113.堕落、その後

聖書箇所 [創世記3章14節−4章1節]

 成功哲学者のナポレオン・ヒルが現代人には7つの不安・恐怖があるとし、その中に失敗への恐れがあると言いました。実際私たちは失敗をするものですね。もしかすると今日すでにしているかも。
 失敗したときにどんな態度をとるか。2つしかないでしょう。1つは逃げること。たとえば「あんな状況ではだれがやっても同じ結果さ!」、「やはり、おれはダメな人間なんだ・・・」、「そう言えば、お父さんもお母さんも言ってたなあー、あんたはいつもそうなんだから・・・」などなど、結局は自己嫌悪感に入り込む。でももう一つの道があります。それは戦うこと。「このままではいけない!」と考えて前向きな態度をとること。
 レオナルド・ダ・ビンチがこう言いました。「多くを知らない者は多く愛することはできない。愛は認識の娘である」。「多く愛する」ことの中には「自分を愛する」、すなわち自分を常に健全なあるいは健康な状態に保つことも含まれているでしょう。
 今回の聖書テキストは人間が堕落した(創世記3:1-13)後の状況を記したものです。堕落、それは大きな失敗でした。しかしその大きな失敗の後に原福音と呼ばれる神さまのメッセージ、みこころが提示されています。これを知ることが今回のテーマです。
 レオナルド・ダ・ビンチは「多くを知る」事を勧めましたが、ただ多ければいいのではなく、大切なことを知ることでなければいけないでしょう。私たち人間の霊が死んでいるとき、あるいは傷を負っているとき、前向きに考えることができません。大切なことを、すなわち神さまのみこころを知ることは霊を修理し、生き返らせます。

人間はサタンとは同盟関係にない[14、15節]

 神さまは誘惑者であるサタンに呪いを下すときに「こんなことをしたので」と根拠を示されたあとで、「一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない」(14)と言われました。へびはサタンの化身であり、いまでもかなり高く頭をもたげることができますが、堕落前の名残りでしょう、普通は地を這って進みます。これは低くされたことであり、屈辱を表します。このとき以来彼は日陰の存在です。また女性は一般にへびが嫌いです。霊的な無意識の中に嫌な思い出としてこれは女性の中にあります。
 ところで神さまに戦いを挑んだのは女とサタンでした。でも神さまが一方的にサタンを呪われたのは、両者が同盟関係にはないことを示しています。サタンの堕落はこのときに始まったことではなく、永遠の昔にあったことであり、以来彼は地獄へ道ずれにすべく仲間を増やそうと鵜の目鷹の目でした。こうしてエバがわなにはめられたのです。神さまに対しては両者は加害者ではありますが、この両者の関係だけを見ますと加害者と被害者であり、同盟関係にはありません。
 15節を説明しましょう。( )内は私の注です。「わたし(神)は、おまえ(サタン)と女(エバ、そして人間の意味も)との間に、また、おまえの子孫(サタン陣営)と女の子孫(人間陣営。そしてキリスト、なぜならば単数男性形)との間に、敵意を置く」。「敵意を置く」とは友好関係ではない、の意味です。
 ある人たちは、生活の中で、何か嫌なことや失敗があると、「私の人生は祝福されていない」と早合点します。サタンに関してはそれは正しいでしょう。でもあなたに関しては正しくない考えです。

耐えられない試練は与えられない[15ー19節]

