114.強く生きよう

聖書箇所 [コロサイ人への手紙1章20−29節]

 おばあちゃんが自殺しました。遺書には「コーヒーを入れてくれなかった・・・」とありました。ある日一階の居間で賑やかな笑い声が聞こえ、おばあちゃんは降りて行って「ねえ、私にも、コーヒー、一杯、ちょうだい!」と言いました。でもだれも入れてくれないばかりか、振り向きもしませんでした。自殺をしたのはその夜のこと。コーヒーは単にきっかけ。長い間、家族から彼女は無視され続けていました。可哀想に、と思いつつ、それにしても、たった一杯のコーヒーのことで、人間って、なんと弱い・・・。家族の人たちもコーヒー一杯の配慮が、どうしてできなかったのか?などなど、考え込まされます。
 この話には明らかに人間の持つ弱さが示されています。私たちはきっとだれでも強くありたいと願っているのでしょう。あの時、もうちょっと勇気があれば・・・。もしそういう経験を持つならば、みかけはどうであれ、私たちは弱いと言えます。
 今回は代表的な「強い人」であるパウロからその強さの秘密を探りましょう。29節からは本来私たち人間には自分の中にその強さがあるわけではないことが分かります。

神と和解する[20−22節]

 私たちはなぜ不安なのでしょうか。なぜさまざまな悩みに苦しむのでしょうか。その原因は神さまと和解していないことにあります。いわば交戦状態です。こうして私たちは本来の大切な課題に取り組むことができません。ここに弱い人がいます。
 弱い人の一つの特徴は「吠える」ことです。「吠えて、噛み付き」ます。まるで犬のように自らの弱さを証明するように。でも本人はそれに気付いていません。このときスケープゴートが必要とされます。『広辞苑』で調べますと、「(聖書に見える『贖罪の山羊』の意)民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代わり。責任転嫁の政治技術で、多くは社会的弱者や政治的小集団が対象に選ばれる」とありました。これは本来、レビ記16章8ー10節にある「アザゼルの山羊」のことで、贖罪の日に一頭の山羊を選んで人の罪をそれに負わせ、悪霊の住む荒野(マタイ12:43)へ追いやるという、罪を処分する儀式に由来しています。
 しかし現代は『広辞苑』にあるように自分の中の欲求不満や葛藤を隠したり、そのはけ口とする意味があります。つまり不安やいらいらを抱えている人は身近に攻撃対象を得て、うさばらしをするのです。実はパウロがそうでした。かつて一生懸命にクリスチャンを迫害していました。内面の苦しさを反映した行動でした。本人も自分の強さを証明する行動であると思っていたでしょうし、周囲も彼を強い人であると見ていたでしょう。でも真実は逆でした。不安や葛藤の中身は劣等感意識(私は他の人々に比べて「人間として劣っている」という思い。これは必ずしも事実とは限りませんが、そう信じるものです)や「私の人生は祝福されていない」と堅く信じることなどです。クリスチャン生活を長く経験している人でもこのような意識にしっかりと囚われている人たちが少なくありません。このような人々はこのような事柄にそれなりに対応するために多大なエネルギーを消費しなければならず、自分が費いたいと思う事柄に費うことができません。こうして弱い人なのです。御子によって和解すべきです。
 それにしても不思議な和解です。通常は加害者が被害者宅に菓子折りでももって出向き、和解をお願いするものです。ところが、被害者である神さまの方が、加害者である私たちの住む世界に出掛けて来てくださり、すなわち神さまが人(イエスさま)となって、代わりに罰を受けますから和解しましょうと申し出てくださっております。
 神さまとあなたが和解なさるとき、あなたの中における争いは終わり、あなたは与えられた、エネルギーという一つの大切な資源を本来使うべき所、まざまな価値ある事柄に向けて自由に費うことができます。こうしてあなたは強い人へ変身します。

タレント(賜物)を生かす[23−25節]

 パウロのタレントは何でしょうか。23節と25節にそのことばがあります。「仕える」ことです。人々の幸せの為にサービスをすること。確かに彼にはその種の才能がありました。説教力(説得力や弁論力も)も文章力も抜群でした。彼はたくさんの手紙を書き、多くの人に希望を与えました。今日、新約聖書の中にはそのうちの13文書(このコロサイ人への手紙も含めて)が手紙として残っています。もっと他にもたくさん書きましたが。これらのタレントを十二分に活用して立派な業績を残しました。
 ただし彼はスムーズにすべての事を運んでいたと考えたら間違いです。あるとき、まだクリスチャンになって間もないときに彼は同僚のバルナバと一悶着起こしています。未熟でした。でも成長過程で起こしたことでした。
 大切なことがあります。私たちには成長欲求があるということです。もっと大きくなりたい、もっと上に上がりたい、もっと充実したいなどの思いがあなたにはあるはずです。それだけにこの欲求が阻害されるといらいらが募ります。
 いらいらさせるが、しかしやむを得ない事情が在るということは日常的なことです。子育てに忙しくてとか、会社の方針が適切でないとか。たとえそうであっても欲求不満に陥ることには違いはありません。これをほおっておくといろいろと面倒な問題が発生します。
 たとえば、ねたみ。三浦綾子さんの『聖書に見る人間の罪』の中にこういう話がありました。ある小学校で主席の子のお弁当箱の中に毒が入れられたのです。犯人は、というと、次席の子の母親であったというのです。なんというおそろしさ。ここには一つの適切でない考え方が背景にあると考えられます。それは「他者と比較して自分を評価する」というものです。病気になり苦しんでいるので慰めようと、友人がこう言いました、「たいへんだね。でも君よりももっとひどい、あのAさんを見てごらん。Aさんに比べたらまだまだいい方じゃないか」。親切心で発したことばであることは分かります。でも何か変。他人の不幸を土台にしています。逆に振って、恵まれている人を見たら余計落ち込むことになります。常に大きく左右に振れ、疲れる人生です。なにしろ私たちの周囲には実に多くの人がいるのですから。一人一人を見る度毎に落ち込んだり、元気になったりと。こうしてエネルギーは消耗されて行きます。弱い人がここにいます。
 私は教会に見えた方にこう言います。「あなたは何をしたいですか?」ピリピ人への手紙2章13、14節にはこうあります。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」。
 一人の人の中に「これがしたいなあー」という思いが神さまから与えられるというのです。いったいだれが反対できるでしょうか。反対する人は神さまに敵対しています。「これがしたいなあー」という思いはあなたに神さまから与えられたタレントを中心に組み立てられます。ですからタレントをまず認識することから始めなければなりません。あなたのタレント、得意は何ですか。どうかあなたの中に「喜び」(24)の種を見つけてください。パウロの助言に従うならば、辛い日々と見える中にも見い出すことは可能であるはずだからです。

