112.神を飾る

聖書箇所 [各段落ごとに表示]

 神を飾る、とは聞きなれない題名であるし、文章でもあるでしょう。
 出エジプト記15章2節に「私はこの方をほめたたえる」とありますが、「ほめたたえる」を「飾る」と訳すことができます。
 ではどのような意味でしょうか。聞きなれている言い方としては「あなたはあなたの神、主の御声に聞き従わなければならない、すべての命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記13:18)というみことばを紹介することができます。
 もう少し砕いて説明しましょう。親が子どもを着飾るといったことがよくありますね。そのような意味に近いでしょう。決して義務ではありません、愛情と親密感とでつい飾りたくなるのが親というものです。そしてなによりもそこには飾る者の側に喜びがあります。
 旧約聖書が私たちに送る「神を飾る」という、このメッセージはこのような気持ちと多分に共通していると言えます。そうしてこのような両者の間柄であってこそ、あなたから見るならば、神さまとの関係がこのようであるとき、「主の名を呼ぶ」ことができ、「みな救われる」(ヨエル2:32)という約束にあずかることができます。
 
 それにしても神さまってどのようなご性質をお持ちの方なのでしょうか。いくつかをご紹介しましょう。

  • 1)創世記3章21節をお読み下さい。裸の人に着るものを提供しています。
  • 2)創世記18章1節をご覧下さい。サラは妊娠できない体、つまり病人でした。でもこれが癒されました。3人の旅人のうち一人は受肉(人となること)前のキリストと言われています。
  • 3)創世記25章11節をお読み下さい。父親を亡くし、涙にくれている息子を慰めておられます。
  • 4)申命記34章6節をお読み下さい。モーセを埋葬してくださいました。どうか一つのことに注目してください。

いずれも主語は神です。神さまは裸の者に着せ、病を癒し、肉親を亡くし悲しんでいる者を慰め、地上の人生を精一杯生きたねと言って労をねぎらってくださるお方です。もう少し整理して、この神さまのご性質を見てみましょう。

愛[創世記2章4節]

 この節によると世界(人間も含めて)は「神である主」によって造られました。「神」はヘブル語でエロヒム、「主」は「ヤーウエ」。前者は正義の、後者はやさしさのイメージです。もしこの世界を、すなわち人間を見るとき、正義によってであるならば、誰一人存在できないでしょう、その罪深さのゆえに。そこでヤーウエの神さまにより愛が私たちの世界に調合されたのです。
 出エジプト記20章5、6節をご覧下さい。5節だけを見ますと、なんと厳しい神さまかと思いますが、実は6節とのコントラストが注目されなければなりません。
 「千代」とありますが、ヘブル語ではアラーフィームであって、その意味は数千です。いかに神さまは愛が深いお方であるかが表現されているのです。もしあなたがこのような性質を受け取っていらっしゃるなら、あなたは多くの人から尊敬を勝ち取るでしょう。
 このようなことを学んでいたユダヤ人たちは初代教会を建て上げようと、最初の組織化の作業中、執事を選ぶときに「評判の良い人たち」(使徒6:3)という条件を付けました。特に指導者と名付けられる人たちにはこのことは必ず必要とされます。支持率が高い、人気があるなどという条件が。どのようにして私たちは愛を身につけることができるでしょうか。それは天に宝を積む意識を持って考え行動することです。つい私たちはすぐにお返しを求めます。そうではなく。
 イソップ童話に次のような話があります。狐が垣根越しにえさを見ています。残念ながら穴が一つあるだけ、おまけに小さい。そこで狐は3日間、断食をします。えさにありついた狐がたらふく食べました、そしていざ出ようとすると、なんと出られません。そこで3日間、断食をしました。これは私たち人間の人生を表しているのでしょう。赤ちゃんはしっかりと手を握って生まれて来ます。でも臨終の時、人は手を開いて世を去ります。地上にあるものはどれも死後の世界に持って行くことができません。天にこそ宝を積もう、という生き方をすべきです。

謙遜[イザヤ61章1節]

