ります。


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