 「彼(キリスト)は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえ(サタン)は、彼(キリスト)のかかとにかみつく」。これは美しい平行文節です。原文では次のような順序です「彼は、おまえを、砕く、頭を。おまえは、彼を(に)、かみつく、かかとに(を)」。修辞としては美しくてもその内容は天地の差ほどあります。傷を負う場所が「頭」と「かかと」では雲泥の差があります。「頭」では致命傷となり、「かかと」ではそうではありません。キリストは十字架で傷を受けられましたが、甦られました。そしてサタンは決定的な敗北をしました。
 試練はたとえどんなに厳しいものではあっても、あなたを滅ぼすことはありません。ちなみに「かみつく」を辞書で調べましたら、「かすり傷を負わせる」とありました。また「踏み砕き」は未完了形であり、反復継続を表しています。つまり試練はたとえどんなに厳しいものではあっても、かすり傷であってあなたを滅ぼすことはなく、あなたが試練で悩むつど、キリストはサタンを「踏み砕き」あなたを助けてくださいます。
 ところでどんな試練が待ち受けているのでしょうか。16節から19節にそれが記されております。性の差異に基づく悩みです。それは男性と女性のコミュニケーションギャップです。
 女性はその生理的機能において男性には理解できないものがあります。妊娠すること、妊娠中のこと、出産、育児、家庭の管理など。女性は一般に結婚や家庭に対して高い意識を持っていますが、男性は人生の通過点か一部という意識です。ここにすでにギャップが発生しています。こうして女性は「どうして、私の気持ちを分かってくれないの!?」と叫び、かつ苦しみます。すなわち妊娠すること、妊娠中のこと、出産、育児、家庭の管理などに苦痛が生じます。
 もちろん男性も同じせりふを発します、「なぜ、おれの気持ちが分からないんだ!?」。一生懸命に外で働いているのにです、家庭を妻子を守るために。17節では「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」と言われております。私はこう試訳しました、すなわち「あなたは過労死する」。一生懸命に働いた結果がこうでは、なんと情けない!
 でもあなたがキリストにあるとき、キリストの陣営に参加するとき、あなたは出会う試練を克服できます。イエス・キリストはあなたのすべての、受けるべき罰や呪いを身代わりに背負ってくださいました。あなたはもはや呪いを受け取るべきではありません。

それでも、命を求めるべき[19、20、24節、4章1節]

 この部分に「死ぬ」ということばはありません。「土に帰る」はあります。地上の死、すなわち生物学的を意味してはいないことが分かります。ここでは人生の死を教えています。こんな状況では人間失格だ!人間業廃業だ!というメッセージです。なんというきついことばでしょうか。でも私たちは現実から目を背けてはいけません。事実は事実です。「顔に汗して糧を得」とありますが、「顔」とは「鼻」のことです。汗は「鼻」の先っちょからポタポタ落ちます。
 もう一つ興味深いことは「鼻」にはもう一つの意味があって、それは「怒り」。確かにヘブル人は人が怒ったときに「鼻が膨らんだ」と言います。私たち人間は汗をかきかき一生懸命に働きますが、怒らせるほどにそれが徒労に終わることを教えています。「ついに」とはそれが人生の報酬である、の意味です。
 しかしちょっと待ってください。これが最終的な結論ではありません。20節を見てください。19節までは下る一方です。でも20節では「命」が登場します。「エバ」とはヘブル語で「ハバ」、「命」を意味します。文脈は偶然ではありません。明らかに神さまのお考えが反映されています。
 さらに4章1節では新しい命が誕生したことが記されています。この文章の流れの中に神さまの期待や思いを読み取らなければなりません。どんな場合でも「命」を求めるべき、どんな大きな失敗をしてもあきらめないでもう一度のチャンスを追い掛けるべきこと。

 どうか15節の原福音をあなたの中に受け入れてください。その中に示された神さまの温かいみこころを深く味わってください。神さまは私たち人間がこれ以上の落ち込みをしないようにケルビムと炎の剣とを置かれました(24節)。
 「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」(エゼキエル18:2)という聖句があります。先祖の素質は子孫に伝えられる、という意味です。親から暴力を受けた子どもは長じて暴力を振るう者になり、姑からいじめられたお嫁さんはやがて自分が姑になったときに同じようにすると言います。それ以外にも多くのものを私たちは先代から受け継ぎます。良いものは良い、でも悪いものを受け継ぐのです。このつながりを断ち切らなければなりません。霊の傷を癒さねばなりません。原福音がこのことを可能にしてくれます。現代社会で人気のある行動主義心理学は行動を変えれば心を変えることができると言います。真理が含まれていると思います。でも根本的には人間の霊を新しくしなければ、新しい行動も芝居であったりとどこかに歪みを生むのです。

 一人の未亡人が空しさを覚えて生活をしていました。彼女は教会で以上のことを学び、自分が新しくなったことを感じました。不思議に人を愛したい気持ちが内側に感じられるようになりました。フィリピンに里子を取り、だんだんと人数を増やして行きました。彼女は送られてくる手紙や成長記録を見るのが楽しみで楽しみでたまりません。彼女は思いました、「私は期待されている、私は人を愛することができる、私は世の中の役に立っているんだ」。おまけに事業も祝福されて行きました。彼女の霊が再生したのです。だから行動が前向きなものに変えられたのです。


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