 両手両足にそれぞれ一本しか指のない女性がいました。人並みに恋をし、両親に紹介する日がやってきました。彼女は緊張感もあったのでしょう。料理のお皿をテーブルまで運ぶ際についに落としてしました。あなたはこのときの彼女の気持ちをこのように想像なさったかも知れません。「やっぱり、指一本の私・・・」などと言うふうに。でも違うのです。「私って、不器用ねっ」と笑い飛ばしたのです。
 やがて結婚して2人の可愛い息子が与えられました。彼らもまた指が一本ずつでした。あるとき、4才になった弟がスーパーへ買い物をしたときのことです。レジで店員に向かってこう言っていました「あのね、僕の指、一本しかないの、これって神さま、わけあってこう造ったの」と。

 パウロは別のところでこう言っています。「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」(第1コリント7:24)。神さまはいつも最善をなさる、という信仰が大切です。少し前にサリンという恐ろしい毒ガスが地下鉄や住宅街で散布されました。多くの方がいまだに被害に苦しんでいます。そのサリンよりももっと毒性の強いものがあります。ご存知でしょうか。「ぶつぶつ」ガスです。サタンが使います。これは人間性を破壊します。周囲の人々をも巻き込んでいやーな思いにさせます。
 どうか現状に感謝して、あなたの中に良いものを見つけて下さい。タレントを見つけ、さらに磨いてください。どうしてこれが強い人間を作るのでしょうか。日本語にちょうど良い表現があります。「自分の土俵で戦う」。「他人の土俵へのこのこ出掛けて行くから負けやすいのです。がっかりしやすいのです。自分の土俵で活躍してください。あなたはいつも自分の得意の分野で溌溂としていられます。こういう人は強い人と言えるでしょう。

純粋な愛への挑戦[29節]

 私たちには人としての尊厳が必要です。良い意味に於てプライドが保護されねばなりません。これらを失った人間はもはや生きていることができません。あなたが親であるとして、「あなたは我が家には要らないのよ!」と自分の子どもに言う姿を想像できるでしょうか。私たちは互いに決して尊厳やプライドを傷つけるようなことをしてはいけません。これは人間としての礼儀であり、倫理です。このようなことは動物やロボットにはありません。人を殺しても、ロボットは悩みません。雄鳥たちが互いに戦い、もう一方を殺してしまっても、反省などしません。人間が人間であるのは倫理があるからです。「神のかたち」(創世記1:26、27)とはこのようなことを言います。
 ところで最高の倫理とは何でしょうか。愛です。この愛を持っているときに私たちは自分の行動や言動に自信を持つことができます。パウロは自分に自信があって28節や29節の台詞を吐いています。「愛は死よりも強い」(雅歌8:6)、そして「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(第1ヨハネ4:18)。したがってさらには純粋の愛をも求めるのが良いでしょう。なぜならもっと強いから。それにはイエスさまを見上げてください。人となったキリストを。この「キリストの力によって」あなたは強く生きられるのです。
 萩本欽一というコメディアンがいますね。彼はこういうことを話しています。「小学校の6年生の時にクラスで成績が一番になった。得意になっていると兄が私を叱った。『1番になったからといってえばるな。2番か3番でいいんだ。1番になると人が見えなくなるぞ』」。私は彼のやさしさの原点を見たような気がしました。
 作家の佐藤愛子がきついことばを使う夫の、その妻に同情しました。「可愛そうね、あなた!」。でも彼女は意外そうな顔をしてこう言いました。「あれでも、あの人、結構やさしいんですよ。あの人どんなときにも決して私の弱点にはふれることをしません」。彼女は足が不自由で強度の近眼でした。
 愛とは何でしょうか。それはどんな場合も逃げ道を残しておいてあげること。これはイエスさまの極意です。イエスさまは罪を罪としてはっきりと指摘なさいます。でも十字架と言う逃げ道を同時に用意してくださっています。私たちは目の前にいる人を袋小路に追い詰めたらいけません。それは愛ではありません。追い詰めてもいいのは将棋だけです。決して逃げ道を塞ぐようなことをしてはいけません。用意された逃げ道としてのトンネルを進むときに人は反省し悔い改めるのです。真に強い人はこのことを理解し、また実行するのではないでしょうか。

 強くなられたあなたに主の祝福を祈ります。


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