 ユダヤ人は天が七つもあると考えているようです。もちろんそれぞれ名前もあります。ヴィロン(イザヤ40:22)、ラーキーア(創世記1:17)、シュハキーム(詩篇78:23、24)、ズブール(第1列王記8:13)、マオン(申命記26:15)、マホン(第1列王記8:39)、アラーヴォット(詩篇68:4)です。これらが相互にどのような関係であるのかは分かりません。天にはいくつもの部屋があるのか、あるいは同心円状に広がっているのか。少なくとも3つあることは確認されています。パウロが訪問しましたから(第2コリント12:2)。
 皇帝ハドリアヌスが聖書学者の話にごうを煮やし、「そんなに言い張るなら、今ここに神を見せて見ろ!」と言い放ちました。「いいえ、それはできません」押し問答の末、聖書学者はこう言いました。「ではあの太陽をじいーっとご覧下さい」。時あたかも夏至の頃でした。皇帝は根を上げました。
 史上初の権力者ニムロデ(創世記10:8-10)とアブラハムとの間には次のような会話が言い伝えられています。
「偶像をおがみなさい!」「いいえ、それはできません」。
「ならば火を拝みなさい」「いいえ、それはできません。火を拝むなら、火を消すことのできる水を拝むべきです」。
「ならば、水をおがめ!」「いいえ、それはできません。水を拝むなら、水を含んだ雲を拝むべきです」
「ならば、雲をおがめ!」「いいえ、それはできません。雲を拝むなら、雲を吹き散らすことのできる風を拝むべきです」
「ならば、風をおがめ!」「いいえ、それはできません。風を拝むなら、風を吹くことのできる人間を拝むべきです」。
 何をお話したいかを読者はお分かりでしょう。神さまは実にスケールの大きいお方であることを、です。そして理性的に冷静に考えれば、私たち人間は神さまの存在を受け入れなければならないのです。でも多くの人がそうはしません。なぜでしょうか。感情があるからです。理性的な判断を感情が邪魔をします。感情はその主(ぬし)をして自分こそ王様だ!神様だ!と叫ばせます。
 しかしここで一つのことに注目したいのです。この世界においては大きい者や強い者は小さい者や弱い者をしいたげるということです。私は決してインドやパキスタンによる核実験を支持するわけではありませんが、5つの核保有国は自らの特権をその強さの故に決して手放そうとはしません。そればかりか弱い2国インドやパキスタンに核兵器を捨てるように圧力をかけています。ここには謙遜はありません。でも神さまは謙遜です。弱く知恵の足りない私たち人間に限りない愛情を傾けてくださっています。イザヤ書61章1節には謙遜な者に対する祝福が約束されています。「貧しい者」とは「控えめな者」のことです。「良い知らせ」は福音であり、あなたが問題で悩んでいるなら、それに対する解決の道が導かれることです。

聖さ[レビ記18章2節]

 人とは段違いの聖さが神さまにはあります。また聖さについて人間が有限の頭脳で考えてかつ有限の言語で表現しても自ずから限界があろうと言うものです。この場合いくつものことを書き連ねる以外に説明の方法はありません。
 ここでは一つのことを紹介しましょう。聖さとは「他者のために生きること」。いかがでしょうか。神さまはご自分で足りる方です。でもあなたを愛してくださっています。多くの犠牲をものともせず。ついには御子をさえ惜しまずに提供されました。
 あなたが聖いとき、あなたは神さまとともに生活することができます。あなたは神さまのご臨在の中を大胆に歩みます。平安があります。喜びがあります。笑いがあります。どうかそのために祈ってください。祈りは神さまとの交わり。あなたは神さまのご性質をいただくことができます。あなたの中に伝染して来ます。あなたの中の悪い性質は神さまの中に吸収され十字架において廃棄処分されます。あなたは聖くされて行きます。祈り方については哀歌3章41節をご覧下さい。「手をあげる」とは祈ること。そして手をあげることも、口を開くことも、形式としては簡単なことです。大切なのは、心、です。あなたは祈る時に、心、を差し上げていますか。どうか「私の心を差し上げます!」と言ってください、心から。あなたの中に聖さが生まれます。供給されます。
 さて、実際のところ、あなたはこのような神さまのご性質をどの程度受け取ることができるのでしょうか。もし充分に受け取ることができなければ、あなたは「神を飾る」ことができません、「デコレーションする」ことができません。あなたによって見事に「デコレーションさ」れた神さまを人々は見て、親しくなりたいと心底から思うものです。どうか心配しないでください。あなたの中にイエス・キリストがいらっしゃるとき、あなたの中に愛と謙遜と聖さとがあります。
 ヘブルへの手紙1章1節から3節をお読みください。私はここまで説明して来たことは1節そのものです。しかし今日、「終りの時には」(2節)、それは御子であるイエス・キリストによって成就したのです。あなたが大切なお方としてイエス・キリストを心に宿すとき、あなたの中に「神を飾る」材料を持つものです。


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